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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
犬神の里

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第3話 異界の入口

――行かないで、とは、言えなかった。


 音が、死んでいた。


 門を一歩くぐっただけで、山の気配が消えた。


 鳥も。


 虫も。


 風も。


 わたくしの衣が擦れる音さえ、少し離れた場所で鳴っているように聞こえる。


 坂東先生が、門の外へ片足を戻した。


 落ち葉を踏む。


 ぱり、と乾いた音がした。


 もう一度、村側へ足を入れる。


 同じように落ち葉を踏んだ。


 今度は、鳴らなかった。


「境は、この門です」


「結界でしょうか」


「似ていますけれど、違いますわ」


 普通の結界なら、外から中を隔てる。


 悪いものを入れない。


 あるいは、中のものを逃がさない。


 けれど、ここには膜がない。


 呪力の流れもない。


 ただ、門の内と外で、世界の決まりだけが違っている。


「異界、というほどではありません」


 わたくしは門柱へ触れた。


 木は湿っていた。


 苔も生きている。


 腐ってもいる。


 時間は止まっていない。


「でも、人の住む場所ではなくなっています」


 指先に、ざらりとした感触が残った。


 門柱の裏に、爪で引っかいたような線がある。


 一本。


 二本。


 三本。


 人の爪ではない。


 犬の爪でもない。


 五本の線が、同じ高さに並んでいた。


 まるで、人の手に長い爪だけを付けたような跡だった。


「真琴様」


 坂東先生が、低い声で呼んだ。


 視線の先。


 村の道に、足跡があった。


 泥の上へ、点々と続いている。


 犬の足跡だった。


 大きさは、先ほどの白い犬と同じくらい。


 門の外から、村の中へ向かっている。


「あの犬でしょうか」


「分かりません」


 門の手前には、足跡がない。


 門を越えたところから、急に始まっている。


 白い犬は、わたくしたちより先に門へ入った。


 それなら、手前のぬかるみにも跡が残るはずだ。


「途中から、現れていますわ」


 しゃがみ、土へ指を近づける。


 触れる前に、坂東先生が腕を押さえた。


「素手は危険です」


「そうでしたわね」


 少し恥ずかしい。


 見つけると、先へ考えるより先に手が出る。


 父にも、何度も注意されてきた癖だった。


 懐紙を一枚、足跡へかざす。


 紙の端が、ゆっくり黒ずんだ。


 呪いではない。


 獣の気配でもない。


 人の念だった。


 苦しい。


 帰りたい。


 痛い。


 口の中へ、知らない誰かの感情が流れ込んでくる。


 わたくしは、懐紙を離した。


 黒ずみが、すっと消える。


「この足跡、人ですわ」


「人が、犬の足跡を?」


「姿が犬なのか、犬にされたのかは、まだ分かりません。でも、中にあるのは人の念です」


 足跡は、村の中央へ続いていた。


 その左右に、家が並んでいる。


 瓦の落ちた家。


 戸の外れた家。


 庭木が屋根を覆ってしまった家。


 どの家も古い。


 人が住まなくなって、三十年は経っている。


 それなのに。


 玄関だけが、すべて開いていた。


「風で開いたのではありませんわね」


「風は、ありませんから」


 坂東先生が、桃木剣を抜いた。


 わたくしも続く。


 鞘から出した刀身は、淡い木の色をしている。


 その表面に刻まれた文字が、わずかに青く光った。


 前方に何かいる。


 けれど、姿は見えない。


 足跡の途中で、一軒の家だけが新しかった。


 新しい、といっても、ほかより崩れていないだけだ。


 屋根が残っている。


 引き戸も、まだ枠にはまっている。


 表札には、《藤原》とあった。


 わたくしは足を止めた。


「美咲さんと隼くん」


 写真の裏にあった名字と同じだ。


「この村の出身だったのでしょうか」


「政府資料には、書かれていませんでした」


 藤原美咲。


 藤原隼。


 二人は、偶然ここへ来たのではない。


 家の過去を知っていたか。


 知らないまま、呼び戻されたか。


 どちらにしても、政府は二人と村の関係を隠している。


「入ります」


「私が先に」


「いいえ」


 わたくしは、桃木剣を構えた。


「視るのは、わたくしのお役目です」


 女は視えればよい。


 ずっと嫌いだった言葉を、いまは自分で使った。


 少しだけ、おかしかった。


 見えることは、後ろへ控える理由ではない。


 見える者が、最初に確かめるべき場所もある。


 玄関の前へ立つ。


 腐った水の匂いがした。


 それに混じって、獣の匂い。


 もっと奥に、鉄の匂いがある。


 血だ。


「失礼いたします」


 誰もいない家へ、声をかけた。


 返事はない。


 敷居をまたぐ。


 床板が沈んだ。


 音はしなかった。


 玄関には、靴が二足あった。


 白い運動靴。


 子ども用の、小さなスニーカー。


 新しい。


 土も、まだ乾ききっていない。


「二人とも、ここへ来ています」


 美咲と、隼。


 姉弟は、この家へ入った。


 犬の足跡も、玄関へ続いている。


 畳の上まで。


 部屋の中央まで。


 そして。


 そこで途切れていた。


 資料の写真と同じだった。


 外から入って。


 家の中で消える。


 けれど、実物を見て分かったことがある。


「この足跡。入ってきたのではありません」


 坂東先生が、足跡を見る。


「向きは、玄関から中へ向かっています」


「足の向きは、そうです。でも」


 足跡同士の間隔を測る。


 玄関近くは狭い。


 部屋の中央へ行くほど、広くなっている。


 歩いたのではない。


 最初は、小さく。


 少しずつ、大きくなっている。


「犬が入ったのではなく、人が犬へ変わった跡ですわ」


 玄関から、部屋の中央へ。


 人の足跡は残らない。


 代わりに、犬の足跡が少しずつ大きくなる。


 そして最後に、消える。


「失踪者は、犬に食べられたのではありません」


 喉が乾いた。


「犬に、されています」


 その瞬間。


 天井裏で、何かが動いた。


 ずる。


 音の死んだ家で、その音だけが、はっきり聞こえた。


 わたくしと坂東先生は、同時に天井を見上げた。


 板の隙間から、黒いものが垂れている。


 髪だった。


 長い髪が、少しずつ下りてくる。


 その奥に、目が二つあった。


 人の目だった。


 逆さまの顔が、天井板の隙間から、こちらを見ている。


 口だけが、ゆっくり動いた。


「……ま……こ……と……」


 わたくしの名前だった。


 初めて来た村で。


 誰にも名乗っていない家の中で。


 天井の女が、わたくしの名前を呼んだ。



ここまでは、まだ「行ってらっしゃい」の回でした。慈恩を待つ人が、これだけいる。二歳の美月まで、約束させた。

――ここから、慈恩は独りで、犬神村へ向かいます。灯りの届かない場所へ。

犬神村、という名前だけ、覚えておいてください。続きはブックマークから。

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