↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怖がりな女子大生陰陽師は、怪異より先に人間を調べる~  作者: K3/KASANE
犬神の里編  ※大学生編からでも読めます。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/143

第5話 見てる、見てる、見てる

「……たすけて……まこっちゃん……」


 黒い毛並みの獣が、幼い少女の声で呟いた。

 そのあだ名でわたくしを呼ぶ人間を、わたくしは生涯でたった一人しか知らない。

 けれど、その人間が四国の山奥の廃村にいるはずなど毛頭なかった。


 昨日まで、神宝町の古びたアパートにいたはずだ。

 昨夜も携帯電話で短く言葉を交わしたばかりである。

 こちらの行き先など、何ひとつ伝えてはいない。


「返事をしてはなりません」


 背中を合わせた坂東先生が、低く鋭い声で戒める。


「分かっていますわ」


 うっかり返答すれば、相手の声とこちらの魂のあいだに不可視の道が通ってしまう。

 名を呼ばれ、それに唯々諾々と応じた瞬間に術者の支配下へ落ちる呪法は、枚挙にいとまがない。


 黒い獣が、再びその裂けた顎(あぎと)を開いた。


「まこっちゃん」


 声音は、背筋が寒くなるほど酷似していた。

 声の高さも。

 語尾がわずかに鼻にかかる独特の響きも。


 けれど――決定的に違う。


 本物のあの子なら、仮に絶体絶命の危機に陥ったとしても、泣き言を漏らして他人に救いを求めたりはしない。

 怯えながらも、まず目の前の事態を冷徹に疑う。


 それから、こちらの腹が立つほど勝手に、ひとりで活路を開いて突き進んでいくのだ。


「偽物ですわ」


 黒い獣の耳が、ぴくりと痙攣した。


「声はよく似せておいでですけれど。あの方は、わたくしを罠へ誘い込むなら『来て』などと懇願したりはいたしません」


 たぶん。

 とっくに罠のど真ん中に踏み入った後で、勝ち誇ったように笑いながらネタ明かしをしてくる。


 そこまで思考を巡らせると、強張っていた胸の奥がわずかに落ち着きを取り戻した。

 声の波形は模倣できても、人間の魂の形までは偽装しきれない。


「これは、手首の刻印を通じて、わたくしの記憶から声を掠め取っています」

「先ほどの、爪の傷ですか」


 右の手首へ視線を落とす。

 片桐奈緒につけられた黒い線が、皮下で蛇のように蠢き、不自然な脈動を繰り返していた。


 この呪詛の緒を中継点にして、わたくしの脳裏を覗き見ているのだ。

 そして記憶の抽斗(ひきだし)から、もっとも足を止めさせやすい『声』を拾い上げたにすぎない。


「切断できますか」

「やってみますわ」


 左手で痛む手首を掴み、右手に握った桃木剣の切っ先を黒い線へあてがう。

 生身の皮膚を切り裂くのではない。

 肉体の奥へ侵食した異質の念だけを、術理によって削ぎ落とすのだ。


 深く、長く息を整える。

 周囲を取り囲む犬たちは、ぴたりと身動きを止めていた。

 開け放たれた民家の暗がりから、無数の瞳がわたくしたちを凝視している。


 一匹。

 二匹。

 十匹。


 いや、それどころではない。

 何十対もの瞳のすべてが、獣のそれではなかった。人の濁った光を宿したまま、じっと見つめている。


「祓へ給ひ」


 桃木剣の刃先を、手首の黒い筋へと押し当てる。


「清め給へ」


 切っ先を手首へ押し当てた瞬間、全身の毛穴から冷汗が噴き出した。

 痛覚ではない。記憶の領域を土足で踏み荒らされる精神の激痛だ。

 神宝町の中華料理屋で煙草をくゆらせるあの子の横顔。


 京都の冷え切った座敷で星図盤を睨みつける父の横顔。

 そして――あの雪の日、雪解け水を血で染めながら喉を鳴らしていた野犬の濁った瞳。


 無防備な記憶の断片が、濁流のように頭蓋の裏側へ氾濫する。


(……わたくしの頭の中に、勝手に踏み入るな!)


 魂の底からの拒絶とともに、一気に剣を引いた。

 皮膚を破って黒い線が糸のように抜け落ち、勢いよく宙へと飛び散る。


 その糸の先端は、目の前に座す一匹の黒い獣の口腔へと繋がっていた。

 先ほど、少女の声色を吐き出した犬だ。


「見つけましたわ」


 手首を返し、桃木剣の刃で黒い糸を一文字に断ち切る。


 ぱちん。

 張り詰めた鉄線が跳ねるような凄まじい衝撃が、刀身を伝って右腕の骨を震わせた。

 手首の皮膚から黒い煤が噴き上がり、焼け焦げた髪のような悪臭が鼻を衝く。


 切断の反動で一歩よろめいたわたくしの眼前で、少女の声を出していた獣が、口腔からタール状の黒血を吐き散らしながらのけぞった。


「……まこ……」


 最期に漏れた細い呼称が霧散した瞬間、世界はただの、血に飢えた肉食獣の檻へと様変わりした。


 犬の眼球が、異様な変色を見せる。

 人の懊悩を宿していた瞳が、純然たる獣の凶芒へと反転した。

 金色の瞳孔が細い針のように収縮する。


 喉の奥から、地響きのような唸り声が漏れ出した。

 今度は、正真正銘の飢えた獣の咆哮だった。


「来ます!」


 坂東先生が白樫の木刀を構え直す。

 獣が濡れた地面を力任せに蹴った。

 速い。


 黒い肉塊が、わたくしの喉元を狙って跳躍してくる。

 剣を振るう。

 首を落とすのではなく、前脚の腱を狙って刃の腹を叩きつけた。


 霊木の刀身が触れた瞬間、青い燐光が激しく火花を散らす。


 犬の巨体が横合いへと弾き飛ばされた。

 斬り捨ててはいない。勢いを削いで落としただけだ。


 泥の上に転がった獣は、受身を取る間もなく四肢を踏ん張り、瞬時に起き上がる。

 その隙を突き、別の二匹が左右の死角から同時に飛びかかってきた。


 坂東先生の木刀が一閃した。

 気合一閃の打突が左側の犬の肩口を捉え、木肌から迸る霊光がその肉体を両断するように弾け飛ぶ。


 だが、鮮血は吹き出さなかった。

 傷口から黒い瘴気が噴煙のように立ち上る。

 獣の肉が泥水のように崩れ落ち、その中から――無残な人間の腕が一本、地面へ転が

 り落ちた。


 細く、白くしなやかな女の腕。

 その薬指には、泥に汚れたプラチナの結婚指輪が嵌められていた。


「やはり、元は人間です……!」

「迷っている余裕などありませんぞ!」


 坂東先生が木刀の切っ先で、右から迫るもう一匹の眉間を突いて押し戻す。

 背後でも、濡れた爪が砂利を抉る不穏な音が連続した。


 完全に包囲されていた。

 十匹や二十匹の規模ではない。


 朽ちた民家の暗がりという暗がりから、次々に黒い獣たちが這い出してくる。

 大柄な猟犬の姿をしたもの。


 痩せこけた小型犬の形骸。

 片脚を引きずるもの。

 頭部の半分に人間の皮膚と髪を残したままの、醜悪なキメラ。


 四十七人。

 かつてこの山村で忽然と姿を消した人々が、ことごとく異形へと変貌を遂げてそこに集っていた。


「殺めてはなりません」

「では、どうなさるおつもりですか!」

「縛り上げます」


 懐から護符の束を引き抜く。

 一度に八枚。

 指先で扇状に開き、足元の地面へ向けて鋭く放った。


 宙を舞った紙片が、わたくしたちを取り囲むように八方位の地面へ等間隔に突き刺さる。


「東方、青龍」


 一枚目が青く発光する。


「西方、白虎」


 二枚目が白銀の光を放つ。


「南方、朱雀」

「北方、玄武」


 四方の護符から一条の光柱が立ち昇り、光の幕が連結して直方体の防壁を編み上げた。


 飛びかかってきた数匹の犬が、不可視の壁に激突して火花を散らす。

 ドスン、と鈍い衝撃音。

 続けて二度、三度。


 光の結界の周囲を、夥しい数の黒い犬たちが狂乱して取り囲んだ。

 牙を剥き出しにして噛みつき、鋭利な爪で光の幕を激しく引っ掻く。

 その衝撃を受けるたび、地面の護符が悲鳴を上げるように微動した。


「長くは保ちませんぞ」


 坂東先生が油断なく木刀を構えたまま警告する。


「分かっておりますわ」


 ここに留まって敵を迎え撃つのではない。

 彼らを元の姿へ戻す術理を探し出さねばならないのだ。


 そのためには、すべての元凶である山頂の犬神神社へ到達する必要がある。

 泥の上に残された足跡も、手首の刻印が示す引力も、すべては集落の最奥へと収束していた。


「この結界ごと、前進いたします」

「移動結界を……? 陣を展開したまま歩くおつもりですか」

「机上の理論は習いましたわ」

「実戦で成功させた経験は」

「ただの一度もございません」


 坂東先生が、わずかに息を呑んで沈黙した。


「……正直に申し上げたまでですわ」

「今この場で聞きたくはなかった告白ですな」

「同感ですこと」


 手にした桃木剣の切っ先を地面へ向け、護符へ絶え間なく霊力を注ぎ込む。

 四角い光の檻が、軋むような音を立てて数寸ほど前へ滑り出した。

 結界に爪を立てていた犬たちも、光の壁にへばりついたまま、ズルズルと引きずられるように移動する。


 重い。

 四十七人分の生霊の怨嗟が、結界全体を後ろへ引き戻そうと鉛のようにのしかかってくる。

 一歩。

 もう一歩。

 参道の石段を目指し、すり足で前進する。


 結界を隔てた至近距離で、犬たちの声が幾重にも重なり合って耳朶を打った。

 低く濁った唸り声。

 引き裂くような咆哮。


 そして――獣の喉の隙間から漏れ出る、生々しい人間の嗚咽。


 ――たすけて。

 ――かえりたい。

 ――いたい、くるしい。


 情念の残滓が、怨嗟の叫びとなって鼓膜に突き刺さる。

 耳を傾けてはならない。


 情に流されれば、その瞬間に歩みが止まり、結界の維持が瓦解する。

 それでも、耳を塞ぐことだけはできなかった。

 この消された人々の声を聞き届けるためにこそ、わたくしはここに立っているのだから。


 前方を凝視していた坂東先生が、低く告げた。


「鳥居が見えてきました」


 鬱蒼とした杉木立の切れ目に、苔むした黒木づくりの鳥居が立ち尽くしていた。

 その奥には、山頂の社殿へと続く崩れかけた石段が見える。

 神社は近い。


 あと数十歩――そう確信した、まさにその刹那だった。


 結界の真正面に陣取っていた一匹の犬が、不意に狂乱を止め、その場に棒立ちとなった。

 異様な体躯の獣だった。


 まるで懐妊しているかのように、下腹部だけが風船のように丸く膨張している。

 犬は呻き声を上げながら、泥濘(ぬかるみ)の上へ横倒しに倒れ伏した。

 苦悶に満ちた仕草で、後ろ脚を激しく痙攣させる。


「何を……しているのです?」


 次の瞬間、その異常に膨らんだ腹の内側から、何者かが皮膚を突き上げた。

 薄い毛皮の下に、はっきりと人間の掌の輪郭が盛り上がる。

 細長い五本の指。


 内側から外側へと、腹壁を力任せに押し広げようとする不気味な蠢動。


 ピシリ、と皮膚が裂ける音が響いた。

 犬の腹部が、正中線に沿って左右へと引き裂かれる。


 赤い血は流れ出なかった。

 タールのような粘り気のある黒い体液が、ドロリと湿った地面へ溢れ出す。


 その引き裂かれた腹腔の裂け目から、ずぶりと人間の頭部が這い出してきた。

 若い男の姿だった。


 両目を閉じたまま、血糊にまみれた肩を犬の腹から抜き出そうと悶えている。

 男の蒼白な唇が、力なく開いた。


「……たすけて……」


 その直後。

 男の瞼が、カッと見開かれた。


 息が止まった。

 わたくしを射抜いたその眼光は――父と、まったく同じ色をしていた。


 冷徹に澄み渡った、大津家当代当主の双眸。

 顔立ちも。

 骨格も。


 犬の腹膜を破って這い出してきた男の相貌が、京都の屋敷で伏せっているはずの父の姿へと急速に上書きされていく。


「真琴」


 結界の内側にいながら、全身の血液が瞬間凍結したように凝固した。


「犬を、斬れ」


 低く、厳格な父の声そのものだった。

 違う。

 偽物だ。

 幻覚にすぎない。

 頭では十全に理解している。


 理解しているはずなのに、桃木剣を握る指先が麻痺したように強張り、金縛りに遭ったように動かない。


 男の首が、骨を砕きながら直角に折れ曲がった。

 父の厳めしい貌(かんばせ)を残したまま、獣のように前肢を地面へ突き、四つん這いになる。


「斬れないというのなら」


 父の顔をした怪異の口角が、耳の付け根まで一文字に裂開した。

 剥き出しになった無数の牙が、ギラリと鈍く光る。


「お前が、犬になれ」


 その呪詛が木霊した刹那、四方位の護符が爆縮するように黒炎を噴き上げた。

 砕け散った光の破片が突風となって吹き荒れる。

 衝撃波に足を取られたわたくしの視界を、坂東先生の広い背中が遮った。


「真琴様、伏せろ!」


 白樫の木刀を横一文字に構えた先生の肩口へ、闇の中から跳躍してきた父の貌の怪異が、牙を剥いて激突する。

 バリ、と肉と布の裂ける鈍い音が、耳底に生々しく焼きついた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。