第3話 異界の入口
1. 修正後の文章
第3話 異界の入口
「……ま……こ……と……」
天井の女が、わたくしの名を呼んだ。
目透かし天井の板の隙間から、黒く濡れた髪が幾筋も垂れ下がり、ゆっくりと揺れている。
風はない。
女自身が、天井裏の暗がりで身を蠢かせているのだ。
「真琴様、下がってください」
坂東先生が、わたくしを庇うように一歩前へ出た。
腰の白樫の木刀へ手をかけ、天井の隙間を鋭く見据える。
女の顔が、さらにせり出してきた。
額。
濁った目。
潰れた鼻。
剥き出しの唇。
上下逆さまの顔面が、板のわずかな隙間から無理やり押し出されてくる。
大人の頭蓋が通れる幅などではない。
それなのに、骨の形を粘土のように歪ませながら、少しずつ、少しずつ外へと這い出してくるのだ。
ギリ、と骨の軋む鈍い音が鳴った。
あらゆる環境音が死に絶えたこの廃村で、その湿った音だけが、耳底へ嫌に鮮明に響き渡る。
女の口が、だらしなく開いた。
「ま……こ……と……」
「なぜ、わたくしの名をご存じなのです?」
返答はない。
女の双眸は、わたくしを捉えてはいなかった。
焦点がまったく合っていない。目の前に立つ生身の人間に呼びかけているのではなく、ただ鼓膜に届いた空気の振動を、オウム返しに吐き出しているだけだ。
「坂東先生」
「はい」
「この方、わたくしを認識して呼んでいるのではありませんわ」
先ほど、坂東先生がわたくしに向かって何度も口にした言葉。
――真琴様。下がってください。
女は、その音を拾っていたのだ。
意味も解さぬまま記憶し、ただ反芻している。
「言葉を喋っているように見えて、意味を理解していません」
女の首が、あり得ない角度へポキリと折れた。
逆さまの顔が、正面からわたくしたちを見下ろす。
「……さがって……ください……」
今度は、坂東先生の声色をそっくり真似た音だった。
「やはり」
人の肉体。人の声。
けれど、その内側の思考は、とうに人倫の枠組みを踏み越えている。
犬へと変じゆく過程で、まず言葉の概念から剥ぎ取られているのだ。
「祓います」
坂東先生が木刀の柄を握り直した。
「待ってください」
「あれは、すでに獣です。間もなく襲いかかってきます」
「分かっています。けれど、まだ完全に呑まれてはいません」
「真琴様」
「一度だけ。一度だけ確かめさせてください」
わたくしは懐から護符を一枚抜き、人差し指と中指で挟んで掲げた。
天井から垂れ下がる逆さの顔を見上げる。
「あなたのお名前を、教えてくださいますか」
「……おなまえ……を……」
「真似ではありません。あなた自身の、人間の名です」
女の口唇の動きが、ぴたりと止まった。
その顔に、初めて人間らしい微細な筋肉の揺らぎが走る。
眉間に深い皺が寄る。
思い出そうとしているのだ。
まだどこかに残されているはずの、人であった頃の自分を。
「あなたのお名前は?」
「……な……」
女の喉が、引き裂かれるような音を立てた。
「な?」
「な……お……」
「なおさん?」
脳裏に、京都でめくった失踪者名簿を思い浮かべる。
四十七名の記録の中に、確かにその名があった。
七人目の失踪者。三年前、廃墟の写真を撮るために単身で山へ分け入った大学生。
――片桐奈緒、当時二十一歳。
「片桐奈緒さんですのね?」
女の瞳の奥で、光がわずかに明滅した。
初めて、その視線が真っ直ぐにわたくしを捉える。
「……かえ……り……」
「帰れます」
頭で損得を計算するより先に、言葉が唇を突いて出た。
確たる勝算などない。人間に戻す手立てがあるのかすら分からない。
それでも、帰れないと切り捨てることだけはできなかった。
「あなたを、この暗闇から連れ出します」
護符の朱墨へ、鋭く息を吹きかける。
中央に記された《縛》の呪文字が、青白い燐光を放った。
「急急如律令」
指先を弾く。
宙を走った護符は吸い寄せられるように天井へと跳び、女の額へぴたりと張り付いた。
青い光芒が波紋のように天井裏へと広がり、女の痙攣が止まる。
いまなら、引き戻せる。
「坂東先生、天井板を」
「承知」
坂東先生が木刀の柄頭で天井板を下から突き上げた。
腐食した一枚目が激しく砕け散る。
二枚目を引き剥がした瞬間、黒髪の塊とともに、女の全貌が滑り落ちてきた。
もはや人の輪郭を留めぬ異形の肉塊。
骨の軋む鈍い音とともに、関節が逆流するように組み換わっていく。
獣の後ろ脚へと変形した膝が、梁の木肌を爪でガリガリと引っ掻いていた。
泥と古血にまみれた皮膚の下で、筋肉が波打つようにうごめいている。
両手の指は異様に節くれだって伸び、爪は黒く肥大して鉤爪のように内側へ湾曲していた。
けれど、その異形の喉仏から漏れ出たのは、紛れもない女子大生・片桐奈緒の哀願だった。
「……かえり……たい……」
「ええ」
わたくしは、右手を上へと伸ばした。
奈緒さんの異形の手も、ためらいがちに下へと伸びてくる。
伸ばされた指先の、黒い鉤爪の根元に残る爪紅の剥げた痕跡。
それは彼女が生きて街を歩き、友人と笑い合っていた日常の、あまりに痛ましい残骸だった。
指先と指先が、触れ合う。
冷たい。
けれどそれは、死霊の凍てつく冷気ではなかった。
陽の光を遮られた冷暗所に長年閉じ込められてきた、生きた人間の皮膚の冷たさだ。
こんなにも生々しく人が零れ落ちているものを、ただの怪異として切り捨てることなど、わたくしの太刀筋には許されていない。
――その直後。
額の護符の中心に、じわりと黒い染みが滲み出た。
「真琴様、下がれ!」
坂東先生の怒号が響く。
バツン、と乾いた音を立てて護符が裂け散った。
奈緒さんの口角が、耳の付け根まで裂開する。
並んでいた白い歯が抜け落ち、歯茎を突き破って鋭利な犬の牙が突出した。
獣の顎が、わたくしの伸ばした手首へ食らいつこうと迫る。
――躱せない。
そう覚悟した瞬間、横から坂東先生の木刀が電光石火で割り込んだ。
白樫の木肌へ、剥き出しの牙が深々と食い込む。
十二歳の冬と、寸分違わぬ光景だった。
奈緒さんの喉の奥から、怨嗟に満ちた犬の唸り声が轟く。
「下がってください!」
坂東先生が力任せに木刀を押し返した。
わたくしは咄嗟に身を引く。
背中から桃木剣を抜き放ち、両手で構えた。
いま、この切っ先を振り下ろせば止められる。
無防備な奈緒さんの頸動脈は、切っ先のわずか数寸先にある。
けれど。
耳まで裂けた異形の口元の上で、その双眸だけが、ぽろぽろと大粒の涙を零していた。
――帰りたい。
先ほど、確かにそう希求した人間の瞳。
わたくしの両腕が、鉛を流し込まれたように固まる。
「真琴様!」
木刀を噛み砕かんばかりに顎を震わせ、奈緒さんが身を捩った。
梁がへし折れ、天井板の残骸が一斉に頭上から崩落してくる。
「くっ……!」
坂東先生がわたくしの腰を抱き寄せ、畳から板張りの廊下へと転がり出た。
背中を強打する破片の衝撃。
舞い上がる白煙のような埃。
腐朽した古木の臭気が鼻腔を衝く。
身を起こしたときには、もう奈緒さんの姿は消えていた。
天井にはぽっかりと巨大な風穴が開き、その上の野地板まで突き破られている。
屋根を伝って外へ逃走したのだ。
「追います」
立ち上がろうとした瞬間、膝が情けなく震えた。
坂東先生が素早く腕を差し入れ、身体を支えてくれる。
「お怪我は」
「……ありませんわ」
「手首を」
促されて右の手首へ視線を落とす。
奈緒さんの爪先がかすめた皮膚の上に、細く黒い線が刻まれていた。
京都で目にした、藤原姉弟の首筋にあったものとまったく同じ――黒い歯形の痣へと連なる刻印。
「印を、付けられましたわね」
皮下を這う黒い線が、生き物のように拍動し、肩へ向かって微かに這い進んでいる。
集落の最奥――あの神社の鎮座する方角へ向けて、見えない力で手繰り寄せられているような感覚。
彼女はただ逃走したのではない。
この印を通じて、わたくしを奥へと誘引しているのだ。
「追いましょう」
「敵の誘い込みです」
「ええ、百も承知です」
「それでも?」
「奈緒さんは、ご自身の名前を思い出しました」
完全に怪異へ成り果ててはいない。
人としての魂を繋ぎ止められる可能性が、まだわずかに残されている。
その可能性を己の手で見極める前に、斬り捨てることなど到底できない。
廃屋の玄関口から外へ踏み出す。
ぬかるんだ土の上には、奈緒さんの残した痕跡が点々と刻まれていた。
最初は、引きずられた掌と膝の跡。
数メートル先からは、完全に獣の四つ足の爪痕へと変貌している。
足跡の向かう先は、山肌へと続く神社の参道だった。
わたくしたちは、その獣道を急いだ。
道の両脇には、内側から開け放たれた無数の民家が並んでいる。
一軒目の廃屋の前を通り過ぎようとした、その時。
一軒の廃屋から漏れ出た声は、瞬く間に村全体の暗闇へと伝播した。
開け放たれたすべての玄関口。
崩れ落ちた土壁の裂け目。
底の知れぬ古井戸の深淵。
腐朽した雨戸の隙間という隙間から、無数の口が一斉に開く気配がした。
「まこと」
「まこと」
「まこと」
「まこと」
四十七名分の声だった。
老若男女の異なる声帯が、狂った輪唱のように重なり合い、音のない異界の大気をびりびりと震わせる。
すべてが人の声帯を持ちながら、およそ生きた人間とは思えない抑揚のない平坦な調子で、わたくしの名を合唱していた。
坂東先生が素早く身を翻し、わたくしの背中へぴったりと寄り添う。
「囲まれましたね」
「ええ、そのようですわ」
闇の中に灯る、無数の濁った光点。
人の背丈ではない。地を這う獣の目線に並んだ、数十対の飢えた瞳。
畳すれすれの、低く這いつくばった位置から、黒い毛並みの獣たちが、一斉にわたくしたちを凝視していた。
その包囲網のただ中で、一匹がずるりと土間へ進み出て、顎を開いた。
剥き出しの牙の間から漏れ出たのは、聞き覚えのある幼い少女の声だった。
「……たすけて……まこっちゃん……」
呼称が、変わった。
背筋を、本物の氷を押し当てられたような悪寒が駆け抜けた。
そのあだ名でわたくしを呼ぶ人間を、わたくしは生涯で、たったひとりしか知らない。
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