第2話 犬を、攻撃できなかった
第2話 犬を、攻撃できなかった
犬を斬れないと自覚したのは、十二歳の冬だった。
相手は怨霊でも、祟り神の類でもない。
大津家の裏庭へ迷い込んできた、骨と皮ばかりの痩せこけた野犬だった。
降り積もる雪の中で、犬は剥き出しの牙をカタカタと鳴らしていた。
濁った涎を垂らし、喉の奥を低く震わせ、わたくしの喉仏を食いちぎろうと身構えている。
手にした桃木剣をそのまま振り下ろしていれば、容易に追い払えたはずだった。
それなのに。
切っ先を構えたわたくしの瞳には、牙の鋭さよりも、その奥に潜む底知れぬ怯えのほうが、先に視えてしまったのだ。
痛ましげに引きずられた後ろ脚。
飢えに耐えかねて浮き出た無残な肋骨。
人間に棒切れで乱打されたのであろう、背中に走る生々しい古傷。
その牙は、誰かを害するための凶器ではない。
これ以上自分を傷つけるなと、必死に世界を拒絶するための悲鳴だった。
わたくしの腕は、凍りついたように止まった。
犬が白銀の雪を蹴って跳躍する。
その刹那、横合いから坂東先生の白樫の木刀が鋭く割り込んだ。
激しい打撃音とともに、犬の牙が硬い木肌へ深くめり込む。
あの日以来。
犬の輪郭を持つものを前にすると、わたくしの太刀筋は、わずか一拍だけ遅れる。
怪異の爪牙と対峙する陰陽の術者にとって、その一拍の躊躇いは、命を落とすに十分すぎる空白だった。
◇
午前五時十二分。
始発の新幹線は、地を這うような重い唸りを響かせながら、京都駅のホームを滑り出した。
車窓の外には、まだ夜の濃紺がべったりと張り付いている。
冷え切った車内は、息が詰まるほど閑散としていた。
わたくしたちのほかには、深く首を折って眠る会社員が二人と、少し離れた席で大型の鞄を抱え込む老夫婦がいるだけだ。
わたくしは窓側の席に身を沈めた。
壁際には、桃木剣を納めた細長い布袋。
膝の上には、父から押しつけられた政府の機密文書。
大学の裏手に借りている下宿の机には、提出期限の切れた課題を置き去りにしてきた。
坂東先生が、通路側の座席へ音もなく腰を下ろす。
左の手首には、年季の入った黒檀の数珠が二重に巻かれていた。
大津家に伝わる法具ではないが、その来歴を尋ねたことは一度もない。
「お持ちしましょうか」
「いえ」
わたくしは、布袋の結び目にそっと指を添えた。
「これは、わたくしのお役目ですもの」
坂東先生は、値踏みするようにしばしわたくしの横顔を見据えた。
背伸びをする子どもを冷やかすような目ではない。
「……了解しました」
短く頷き、それ以上は手を出してこなかった。
胸の奥に、かすかな熱が灯る。
もう、庇護されるだけの十二歳ではない。
誰かの背中に縋り付く無力な子どもでもない。
そう自分に言い聞かせたかった。
けれど、昨日の父の問いかけが、今も耳底に冷たい鉛のように沈んでいる。
――犬を斬れるか。
わたくしは、最後まで肯定できなかった。
黒々とした窓ガラスに、己の姿が亡霊のように反射している。
白い小袖に、濃紺の外套。
背中まで伸ばした黒髪は、邪魔にならぬよう後ろで一つに束ねてある。
母も、かつて初めて現場へ駆り出された折には、このような強張った顔をしていたのだろうか。
それとも、もっと冷徹に前を見据えていたのだろうか。
「真琴様」
坂東先生が、クリップで束ねられた用紙を差し出してきた。
「現地周辺の追加記録です」
受け取り、最初の一枚に視線を落とす。
四国の山間部を示す、古い地形図の写しだった。
もっとも近い集落から、舗装の途絶えた隘路を車で一時間ほど遡った山奥。
かつて『犬守村』と呼ばれた集落の跡地だ。
歪な等高線の狭間に、二十七軒の民家と、一宇の小さな神社が記されていた。
「犬守村」
「昭和四十九年に、全住民が一斉離村しています」
「表向きの理由は?」
「木材価格の暴落と、林業の急速な衰退です」
表向き、という留保に、わたくしは微かに眉を吊り上げた。
「裏向きの事情が、ございますのね」
「最後まで村に残っていた七世帯のうち、三世帯が、離村直前のわずか一年のあいだに行方不明となっています」
「警察の捜査は?」
「険しい山中での遭難事故として片づけられました」
「七世帯のうち、三世帯もが遭難?」
「はい」
「同じ一年のうちに?」
「ええ」
「ずいぶんと都合よく人を呑み込む山ですこと」
資料を繰る。
縮刷版の当時の地方紙記事は、どれも紙面の隅に追いやられた小さなものばかりだった。
山菜採りに出た老夫婦が戻らない。
一家三人が借金を苦に夜逃げしたらしい。
ベテランの猟師が、装填した散弾銃を持ったまま行方を絶った。
どの記事も、過疎の山村特有の散発的な失踪として処理されている。
けれど、地図上に赤インクで印をつけていくと、消えた家々はすべて、村外れの神社を取り囲むように密集していた。
「とても偶然とは思えませんわね」
「私も同意見です」
「神社に近い区画から、順番に呑まれている。それなのに――」
わたくしはページをめくる指を止めた。
「神社の実況見分記録が、どこにも存在しませんわ」
警察も行政も、その社の存在そのものを最初から見落としたふりをしている。
まるで、そこに神など祀られていなかったかのように。
次の頁には、犬神大明神の縁起が記されていた。
古の飢饉の折、山から獲物を運び続けて村人たちを飢えから救った、一匹の白犬。
犬はその死後、大明神として社に祀られた――。
各地に伝わる、ありふれた霊犬伝説の体裁だ。
けれど、その末尾の余白に、後から殴り書きされたような別の筆跡があった。
《犬へ食わせれば、村は栄える》
指先が凍りつく。
「何を、食わせたのです?」
「公の記録には残されていません」
「残っていないのではなく、故意に消された痕跡ですわ」
紙面を斜めに傾け、蛍光灯の白い光に透かしてみる。
文末の文字が、刃物の切っ先で削り取られていた。
黒墨で塗り潰したのではない。紙の繊維ごと削ぎ落としている。
それでも、刃の入りが浅かった部分に、わずかな墨痕が残されていた。
――供。
「供物」
坂東先生の低い呟きに、わたくしは冷たく言葉を継いだ。
「あるいは、生贄、ですわね」
新幹線の空気が、わずかに淀んだ気がした。
空調の冷気のせいではない。
古びた複写用紙の奥から、数十年前に澱んだ念の滓が立ち上ってくるのだ。
泥に汚れた指。
擦り切れた麻縄。
女の咽び泣く声。
そして――暗闇の底から響く、獣の荒い息遣い。
わたくしは書類を伏せた。
動く密室の中で、これ以上この念を読み取るべきではない。
「政府は、この惨状の記録を把握していながら、我が家には『先行調査』などという曖昧な名目で投げたのですか」
「省庁のすべてが、一枚岩で同じ情報を共有しているとは限りませんから」
大津家には、骨抜きにされた断片的な報告書。
その後ろに控える本命の部隊には、完璧に整えられた全貌の記録。
よくできた差配だこと。虫唾が走るほどに。
「本命とは、どこのどなたですの?」
「具体的な組織名までは、私の耳にも」
「坂東先生」
「本当です。知り得た情報はすべてお伝えしています」
先生の眼差しに揺らぎはなかった。なら、本当に聞かされていないのだろう。
わたくしは資料を封筒へ戻し、紐を巻き直した。
「一つだけ、約束してくださいますか」
「何でしょうか」
「もし現場で、わたくしが犬を前にして足を止めたら、見捨てて逃げてください」
「お断りします」
間髪を容れぬ拒絶だった。
「これは、依頼主の娘としての命令です」
「私は当代当主より、真琴様を無事に京都へ連れ帰れと厳命されております」
「お父様は、そのような甘い言葉は仰いませんでしたわ」
「その眼で、無言のうちに命じておられました」
父の眼光は、ずいぶんと雄弁な法具のようですこと。
「坂東先生まで討ち死にしたら、大津家が傾きます」
「真琴様を喪えば、大津家は途絶えます」
言葉に詰まった。
迷いのない真っ直ぐな言葉をぶつけられると、わたくしはひどく脆い。
坂東先生は、静かに車窓の暗がりへと視線を移した。
「立ち止まることと、背を向けて逃げることは同義ではありません」
「……はい」
「斬れないのであれば、斬らずに収める道を探してください」
「それで、手遅れになったら?」
「そのときは、私が斬ります」
平坦で、何の色もない声だった。
虚勢でも覚悟の押し売りでもない。ただの冷徹な事実として告げている。
だからこそ――その血塗れの業を、この人に背負わせたくはなかった。
◇
岡山で特急に乗り継ぎ、瀬戸大橋を渡って四国へ入る頃には、正午を回っていた。
レンタカーの窓の外に、瀬戸内海の穏やかな青が広がっている。
初冬の日差しを浴びて、波頭が砕けたガラスのようにきらきらと光っていた。
折り重なる島々のあいだを、白いフェリーが航跡を描きながら進んでいく。
「きれい……」
無意識のうちに、呟きが唇からこぼれた。
盆地の京都では決して見ることのできない、どこまでも開けた青だ。
ハンドルを握る坂東先生が、口元をわずかに緩める。
「帰り道にも、同じ景色が見られますよ」
帰り道。
その約束のような響きが、ちくりと胸を刺した。
「……ええ」
わたくしも小さく笑みを返した。
「帰りに、もう一度眺めましょう」
だが、海岸線を離れて山間部へ分け入ると、景色は一変した。
路面のアスファルトには無数の亀裂が走り、苔が這い出している。
錆びついたガードレールの切れ目の向こうは、底の見えない深い谷だった。
スマートフォンのアンテナ表示が、一本減り、二本減る。
やがて、完全に『圏外』の二文字へと切り替わった。
車載ナビの電子音声が、無機質に同じ指示を繰り返し始める。
『三百メートル先、右方向です』
だが、その三百メートル先にあるのは道ではなく、垂直に切り立った岩肌だけだった。
「機械まで、山気に当てられて迷子になっておりますわね」
「紙の地図に切り替えます」
坂東先生がブレーキを踏み、車を路肩へ寄せた。
アイドリングの微かな振動だけが車内に残る。
そのとき。
フロントガラスの向こう、鬱蒼とした木立ちの切れ目に、一匹の犬が佇んでいた。
白い毛並みの犬だった。
泥にまみれ、あばら骨が浮き出るほど痩せこけている。
首輪の跡すらない首筋からは、微かに古い血と線香の混ざり合った匂いが漂っていた。
吠えもせず、牙を剥くこともない。
ただ、底のない井戸のような瞳で、じっとこちらを見据えている。
生きている獣の目ではない。
けれど、死霊の持つ執拗な怨嗟とも違う。
ただ何十年も、定められた役割を忠実に反復し続けている機械のような――冷徹な神使の瞳だった。
運転席の坂東先生が、懐の護符へ指を滑らせる。
「待ってください」
わたくしは制止し、ドアのノブに手をかけた。
「真琴様!」
「まだ、害意を持つ怪異とは断定できません」
車外へ出ると、刺すような山の冷気が頬を叩いた。
数歩進み、白犬の双眸を見つめる。
怯えてはいなかった。
威嚇の光もない。
そこには、何の感情も宿っていなかった。
犬が、音もなく一歩、後ずさる。
わたくしが歩み寄ると、測ったようにまた一歩、距離を取った。
逃走ではない。
ついてこいと、背中で手招きしているのだ。
「案内をしてくださるの?」
犬は応えない。
当然ですわね。
白犬は身を翻すと、獣道ともつかぬ薄暗い杣道の奥へ、音もなく歩き出した。
坂東先生が車を降り、後部座席から荷物を取り出す。
「追いますか」
「追いましょう」
「罠の可能性が極めて高い」
「ええ、百も承知です」
「それでも行かれるので?」
「道を誤って崖下へ転落するよりは、犬の仕掛けた罠のほうが、まだわたくしたちの領分ですもの」
坂東先生が、短く鼻を鳴らした。
微かに口端が上がったように見えた。
車を完全に木陰へ隠し、最小限の法具と桃木剣だけを背負って歩き出す。
白い背中を追うごとに、木々の枝葉が日光を遮り、空が細く狭まっていく。
湿った黒土の腐臭。
青黒い苔。
踏み荒らされていない堆積した落ち葉。
どこか遠くで、細い沢の水音が響いていた。
最初は、そう思っていたのだ。
けれど――。
ある境界を越えた瞬間、その水音が唐突に途絶えた。
風が凪いだ。
頭上の小枝の一本すら、微動だにしない。
鳥の羽音も、這い回る虫の羽音すらもしない。
ただ、湿った土を踏みしめるわたくしたち二人の足音だけが、異様に鮮明に響いていた。
道標となっていた白い犬は、いつの間にか煙のように消え去っていた。
視界の開けた先に、朽ち果てた冠木門が歪んで立っている。
苔むした親柱には、風化した文字が辛うじて彫り残されていた。
――犬守村。
「着きましたね」
坂東先生が低く呟く。
「ええ」
わたくしは背中から桃木剣を抜き、油単の布袋を解いた。
黒ずんだ木肌の柄を、しっかりと握りしめる。
門の向こうの廃村には、数十年の風雨に晒された民家が、折り重なるように沈黙していた。
人の気配など、どこにもない。
それなのに。
視界に入るすべての民家の玄関戸が、
内側から、外へ向けて開け放たれていた。
わたくしは、門の敷居をまたぎ、廃村へ一歩足を踏み入れた。
その刹那、鼓膜を塞がれたような強烈な圧迫感が頭蓋を締め上げた。
音が死んだのではない。
外の世界のあらゆる音が、この境界の向こう側へと置き去りにされたのだ。
風の音も、衣擦れの音も、自らの心臓の鼓動すらも、分厚い油の中に沈められたように遠のいていく。
立ち並ぶ廃屋の開け放たれた黒い玄関口が、まるで大きく口を開けた獣の喉仏のように、音もなくわたくしたちを見下ろしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




