第6話 お嬢様、失格ですわ
――その言葉を残して、母は、帰らなかった。
四方の護符が、同時に破れた。
青い光が、紙吹雪のように散る。
結界が消えた。
犬たちが、いっせいに地面を蹴った。
「真琴様!」
坂東先生の声。
桃木剣が、最初の一匹を打ち払う。
黒い犬の身体が宙で折れ、地面へ落ちた。
その腹から、人の腕が飛び出した。
指が土をつかむ。
犬の口が開く。
人の声がした。
「いたい」
次の一匹。
坂東先生が斬る。
「逃げてください!」
分かっている。
立たなければ。
護符を出さなければ。
父の顔をしたものは、四つん這いのまま近づいてくる。
首が横へ折れている。
口は裂けている。
それでも、目だけは父だった。
「真琴」
父の声。
「お前には、無理だ」
偽物だ。
分かっている。
父は、そんな言い方をしない。
できないなら見てこいと言う。
間違えたなら覚えろと言う。
無理だと決めつける人ではない。
頭では、分かっていた。
けれど、身体は違った。
目の前にいるのは父だと、身体だけが信じてしまった。
十二歳の冬。
犬を斬れなかった自分。
母のため息。
女は視えればよい。
お前は、そこまででよい。
昔の声が、頭の中で重なる。
息が吸えない。
胸が動かない。
指から、桃木剣が落ちた。
地面へ当たったはずなのに、音がしなかった。
「立って」
自分へ言う。
「立ちなさい」
膝に力が入らない。
父の顔をしたものが、目の前で口を開いた。
喉の奥から、黒い犬の頭がもう一つ出てきた。
同じ身体に、二つの口。
二つとも、わたくしを見ている。
見てる。
見てる。
見てる。
視界が狭くなる。
坂東先生の背中が遠ざかる。
世界が、細い筒の向こうへ引いていく。
最後に見えたのは、こちらへ飛びかかる父の顔だった。
そこで、何も分からなくなった。
◇
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
土。
汗。
焦げた紙。
それから、坂東先生の衣に染みついた、白檀の匂い。
身体が揺れている。
誰かに運ばれている。
頬が、硬いものへ当たっていた。
肩だった。
「……坂東、先生」
声が、うまく出ない。
坂東先生が足を止めた。
「真琴様?」
「わたくし……」
目を開ける。
木々が、逆さまに流れていた。
わたくしは、坂東先生の背に負われていた。
「下ろして、くださいませ」
「もう少し離れてからです」
「下ろしてください」
声が思ったより強く出た。
坂東先生は、道の端へ膝をついた。
ゆっくり、わたくしを下ろす。
足が地面へ触れた。
力が入らない。
木の幹へ手をつく。
「どれくらい?」
「十分ほどです」
「犬たちは?」
「追ってきていません」
「なぜ」
「分かりません。門の方角へ逃げたところで、急に止まりました」
逃げられた。
坂東先生が、わたくしを背負って。
一人で犬たちを退けながら。
わたくしは何もしていない。
気を失っていただけだった。
唇を噛んだ。
そのとき、下半身に冷たい感触があることに気づいた。
白袴が、脚へ貼りついている。
雨は降っていない。
川へ入った覚えもない。
手で触れる。
湿っていた。
何が起きたのか分かるまでに、少し時間がかかった。
「……え」
声が漏れた。
身体の奥から、一気に熱が上がった。
顔も。
首も。
耳まで熱い。
「わたくし、これ……」
坂東先生は、こちらを見なかった。
荷物の中から、畳んだ布を出している。
「田中さんが、替えの袴を入れてくださっています」
「聞いておりません」
「言えば、真琴様がお怒りになると」
「当然ですわ!」
声が裏返った。
怒った直後、情けなくなった。
田中は知っていた。
坂東先生も想定していた。
初めて強い怪異を見れば、身体がどうなるのか。
知らなかったのは、わたくしだけだった。
「見ないでくださいませ」
「見ません」
「絶対に」
「はい」
「お父様にも」
坂東先生の手が、一瞬止まった。
「報告は必要です」
「そこだけ削ってください」
「できません」
「では、婉曲に」
「努力します」
努力では困る。
けれど、それ以上言う力がなかった。
木立の陰で、袴を替えた。
濡れた布を畳む手が震えた。
涙は出なかった。
出るなら、いっそ出てほしかった。
恥ずかしさだけが、身体の内側へ残っている。
陰陽師の装束。
母も着た白。
祖母も着た白。
それを汚した。
怪異を前に失神して。
失禁して。
坂東先生に背負われて逃げた。
お嬢様、失格ですわ。
陰陽師どころではない。
大津家の娘としても、失格だ。
着替えを終えても、木立から出られなかった。
坂東先生は、少し離れた場所で待っている。
急かさない。
慰めもしない。
その優しさが、いまはつらかった。
「坂東先生」
「はい」
「お父様も、ございましたの?」
聞いてから、何を訊いているのだろうと思った。
こんなこと、知りたくない。
でも、坂東先生は答えた。
「初陣で、失神されています」
「……失神だけ?」
沈黙。
木の向こうで、坂東先生が咳払いをした。
「身体の反応は、人それぞれです」
「答えになっておりませんわ」
「当主様の名誉に関わりますので」
つまり。
あったのだ。
あの父にも。
千年続く大津家の当主にも。
少しだけ、息が楽になった。
笑う気にはなれない。
安心したとも言いたくない。
ただ、わたくしだけではなかった。
「失神は、身体が意識を切って、脳を守る反応です」
坂東先生が言った。
「失禁も、強い恐怖や衝撃を受けた身体に起こることがあります」
「慰めですの?」
「事実です」
「わたくしは、何もできませんでした」
「生きています」
短い言葉だった。
「私も、生きています」
返せなかった。
もし、あそこで無理に意識を保っていたら。
動かない身体で、犬たちに囲まれていたら。
坂東先生は、わたくしを守りながら戦い続けていた。
二人とも戻れなかったかもしれない。
身体が、先に逃げた。
わたくしの意地も、家の名前も無視して。
生きるほうを選んだ。
そう考えても、恥ずかしさは消えなかった。
消えなくてよいのかもしれない。
いま、立てれば。
わたくしは木立から出た。
坂東先生が、こちらを見る。
顔には何も出さなかった。
ありがたかった。
「戻りましょう」
「車へ、ですね」
「いいえ」
桃木剣を拾い上げる。
手はまだ震えていた。
「村へ戻ります」
坂東先生の眉が動いた。
「一度、態勢を整えるべきです」
「その間に、隼くんまで犬へ変わります」
「しかし」
「怖いです」
初めて、口にした。
「いまも、逃げたいです。足も震えています。次に同じものを見たら、また気を失うかもしれません」
桃木剣の柄を握り直す。
「それでも、戻ります」
「家のお役目だからですか」
坂東先生の問いに、首を振った。
「奈緒さんが、帰りたいと言いました」
片桐奈緒。
三年間、犬の身体へ閉じ込められている。
あの人の目は、まだ人だった。
「わたくしが斬れなかったせいで逃がしました。今度は、斬るためではなく、連れ戻すために行きます」
坂東先生は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「お供します」
わたくしたちは、来た道を戻った。
音のない門が、木々の向こうに見えてくる。
先ほどまで、犬たちがいた道。
いまは、一匹もいない。
家々の玄関も、暗いままだった。
静かすぎる。
わたくしは足を止めた。
「坂東先生」
「はい」
「犬たちが追ってこなかったのは、わたくしたちを逃がしたからではありません」
道の土を見る。
無数の犬の足跡が、神社の方角へ続いている。
全員が、同じ場所へ移動していた。
「戻る必要が、なかったんです」
遠く。
神社のほうから。
カタ、と音がした。
音の死んだ村で。
何かが、木の戸を開けた音だった。
続いて。
幼い男の子の声がした。
「おねえちゃん」
隼くんの声だった。
「もう、ぼく、犬になっていい?」
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