第4話 音が、死んでいた
――同じ夏。京都の、千年の家にも、報せは届いた。
「……ま……こ……と……」
天井の女が、わたくしの名前を呼んだ。
板の隙間から垂れた髪が、ゆっくり揺れている。
風はない。
女自身が、天井裏で身体を動かしているのだ。
「真琴様。下がってください」
坂東先生が、わたくしの前へ出た。
桃木剣を天井へ向ける。
女の顔が、もう少し下りてきた。
額。
目。
鼻。
口。
逆さまの顔が、板の隙間から押し出されている。
人の頭が通れる幅ではない。
それなのに、頭蓋の形を変えながら、少しずつこちらへ出てくる。
骨が、きしんだ。
本来なら鳴らないはずの村で。
その音だけが、耳の奥へ届いた。
女の口が開く。
「ま……こ……と……」
「なぜ、わたくしの名前を知っていますの?」
返事はない。
女の目は、わたくしを見ていなかった。
焦点が合っていない。
目の前にいる人間へ呼びかけているのではない。
聞こえてきた音を、そのまま返しているだけだ。
「坂東先生」
「はい」
「この方、わたくしを呼んでいるのではありません」
先ほど、坂東先生が何度も呼んだ。
真琴様。
下がってください。
女は、それを聞いていた。
覚えて。
真似をしている。
「言葉を話しているように見せています。でも、意味は分かっていません」
女の首が、不自然に折れた。
逆さまの顔が、真っすぐこちらを向く。
「……下がって……ください……」
今度は、坂東先生の言葉だった。
「やはり」
人の姿。
人の声。
けれど、もう、人と同じようには考えられない。
犬へ変わる途中で、言葉の意味から失っている。
「祓います」
坂東先生が桃木剣を引いた。
「待ってください」
「あれは、もう襲います」
「分かっています。でも、まだ人です」
「真琴様」
「一度だけ」
わたくしは、護符を一枚抜いた。
人差し指と中指で挟む。
女の顔を見上げた。
「あなたのお名前を、教えてくださいませ」
「……お名前を……」
「真似ではなく、あなたの名前です」
女の口が止まった。
初めて、表情らしいものが動いた。
眉が寄る。
思い出そうとしている。
まだ残っている。
人だった自分が、どこかに。
「お名前は?」
「……な……」
女の喉が鳴った。
「な?」
「な……お……」
「なおさん?」
名簿を思い出す。
四十七人の中に、ナオという名があった。
七人目の失踪者。
三年前、廃村の写真を撮りに入った大学生。
片桐奈緒、二十一歳。
「片桐奈緒さんですの?」
女の目が、わずかに動いた。
初めて、わたくしを見た。
「……かえ……り……」
「帰れます」
口から、先に言葉が出た。
根拠はない。
戻せる術があるかも分からない。
それでも、帰れないとは言えなかった。
「あなたを、ここから出します」
護符へ息を吹きかける。
墨で書いた《縛》の字が、青く光った。
「急急如律令」
護符を放る。
紙は天井へ吸いつき、女の額へ貼りついた。
青い光が、天井裏へ広がる。
女の身体が止まった。
いまなら、下ろせる。
「坂東先生、天井を」
「承知しました」
坂東先生が剣の柄で板を突いた。
一枚目が割れる。
二枚目を外す。
黒い髪が、まとまって落ちてきた。
その奥に、女の身体があった。
天井の梁へ、四つん這いで張りついている。
服は泥と血で汚れていた。
両手の指が異様に長い。
爪は黒く、曲がっている。
脚は、人の形を保っていなかった。
膝から下が逆向きに折れ、犬の後ろ脚へ変わりかけている。
それでも、顔はまだ人だった。
「奈緒さん」
呼ぶと、唇が動いた。
「……かえり……たい……」
「はい」
手を伸ばす。
奈緒さんの指も、こちらへ伸びた。
黒い爪。
その下に、大学生だったころの細い指が残っている。
指先が触れる。
冷たい。
死者の冷たさではない。
ずっと日の当たらない場所に閉じ込められていた、生きた人の冷たさだった。
直後。
護符に、黒い染みが浮いた。
「真琴様、離れて!」
坂東先生の声。
護符が破れた。
奈緒さんの口が、耳まで裂けた。
人の歯が抜け落ちる。
その奥から、犬の牙が伸びた。
わたくしの手首へ噛みつこうとする。
避けられない。
そう思った。
坂東先生の桃木剣が、横から入った。
牙を受け止める。
十二歳の冬と、同じだった。
木へ牙が食い込む。
奈緒さんの喉から、犬の唸りが漏れた。
「下がって!」
坂東先生が押し返す。
わたくしは、一歩下がった。
桃木剣を構える。
いま斬れば、止められる。
奈緒さんの首は、目の前にある。
剣を振り下ろせばよい。
けれど。
裂けた口の上で、目だけが泣いていた。
帰りたい。
さっき、そう言った人の目だった。
腕が動かない。
「真琴様!」
奈緒さんが、桃木剣を噛んだまま身体をひねった。
梁が折れる。
天井板がまとめて落ちてきた。
坂東先生が、わたくしを抱えて廊下へ転がる。
背中に、板の破片が当たった。
痛み。
埃。
腐った木の匂い。
身体を起こす。
奈緒さんは、いなかった。
天井に大きな穴が開いている。
屋根の一部も抜けていた。
外へ逃げたのだ。
「追います」
立とうとすると、膝が震えた。
坂東先生が腕を支える。
「お怪我は」
「ありません」
「手首を」
見る。
奈緒さんの爪が触れた場所に、細い黒い線が残っていた。
藤原姉弟の首にあったものと、同じ色だった。
「印を、つけられました」
黒い線が、皮膚の下で少しずつ伸びている。
腕から肩へ。
村の奥へ引かれるように。
奈緒さんは逃げたのではない。
わたくしを、次の場所へ呼んでいる。
「追いましょう」
「罠です」
「ええ」
「分かっていて?」
「奈緒さんは、名前を答えました」
完全に犬へ変わってはいない。
戻れる可能性がある。
それを確かめる前に、斬ることはできない。
家を出る。
村の道には、奈緒さんの足跡が残っていた。
最初は、人の手と膝。
少し先で、犬の四つ足へ変わっている。
足跡は、神社のある方角へ続いていた。
わたくしたちは、その跡を追った。
道の両側に、開いた家が並んでいる。
一軒目を通り過ぎたとき。
天井から声がした。
「……ま……こ……と……」
立ち止まる。
次の家からも。
「……まこと……」
向かいの家。
奥の家。
崩れかけた納屋。
床下。
井戸の中。
村じゅうから、声がした。
「まこと」
「まこと」
「まこと」
四十七人分の声だった。
男も。
女も。
老人も。
子どもも。
人の声で。
人ではない調子で。
わたくしの名前を呼んでいる。
坂東先生が、背中合わせに立った。
「囲まれました」
「はい」
開いた玄関の暗がりに、目が浮かぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
低い場所に。
人の目ではない高さに。
黒い犬たちが、家の中からこちらを見ていた。
その一匹が、口を開いた。
犬の牙の間から、少女の声がした。
「……たすけて……まこっちゃん……」
呼び方が変わった。
その名で、わたくしを呼ぶ人を。
わたくしは、一人しか知らなかった。




