↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
犬神の里編  ※大学生編からでも読めます。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/100

第2話 犬を、攻撃できなかった

第2話 犬を、攻撃できなかった


犬を斬れないと自覚したのは、十二歳の冬だった。


相手は怨霊でも、祟り神の類でもない。

大津家の裏庭へ迷い込んできた、骨と皮ばかりの痩せこけた野犬だった。

降り積もる雪の中で、犬は剥き出しの牙をカタカタと鳴らしていた。

濁った涎を垂らし、喉の奥を低く震わせ、わたくしの喉仏を食いちぎろうと身構えている。

手にした桃木剣をそのまま振り下ろしていれば、容易に追い払えたはずだった。


それなのに。

切っ先を構えたわたくしの瞳には、牙の鋭さよりも、その奥に潜む底知れぬ怯えのほうが、先に視えてしまったのだ。

痛ましげに引きずられた後ろ脚。

飢えに耐えかねて浮き出た無残な肋骨。

人間に棒切れで乱打されたのであろう、背中に走る生々しい古傷。

その牙は、誰かを害するための凶器ではない。

これ以上自分を傷つけるなと、必死に世界を拒絶するための悲鳴だった。


わたくしの腕は、凍りついたように止まった。

犬が白銀の雪を蹴って跳躍する。

その刹那、横合いから坂東先生の白樫の木刀が鋭く割り込んだ。

激しい打撃音とともに、犬の牙が硬い木肌へ深くめり込む。


あの日以来。

犬の輪郭を持つものを前にすると、わたくしの太刀筋は、わずか一拍だけ遅れる。

怪異の爪牙と対峙する陰陽の術者にとって、その一拍の躊躇いは、命を落とすに十分すぎる空白だった。


午前五時十二分。

始発の新幹線は、地を這うような重い唸りを響かせながら、京都駅のホームを滑り出した。

車窓の外には、まだ夜の濃紺がべったりと張り付いている。

冷え切った車内は、息が詰まるほど閑散としていた。

わたくしたちのほかには、深く首を折って眠る会社員が二人と、少し離れた席で大型の鞄を抱え込む老夫婦がいるだけだ。


わたくしは窓側の席に身を沈めた。

壁際には、桃木剣を納めた細長い布袋。

膝の上には、父から押しつけられた政府の機密文書。

大学の裏手に借りている下宿の机には、提出期限の切れた課題を置き去りにしてきた。


坂東先生が、通路側の座席へ音もなく腰を下ろす。

左の手首には、年季の入った黒檀の数珠が二重に巻かれていた。

大津家に伝わる法具ではないが、その来歴を尋ねたことは一度もない。


「お持ちしましょうか」

「いえ」

わたくしは、布袋の結び目にそっと指を添えた。

「これは、わたくしのお役目ですもの」

坂東先生は、値踏みするようにしばしわたくしの横顔を見据えた。

背伸びをする子どもを冷やかすような目ではない。

「……了解しました」

短く頷き、それ以上は手を出してこなかった。


胸の奥に、かすかな熱が灯る。

もう、庇護されるだけの十二歳ではない。

誰かの背中に縋り付く無力な子どもでもない。

そう自分に言い聞かせたかった。

けれど、昨日の父の問いかけが、今も耳底に冷たい鉛のように沈んでいる。


――犬を斬れるか。


わたくしは、最後まで肯定できなかった。


黒々とした窓ガラスに、己の姿が亡霊のように反射している。

白い小袖に、濃紺の外套。

背中まで伸ばした黒髪は、邪魔にならぬよう後ろで一つに束ねてある。

母も、かつて初めて現場へ駆り出された折には、このような強張った顔をしていたのだろうか。

それとも、もっと冷徹に前を見据えていたのだろうか。


「真琴様」

坂東先生が、クリップで束ねられた用紙を差し出してきた。

「現地周辺の追加記録です」

受け取り、最初の一枚に視線を落とす。

四国の山間部を示す、古い地形図の写しだった。

もっとも近い集落から、舗装の途絶えた隘路を車で一時間ほど遡った山奥。

かつて『犬守村』と呼ばれた集落の跡地だ。

歪な等高線の狭間に、二十七軒の民家と、一宇の小さな神社が記されていた。


「犬守村」

「昭和四十九年に、全住民が一斉離村しています」

「表向きの理由は?」

「木材価格の暴落と、林業の急速な衰退です」

表向き、という留保に、わたくしは微かに眉を吊り上げた。

「裏向きの事情が、ございますのね」

「最後まで村に残っていた七世帯のうち、三世帯が、離村直前のわずか一年のあいだに行方不明となっています」

「警察の捜査は?」

「険しい山中での遭難事故として片づけられました」

「七世帯のうち、三世帯もが遭難?」

「はい」

「同じ一年のうちに?」

「ええ」

「ずいぶんと都合よく人を呑み込む山ですこと」


資料を繰る。

縮刷版の当時の地方紙記事は、どれも紙面の隅に追いやられた小さなものばかりだった。

山菜採りに出た老夫婦が戻らない。

一家三人が借金を苦に夜逃げしたらしい。

ベテランの猟師が、装填した散弾銃を持ったまま行方を絶った。

どの記事も、過疎の山村特有の散発的な失踪として処理されている。

けれど、地図上に赤インクで印をつけていくと、消えた家々はすべて、村外れの神社を取り囲むように密集していた。


「とても偶然とは思えませんわね」

「私も同意見です」

「神社に近い区画から、順番に呑まれている。それなのに――」

わたくしはページをめくる指を止めた。

「神社の実況見分記録が、どこにも存在しませんわ」

警察も行政も、その社の存在そのものを最初から見落としたふりをしている。

まるで、そこに神など祀られていなかったかのように。


次の頁には、犬神大明神の縁起が記されていた。

古の飢饉の折、山から獲物を運び続けて村人たちを飢えから救った、一匹の白犬。

犬はその死後、大明神として社に祀られた――。

各地に伝わる、ありふれた霊犬伝説の体裁だ。

けれど、その末尾の余白に、後から殴り書きされたような別の筆跡があった。


《犬へ食わせれば、村は栄える》


指先が凍りつく。

「何を、食わせたのです?」

「公の記録には残されていません」

「残っていないのではなく、故意に消された痕跡ですわ」

紙面を斜めに傾け、蛍光灯の白い光に透かしてみる。

文末の文字が、刃物の切っ先で削り取られていた。

黒墨で塗り潰したのではない。紙の繊維ごと削ぎ落としている。

それでも、刃の入りが浅かった部分に、わずかな墨痕が残されていた。

――供。


「供物」

坂東先生の低い呟きに、わたくしは冷たく言葉を継いだ。

「あるいは、生贄、ですわね」


新幹線の空気が、わずかに淀んだ気がした。

空調の冷気のせいではない。

古びた複写用紙の奥から、数十年前に澱んだ念の滓が立ち上ってくるのだ。

泥に汚れた指。

擦り切れた麻縄。

女の咽び泣く声。

そして――暗闇の底から響く、獣の荒い息遣い。


わたくしは書類を伏せた。

動く密室の中で、これ以上この念を読み取るべきではない。


「政府は、この惨状の記録を把握していながら、我が家には『先行調査』などという曖昧な名目で投げたのですか」

「省庁のすべてが、一枚岩で同じ情報を共有しているとは限りませんから」

大津家には、骨抜きにされた断片的な報告書。

その後ろに控える本命の部隊には、完璧に整えられた全貌の記録。

よくできた差配だこと。虫唾が走るほどに。


「本命とは、どこのどなたですの?」

「具体的な組織名までは、私の耳にも」

「坂東先生」

「本当です。知り得た情報はすべてお伝えしています」

先生の眼差しに揺らぎはなかった。なら、本当に聞かされていないのだろう。


わたくしは資料を封筒へ戻し、紐を巻き直した。

「一つだけ、約束してくださいますか」

「何でしょうか」

「もし現場で、わたくしが犬を前にして足を止めたら、見捨てて逃げてください」

「お断りします」

間髪を容れぬ拒絶だった。

「これは、依頼主の娘としての命令です」

「私は当代当主より、真琴様を無事に京都へ連れ帰れと厳命されております」

「お父様は、そのような甘い言葉は仰いませんでしたわ」

「その眼で、無言のうちに命じておられました」

父の眼光は、ずいぶんと雄弁な法具のようですこと。


「坂東先生まで討ち死にしたら、大津家が傾きます」

「真琴様を喪えば、大津家は途絶えます」

言葉に詰まった。

迷いのない真っ直ぐな言葉をぶつけられると、わたくしはひどく脆い。


坂東先生は、静かに車窓の暗がりへと視線を移した。

「立ち止まることと、背を向けて逃げることは同義ではありません」

「……はい」

「斬れないのであれば、斬らずに収める道を探してください」

「それで、手遅れになったら?」

「そのときは、私が斬ります」

平坦で、何の色もない声だった。

虚勢でも覚悟の押し売りでもない。ただの冷徹な事実として告げている。

だからこそ――その血塗れの業を、この人に背負わせたくはなかった。


岡山で特急に乗り継ぎ、瀬戸大橋を渡って四国へ入る頃には、正午を回っていた。

レンタカーの窓の外に、瀬戸内海の穏やかな青が広がっている。

初冬の日差しを浴びて、波頭が砕けたガラスのようにきらきらと光っていた。

折り重なる島々のあいだを、白いフェリーが航跡を描きながら進んでいく。


「きれい……」

無意識のうちに、呟きが唇からこぼれた。

盆地の京都では決して見ることのできない、どこまでも開けた青だ。

ハンドルを握る坂東先生が、口元をわずかに緩める。

「帰り道にも、同じ景色が見られますよ」

帰り道。

その約束のような響きが、ちくりと胸を刺した。

「……ええ」

わたくしも小さく笑みを返した。

「帰りに、もう一度眺めましょう」


だが、海岸線を離れて山間部へ分け入ると、景色は一変した。

路面のアスファルトには無数の亀裂が走り、苔が這い出している。

錆びついたガードレールの切れ目の向こうは、底の見えない深い谷だった。

スマートフォンのアンテナ表示が、一本減り、二本減る。

やがて、完全に『圏外』の二文字へと切り替わった。


車載ナビの電子音声が、無機質に同じ指示を繰り返し始める。

『三百メートル先、右方向です』

だが、その三百メートル先にあるのは道ではなく、垂直に切り立った岩肌だけだった。

「機械まで、山気に当てられて迷子になっておりますわね」

「紙の地図に切り替えます」

坂東先生がブレーキを踏み、車を路肩へ寄せた。

アイドリングの微かな振動だけが車内に残る。


そのとき。

フロントガラスの向こう、鬱蒼とした木立ちの切れ目に、一匹の犬が佇んでいた。


白い毛並みの犬だった。

泥にまみれ、あばら骨が浮き出るほど痩せこけている。

首輪の跡すらない首筋からは、微かに古い血と線香の混ざり合った匂いが漂っていた。

吠えもせず、牙を剥くこともない。

ただ、底のない井戸のような瞳で、じっとこちらを見据えている。

生きている獣の目ではない。

けれど、死霊の持つ執拗な怨嗟とも違う。

ただ何十年も、定められた役割を忠実に反復し続けている機械のような――冷徹な神使の瞳だった。


運転席の坂東先生が、懐の護符へ指を滑らせる。

「待ってください」

わたくしは制止し、ドアのノブに手をかけた。

「真琴様!」

「まだ、害意を持つ怪異とは断定できません」


車外へ出ると、刺すような山の冷気が頬を叩いた。

数歩進み、白犬の双眸を見つめる。

怯えてはいなかった。

威嚇の光もない。

そこには、何の感情も宿っていなかった。


犬が、音もなく一歩、後ずさる。

わたくしが歩み寄ると、測ったようにまた一歩、距離を取った。

逃走ではない。

ついてこいと、背中で手招きしているのだ。


「案内をしてくださるの?」

犬は応えない。

当然ですわね。

白犬は身を翻すと、獣道ともつかぬ薄暗い杣道の奥へ、音もなく歩き出した。


坂東先生が車を降り、後部座席から荷物を取り出す。

「追いますか」

「追いましょう」

「罠の可能性が極めて高い」

「ええ、百も承知です」

「それでも行かれるので?」

「道を誤って崖下へ転落するよりは、犬の仕掛けた罠のほうが、まだわたくしたちの領分ですもの」

坂東先生が、短く鼻を鳴らした。

微かに口端が上がったように見えた。


車を完全に木陰へ隠し、最小限の法具と桃木剣だけを背負って歩き出す。

白い背中を追うごとに、木々の枝葉が日光を遮り、空が細く狭まっていく。

湿った黒土の腐臭。

青黒い苔。

踏み荒らされていない堆積した落ち葉。

どこか遠くで、細い沢の水音が響いていた。


最初は、そう思っていたのだ。

けれど――。


ある境界を越えた瞬間、その水音が唐突に途絶えた。

風が凪いだ。

頭上の小枝の一本すら、微動だにしない。

鳥の羽音も、這い回る虫の羽音すらもしない。

ただ、湿った土を踏みしめるわたくしたち二人の足音だけが、異様に鮮明に響いていた。


道標となっていた白い犬は、いつの間にか煙のように消え去っていた。


視界の開けた先に、朽ち果てた冠木門が歪んで立っている。

苔むした親柱には、風化した文字が辛うじて彫り残されていた。

――犬守村。


「着きましたね」

坂東先生が低く呟く。

「ええ」

わたくしは背中から桃木剣を抜き、油単の布袋を解いた。

黒ずんだ木肌の柄を、しっかりと握りしめる。


門の向こうの廃村には、数十年の風雨に晒された民家が、折り重なるように沈黙していた。

人の気配など、どこにもない。

それなのに。


視界に入るすべての民家の玄関戸が、

内側から、外へ向けて開け放たれていた。


わたくしは、門の敷居をまたぎ、廃村へ一歩足を踏み入れた。


その刹那、鼓膜を塞がれたような強烈な圧迫感が頭蓋を締め上げた。

音が死んだのではない。

外の世界のあらゆる音が、この境界の向こう側へと置き去りにされたのだ。

風の音も、衣擦れの音も、自らの心臓の鼓動すらも、分厚い油の中に沈められたように遠のいていく。

立ち並ぶ廃屋の開け放たれた黒い玄関口が、まるで大きく口を開けた獣の喉仏のように、音もなくわたくしたちを見下ろしていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。