第4話 音が、死んでいた
風の音も、遠い沢のせせらぎも、虫の羽音すらもしない。
世界からすべての音が死に絶えたこの廃村で、鼓膜を打つのは、わたくし自身の早鐘のような心臓の鼓動と、坂東先生の低く整えられた呼吸音だけだった。
その死んだ静寂の真上から、ポトリと水滴のような鈍い音が落ちてくる。
水ではない。天井板の隙間から滴り落ちた、生温かい粘液の音だ。
「……ま……こ……と……」
空気を震わせることすら拒絶されたこの空間で、その肉声だけが、油に火を落としたように生々しく鼓膜へこびりついてきた。
板の隙間から垂れ下がる、濡れて黒ずんだ髪がゆっくりと揺れている。
風はない。
女自身が、天井裏の暗がりで身を蠢かせているのだ。
「真琴様、下がってください」
坂東先生が、わたくしを庇うように一歩前へ出た。
白樫の木刀の切っ先を、天井の隙間へ鋭く向ける。
女の顔が、さらにせり出してきた。
額。
濁った目。
潰れた鼻。
剥き出しの唇。
上下逆さまの顔面が、板のわずかな隙間から無理やり押し出されてくる。
人の頭蓋が通れる幅ではない。
それなのに、骨の形を粘土のように歪ませながら、少しずつ、少しずつ外へ這い出してくるのだ。
ギリ、と骨の軋む鈍い音が鳴った。
外の音が死に絶えた部屋に、その湿った異音だけが異様に響き渡る。
女の口が、だらしなく開いた。
「ま……こ……と……」
「なぜ、わたくしの名をご存じなのです?」
返答はない。
女の双眸は、わたくしを捉えてはいなかった。
焦点がまったく合っていない。目の前にいる人間に呼びかけているのではなく、ただ鼓膜に届いた空気の振動を、オウム返しに吐き出しているだけだ。
「坂東先生」
「はい」
「この方、わたくしを認識して呼んでいるのではありませんわ」
先ほど、坂東先生がわたくしに向かって何度も口にした言葉。
――真琴様。下がってください。
女は、その音を拾っていたのだ。
意味も解さぬまま記憶し、ただ反芻している。
「言葉を喋っているように見せて、意味を理解していません」
女の首が、あり得ない角度へポキリと折れた。
逆さまの顔が、正面からわたくしたちを見下ろす。
「……さがって……ください……」
今度は、坂東先生の声色をそっくり真似た音だった。
「やはり」
人の肉体。人の声。
けれど、その内側の思考は、とうに人倫の枠組みを踏み越えている。
犬へと変じゆく過程で、まず言葉の概念から剥ぎ取られているのだ。
「祓います」
坂東先生が木刀の柄を握り直した。
「待ってください」
「あれは、すでに獣です。間もなく襲いかかってきます」
「分かっています。けれど、まだ完全に呑まれてはいません」
「真琴様」
「一度だけ。一度だけ確かめさせてください」
わたくしは懐から護符を一枚抜き、人差し指と中指で挟んで掲げた。
天井から垂れ下がる逆さの顔を見上げる。
「あなたのお名前を、教えてくださいますか」
「……おなまえ……を……」
「真似ではありません。あなた自身の、人間の名です」
女の口唇の動きが、ぴたりと止まった。
その顔に、初めて人間らしい微細な筋肉の揺らぎが走る。
眉間に深い皺が寄る。
思い出そうとしているのだ。
まだどこかに残されているはずの、人であった頃の自分を。
「あなたのお名前は?」
「……な……」
女の喉が、引き裂かれるような音を立てた。
「な?」
「な……お……」
「なおさん?」
脳裏に、京都でめくった失踪者名簿を思い浮かべる。
四十七名の記録の中に、確かにその名があった。
七人目の失踪者。三年前、廃墟の写真を撮るために単身で山へ分け入った大学生。
――片桐奈緒、当時二十一歳。
「片桐奈緒さんですのね?」
女の瞳の奥で、光がわずかに明滅した。
初めて、その視線が真っ直ぐにわたくしを捉える。
「……かえ……り……」
「帰れます」
頭で損得を計算するより先に、言葉が唇を突いて出た。
確たる勝算などない。人間に戻す手立てがあるのかすら分からない。
それでも、帰れないと切り捨てることだけはできなかった。
「あなたを、この暗闇から連れ出します」
護符の朱墨へ、鋭く息を吹きかける。
中央に記された《縛》の呪文字が、青白い燐光を放った。
「急急如律令」
指先を弾く。
宙を走った護符は吸い寄せられるように天井へと跳び、女の額へぴたりと張り付いた。
青い光芒が波紋のように天井裏へと広がり、女の痙攣が止まる。
いまなら、引き戻せる。
「坂東先生、天井板を」
「承知」
坂東先生が木刀の柄頭で天井板を下から突き上げた。
腐食した一枚目が激しく砕け散る。
二枚目を引き剥がした瞬間、黒髪の塊とともに、女の全貌が滑り落ちてきた。
もはや人の輪郭を留めぬ異形の肉塊。
骨の軋む鈍い音とともに、関節が逆流するように組み換わっていく。
獣の後ろ脚へと変形した膝が、梁の木肌を爪でガリガリと引っ掻いていた。
泥と古血にまみれた皮膚の下で、筋肉が波打つようにうごめいている。
両手の指は異様に節くれだって伸び、爪は黒く肥大して鉤爪のように内側へ湾曲していた。
けれど、その異形の喉仏から漏れ出たのは、紛れもない女子大生・片桐奈緒の哀願だった。
「……かえり……たい……」
「ええ」
わたくしは、右手を上へと伸ばした。
奈緒さんの異形の手も、ためらいがちに下へと伸びてくる。
伸ばされた指先の、黒い鉤爪の根元に残る爪紅の剥げた痕跡。
それは彼女が生きて街を歩き、友人と笑い合っていた日常の、あまりに痛ましい残骸だった。
指先と指先が、触れ合う。
冷たい。
けれどそれは、死霊の凍てつく冷気ではなかった。
陽の光を遮られた冷暗所に長年閉じ込められてきた、生きた人間の皮膚の冷たさだ。
こんなにも生々しく人が零れ落ちているものを、ただの怪異として切り捨てることなど、わたくしの太刀筋には許されていない。
――その直後。
額の護符の中心に、じわりと黒い染みが滲み出た。
「真琴様、下がれ!」
坂東先生の怒号が響く。
バツン、と乾いた音を立てて護符が裂け散った。
奈緒さんの口角が、耳の付け根まで裂開する。
並んでいた白い歯が抜け落ち、歯茎を突き破って鋭利な犬の牙が突出した。
獣の顎が、わたくしの伸ばした手首へ食らいつこうと迫る。
――躱せない。
そう覚悟した瞬間、横から坂東先生の木刀が電光石火で割り込んだ。
白樫の木肌へ、剥き出しの牙が深々と食い込む。
十二歳の冬と、寸分違わぬ光景だった。
奈緒さんの喉の奥から、怨嗟に満ちた犬の唸り声が轟く。
「下がってください!」
坂東先生が力任せに木刀を押し返した。
わたくしは咄嗟に身を引く。
背中から桃木剣を抜き放ち、両手で構えた。
いま、この切っ先を振り下ろせば止められる。
無防備な奈緒さんの頸動脈は、切っ先のわずか数寸先にある。
けれど。
耳まで裂けた異形の口元の上で、その双眸だけが、ぽろぽろと大粒の涙を零していた。
――帰りたい。
先ほど、確かにそう希求した人間の瞳。
わたくしの両腕が、鉛を流し込まれたように固まる。
「真琴様!」
木刀を噛み砕かんばかりに顎を震わせ、奈緒さんが身を捩った。
梁がへし折れ、天井板の残骸が一斉に頭上から崩落してくる。
「くっ……!」
坂東先生がわたくしの腰を抱き寄せ、畳から板張りの廊下へと転がり出た。
背中を強打する破片の衝撃。
舞い上がる白煙のような埃。
腐朽した古木の臭気が鼻腔を衝く。
身を起こしたときには、もう奈緒さんの姿は消えていた。
天井にはぽっかりと巨大な風穴が開き、その上の野地板まで突き破られている。
屋根を伝って外へ逃走したのだ。
「追います」
立ち上がろうとした瞬間、膝が情けなく震えた。
坂東先生が素早く腕を差し入れ、身体を支えてくれる。
「お怪我は」
「……ありませんわ」
「手首を」
促されて右の手首へ視線を落とす。
奈緒さんの爪先が触れた皮膚の上に、炭を刷り込んだような黒い刻印が浮かび上がっていた。
藤原姉弟の首筋にあったものと同じ――獣の歯形を模した呪詛の緒。
皮下で血管が不自然に脈動し、黒い筋が蛇のように肘へ向かって這い進んでいく。
チリチリと皮膚を焼かれるような熱さと、骨の芯を直接凍らせるような冷気が同時に走った。
集落の最奥――あの神社から、目に見えない鎖で手首を強く手繰り寄せられているような感覚。
「印を、付けられましたわね」
(……なるほど。わたくしも、あの四十七人の列に並ばせるおつもりですのね)
わたくしは左手で痛む手首を固く押さえ、喉元までせり上がった怖気を無理やり呑み込んだ。
「追いましょう」
「敵の誘い込みです」
「ええ、百も承知です」
「それでも?」
「奈緒さんは、ご自身の名前を思い出しました」
完全に怪異へ成り果ててはいない。
人としての魂を繋ぎ止められる可能性が、まだわずかに残されている。
その可能性を己の手で見極める前に、斬り捨てることなど到底できない。
廃屋の玄関口から外へ踏み出す。
ぬかるんだ土の上には、奈緒さんの残した痕跡が点々と刻まれていた。
最初は、引きずられた掌と膝の跡。
数メートル先からは、完全に獣の四つ足の爪痕へと変貌している。
足跡の向かう先は、山肌へと続く神社の参道だった。
わたくしたちは、その獣道を急いだ。
道の両脇には、内側から開け放たれた無数の民家が並んでいる。
一軒目の廃屋の前を通り過ぎようとした、その時。
一軒の廃屋から漏れ出た声は、瞬く間に村全体の闇へと伝播した。
開け放たれたすべての玄関口。
崩れ落ちた土壁の裂け目。
底の知れぬ古井戸の深淵。
腐朽した雨戸の隙間という隙間から、無数の口が一斉に開く湿った気配がする。
「まこと」
「まこと」
「まこと」
「まこと」
狂った輪唱が、音のない異界の大気をびりびりと震わせる。
土間から、濡れた縁側から、ずるり、ずるりと這い出してくる黒い毛並みの肉塊たち。
かつてスーツを着ていた男、割烹着を着ていた老女、ランドセルを背負っていたはずの子供。
その衣服の残骸を引き裂いて、逆関節の後ろ脚と、垂れ流される濁った涎が月光に濡れていた。
人の言葉を失い、人の形を奪われ、ただ神の飢えを満たすためだけに飼い慣らされた四十七頭の成れの果て。
坂東先生が素早く身を翻し、わたくしの背中へぴったりと寄り添う。
「囲まれましたね」
「ええ、そのようですわ」
人の背丈ではない。地を這う獣の目線に並んだ、数十対の飢えた瞳。
逃げ場のない包囲網のただ中で、最前列の一匹がずるりと身を乗り出し、顎を開いた。
剥き出しの牙の間から漏れ出たのは、聞き覚えのある幼い少女の声だった。
「……たすけて……まこっちゃん……」
呼称が、変わった。
その掠れた幼い声が鼓膜を打った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
息が止まる。
頭の芯が真っ白に抜けていく。
忘れるはずがない。
千年の掟に縛られたあの息苦しい大津の屋敷で、唯一わたくしを「大津家の娘」ではなく、ただの友として呼んでくれた少女の声。
神隠しに遭ったと聞かされ、二度と会えぬまま記憶の奥底に封じ込めていたはずの、あの日の温もり。
(……まさか、あなたまで、この地獄に呑み込まれていたのですか)
構えた桃木剣の切っ先が、激しく震えた。
敵を冷徹に見極める目も、陰陽師としての覚悟も、すべてがその無邪気なあだ名ひとつで粉々に砕け散ろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
時間ができた時随時更新します!
ぜひお楽しみに!
★感想・評価をいただけると、執筆の励みになります。




