第5話 見てる、見てる、見てる
――守り神が、村を守れなかった夜から。
「……たすけて……まこっちゃん……」
黒い犬が、少女の声で言った。
その呼び方をする人を、わたくしは一人しか知らない。
けれど、その人が四国の廃村にいるはずはなかった。
昨日まで、神宝町にいた。
電話でも話した。
こちらの行き先は伝えていない。
「返事をしてはいけません」
坂東先生が、背中越しに言った。
「分かっています」
返事をすれば、声とこちらの間に道ができる。
名を呼ばれ、応えた瞬間に結ばれる術は多い。
犬は、もう一度、口を開いた。
「まこっちゃん」
声は似ていた。
高さも。
少し鼻へかかる響きも。
でも、違う。
本物なら、こんな時に泣いて助けを求めない。
怖がっても、まず相手を疑う。
それから、腹が立つくらい勝手に動く。
「偽物ですわ」
黒い犬の耳が動いた。
「声は似ています。でも、その方は、わたくしを罠へ呼ぶなら『来て』とは言いません」
たぶん。
もう罠の中に入ってから、笑って教える。
そこまで考えて、少しだけ気持ちが落ち着いた。
声に似せても、人までは似せられない。
「これは、わたくしの記憶から声を拾っています」
「先ほどの印ですか」
手首を見る。
奈緒さんにつけられた黒い線が、皮膚の下で脈打っている。
印を通して、こちらの記憶を覗いている。
その中から、足を止めそうな声を選んだ。
「切れますか」
「やってみます」
左手で手首をつかむ。
右手の桃木剣を、黒い線へ近づけた。
皮膚を斬るのではない。
内側へ入り込んだ念だけを、切り離す。
呼吸を整える。
犬たちは動かない。
家の暗がりから、こちらを見ている。
一匹。
二匹。
十匹。
もっといる。
どれも、目だけが人だった。
「祓へ給ひ」
桃木剣の先を、手首へ当てる。
「清め給へ」
黒い線が、剣へ絡みついた。
冷たいものが、腕の中から引き出される。
痛みはない。
代わりに、頭の奥を直接かき回されるような気持ち悪さがあった。
記憶が、勝手に浮かぶ。
京都の家。
母の背中。
父の桃木剣。
十二歳の冬。
雪の中で牙をむいた犬。
振り下ろせなかった自分の腕。
「真琴様」
「大丈夫、です」
剣を引く。
黒い線が、糸のように皮膚から抜けた。
その先が、一匹の犬の口へつながっている。
先ほど、少女の声を出した犬だった。
「見つけました」
剣を返す。
黒い糸を斬った。
ぱちん。
乾いた音がした。
手首の線が消える。
同時に、犬の口から少女の声が途切れた。
「……まこ……」
最後の一音だけが、空気へ落ちた。
犬の目が変わった。
人の目から、獣の目へ。
金色の瞳孔が細くなる。
低い唸り声が、喉の奥で鳴った。
今度は、本物の犬の声だった。
「来ます」
坂東先生が構える。
犬が地面を蹴った。
速い。
黒い塊が、わたくしの顔へ飛んでくる。
剣を振る。
首ではなく、前脚を狙った。
桃木剣が脚へ触れる。
青い光が散った。
犬の身体が横へ弾かれる。
斬ってはいない。
止めただけ。
犬は地面を転がり、すぐに起き上がった。
その間に、別の二匹が左右から来る。
坂東先生が一匹を斬った。
光の筋が、犬の肩から腹へ走る。
血は出なかった。
黒い煙が噴き出した。
犬の身体が崩れ、人の腕が地面へ落ちた。
細い、女の腕だった。
指に、結婚指輪がある。
「やはり、人です」
「迷っている余裕はありません!」
坂東先生の剣が、もう一匹を押し返す。
後ろでも、爪が地面を削る音がした。
囲まれている。
十匹どころではない。
開いた家の中から、次々に犬が出てくる。
大きな犬。
小さな犬。
片脚を引きずる犬。
顔の半分が人のままの犬。
四十七人。
この村で消えた人たち。
全員が、ここにいる。
「殺しては、いけません」
「では、どうします」
「縛ります」
護符の束を抜く。
八枚。
地面へ放つ。
紙は、わたくしたちを囲むように広がった。
「東方、青龍」
一枚目が青く光る。
「西方、白虎」
二枚目。
「南方、朱雀」
「北方、玄武」
四方の護符から光が立ち上がる。
四角い結界が、わたくしたちの周囲を囲んだ。
飛びかかってきた犬が、光へぶつかる。
鈍い音。
続けて、二度、三度。
結界の外へ、黒い犬たちが集まってくる。
牙をむく。
爪で光を引っかく。
そのたびに、護符が震えた。
「長くは持ちません」
坂東先生が言う。
「分かっています」
倒すのではない。
戻す方法を見つける。
そのためには、犬神神社へ行く必要がある。
足跡も、印も、すべて村の奥へ続いている。
「結界ごと、少しずつ進みます」
「移動結界を?」
「習いました」
「成功したことは」
「ございません」
坂東先生が黙った。
「正直に申し上げただけですわ」
「今でなくてもよかったと思います」
「同感です」
護符へ力を流す。
四角い光が、ほんの少し前へ動いた。
犬たちも、結界へ張りついたまま動く。
重い。
四十七人分の念が、結界を後ろへ引いている。
一歩。
もう一歩。
神社のある方角へ進む。
犬たちの声が重なった。
唸り。
吠える声。
人の泣き声。
助けて。
帰りたい。
痛い。
言葉が、獣の声の間から漏れてくる。
聞いてはいけない。
聞けば、足が止まる。
それでも、耳を塞ぐことはできなかった。
この声を聞くために来たのだ。
坂東先生が、前方を見た。
「鳥居が見えます」
木々の奥に、黒い鳥居が立っている。
その先に、石段。
神社は近い。
あと少し。
そのときだった。
結界の外にいた一匹の犬が、急に動きを止めた。
腹の大きな犬だった。
妊娠しているように、腹だけが異様に膨らんでいる。
犬は、地面へ横たわった。
苦しそうに脚をばたつかせる。
「何を……」
腹の内側から、何かが押した。
皮膚が、人の手の形に盛り上がる。
五本の指。
内側から、外へ。
犬の腹が、左右へ裂けた。
血は出なかった。
黒い液体が、地面へ流れ落ちる。
その中から、人の頭が出てきた。
若い男だった。
目を閉じたまま、犬の腹から肩まで這い出してくる。
口が開いた。
「たすけて」
次の瞬間。
男の目が開いた。
父と、同じ目をしていた。
顔も。
声も。
犬の腹から出てきた男が、父の顔で、わたくしを見た。
「真琴」
結界の中で、身体が凍った。
「犬を、斬れ」
父の声だった。
違う。
偽物だ。
分かっている。
分かっているのに。
男の首が、横へ折れた。
父の顔のまま、四つん這いになる。
「斬れないなら」
口が、耳まで裂けた。
「お前が、犬になれ」
四方の護符が、同時に破れた。
慈恩は言いました。「ぼくの前に、誰かが入ってるはず」
真琴も聞かされます。「そちらが、本命かもしれん」




