第1話 四十七人
――同じ夏。京都の、千年の家にも、報せは届いた。
四国の廃村で、四十七人が消えた。
現場に残されていたのは、犬の足跡だけだ。
それも、家の中から外へ逃げ出した足跡ではない。
外から土間を上がり、畳の真ん中へ向かったところで、ぷつりと途切れていた。
その報告書をめくり終えたとき、背後から父の低い声が落ちてきた。
「真琴。お前が行け」
わたくしは、ゆっくりと顔を上げた。
京都の大津家。当代当主の私室には、朝から鼻を突く湿布の匂いが淀んでいる。
千年続く陰陽師の家系。
薄暗い座敷に並ぶ歴代当主の肖像画。
傷だらけの古い文机。
床の間に立てかけられた、邪気を払う桃木剣。
その重々しい空間の中心で、現当主である父は、布団に無様に突っ伏していた。
腰のあたりに、分厚い湿布を何枚も貼り散らかして。
「お父様」
「なんだ」
「四十七人の失踪について伺う前に、ひとつだけ確かめてもよろしくて?」
「手短にな」
「千年の歴史を誇る大津家の当主が、ぎっくり腰で一歩も動けないという事実は、政府には秘匿して差し支えありませんわね?」
父は返事をする代わりに、枕の奥深くに顔を埋めた。
沈黙を肯定と見なし、わたくしは机上の書類へ視線を戻す。
父の枕元に置かれていたのは、政府の特務機関から届いた茶封筒だった。
表書きには、朱墨で捺された《極秘》の二文字。
封を解くと、失踪者四十七人の名簿、荒廃した村の写真、そして古い和装本の写しが滑り出してきた。
擦れた表題を指でなぞる。
――犬神大明神縁起。
「犬神、ですの?」
「名に惑わされるな」
布団の中から、くぐもった声が返ってきた。
「神と呼ばれているものが神とは限らず、犬と呼ばれているものが犬とも限らん」
「では、現地には何が潜んでいるのです」
「それを確かめてこい」
いつもの父だった。
答えを知っていようと、決して先回りして教えたりはしない。
己の目で視ろ。
己の頭で読め。
間違えて痛い目を見たときにだけ、骨身に刻め。
それが、大津家に代々伝わる血の教育だった。
ただし。
その教えを受ける資格を持つのは、本来、男児だけのはずだ。
――女は、視えればよい。
母からも祖母からも、耳に胼胝ができるほど聞かされてきた掟である。
跡を継ぐのも男。
太刀を振るい、怪異を調伏するのも男。
女はただその陰に控え、視えたものの位置を指し示すだけで事足りる。
その掟が絶対であったはずの家で、いま父は、わたくしに向かって「行け」と命じているのだ。
「政府は、我が家に何を求めているのですか」
「先行調査だ」
「先行、ですのね」
わたくしは、その都合のいい言葉を舌の上で転がした。
討伐の命でも、封印の依頼でもない。
先行調査。
すなわち、後続に控える本命の駒がいるということだ。
大津家は、暗闇の底へ真っ先に放り込まれる観測気球にすぎない。
何が潜み、どれほど飢えているのか。
誰かが食い殺されるとして、何人までなら許容損失の範囲内か。
それを測るための、最初の犠牲。
「ずいぶんと婉曲な、捨て駒の言い回しに聞こえますけれど」
「聞こえるのではない。その通りの役回りだ」
父はあっさりと吐き捨てた。
少しは娘を案じる素振りでも見せてくだされば、可愛げもありますのに。
「お断りにはなれませんの?」
「断れば、別の家が駆り出される」
「それなら、その方たちに任せれば――」
「そして、全員死ぬ」
言葉が、喉元で凍りついた。
父がゆっくりと首を捻り、こちらを見据える。
額には脂汗が光っていたが、その眼光だけは紛れもなく、怪異を統べる当主のそれだった。
「真琴。これは、家名を売るための戦いではない」
「……はい」
「大津の面目を保つためでもない」
「はい」
「四十八人目を、最後の犠牲にするための役目だ」
わたくしは、手元の失踪者名簿へ視線を落とした。
独居の老人。
山番の夫婦。
林業組合の作業員たち。
廃墟の撮影に踏み込んだ物好きの若者。
異変を嗅ぎつけて派遣された地方公務員。
氏名、年齢、失踪日時。
インクで印字された紙の上では、誰もが等しく無機質な一行にすぎない。
けれど、その一行の背後には、いまも無事を祈り続ける家族がいるのだ。
そして――四十八人目の欄には、十七歳の少女の名が記されていた。
藤原美咲。
添付されたスナップ写真の中で、ブレザー制服を着た少女がぎこちなく微笑んでいる。
その白く細い首筋に、小さな黒ずみがあった。
鋭い犬の歯形を模したような、歪な痣。
わたくしは写真を指先で固定し、光に透かした。
「この方だけ、他の失踪者と質が違いますわ」
父の眉が、わずかに動いた。
「何が視える」
「他の方々は、村の結界に迷い込んでから呑まれています。ですが、この娘は違う。足を踏み入れる前から、すでに内側に刻印が打たれている」
痣の輪郭をなぞると、細い黒い糸が鎖骨の奥へと沈み込んでいるのが視えた。
肉眼では、ただの内出血にしか見えないだろう。
だが、わたくしの目をごまかすことはできない。
傷でも呪詛でもない。外から無理やり穿たれたものではなく、魂の奥底から滲み出してきたような痕跡。
「呼ばれています」
口にした瞬間、首筋に冷や汗が伝った。
「この娘は、偶然迷い込んだのではありません。犬神の里から、手招きされているのです」
部屋が、しんと静まり返った。
庭の青竹が、初冬の乾いた風に擦れ合ってカサカサと鳴る。
遠くの軒先で、小鳥が鋭く一声啼いて飛び去った。
父はしばし重い沈黙を敷き詰めたあと、枕元の呼び鈴を振った。
澄んだ金属音が座敷に溶けるや否や、廊下の軋みとともに足音が近づいてくる。
現れたのは、坂東先生だった。
父の筆頭弟子であり、幼少よりわたくしに陰陽の体術を叩き込んできた人だ。
音もなく襖を開けた坂東先生は、布団に突っ伏す父の無様な姿を一瞥するなり、何事もなかったかのように完璧な無表情を取り繕った。
さすがの手腕ですわ。
「坂東」
「は」
「真琴を連れて、四国へ飛べ」
「御意」
驚きの色すら浮かべない。主人の腰の容態を見た時点で、こうなる結末を読んでいたのだろう。
わたくしは、ばらけた報告書を封筒へと収め直した。
「出立の刻限は」
「明朝だ」
「急な話ですこと」
「今朝、四十九人目が消えた」
四十八人目で最後にする、と誓った舌の根も乾かぬうちに。
わたくしの指先が、ぴたりと止まった。
父が、さらに一枚の写真を畳の上に滑らせて寄越す。
そこに写っていたのは、あどけない少年の姿だった。
まだ七歳かそこらだろう。
裏書きには『藤原隼』とある。
四十八人目の失踪者、藤原美咲の幼い弟。
姿を消した姉を探すため、昨夜、ひとり家を抜け出したのだという。
写真を凝視するわたくしの瞳に、少年の首筋に刻まれたまったく同じ歯形の痣が焼きついた。
「真琴」
父の低い声が、静寂を裂いてわたくしを貫く。
「お前に、犬が斬れるか」
即答することは、できなかった。
犬という生き物が、幼いころからどうしても苦手だったのだ。
牙が恐ろしいのではない。
敵意を向けることができないのだ。
血に塗れ、人に追われ、石を投げつけられてなお、人の温もりを乞うて尻尾を振ろうとする――あの悲痛な哀着の瞳が、どうしても視えてしまう。
桃木剣を構えた刹那、その瞳と視線が交錯すれば、わたくしの刃は必ず鈍る。
情を捨てきれぬ者は、怪異の最初の餌食となる。
陰陽の術者として、それは致命的な瑕疵だった。
まして、今回の相手は『犬神』。
神に祀り上げられた犬の怨嗟か。
犬の皮を被った異形の怪異か。
その正体すら、霧の彼方にある。
「……分かりません」
わたくしは、誤魔化さずに本音を告げた。
父は、怒声を発しなかった。
「それでいい」
「叱られないのですか」
「得体の知れんものを、知った風な顔で斬り捨てる阿呆よりは幾分かマシだ」
その無骨な物言いが、胸の奥深くに重たく沈み込む。
「行って、視てこい」
「はい」
「その成り立ちを、読め」
「はい」
「そのうえで、どう始末をつけるかはお前自身が決めろ」
――女は、視えればよい。
千年ものあいだ、我が家の女たちはそうやって己を縛り、裁決の場から締め出されてきた。
けれどいま、父はわたくしに「決めろ」と命じている。
祓い清めるのか。
永久に封じるのか。
それとも、別の道を模索するのか。
わたくしは二枚の写真を重ね、封筒の一番上へと戻した。
姉と、弟。
二人とも、まだ息絶えてはいないはずだ。
直感にすぎない。
けれど、あの首筋に宿る黒い気配は、死者の纏う澱みとは明らかに違っていた。
細い糸のような気配は、いまも途切れず、彼方へと伸びている。
四国の深い山襞の奥へ。
四十七人を呑み込んだ、犬神の里へ。
「参ります」
わたくしは背筋を伸ばし、父の横顔を見据えた。
「大津の家名を守るためではありません」
父は何も言わず、ただ静かに目を伏せている。
「わたくしが、あの姉弟を連れて帰りたいからです」
それが、わたくしが生まれて初めて、誰の指図でもなく己の意志で選び取ったお役目だった。
翌朝。
薄氷の張るような冷気の中、わたくしは桃木剣を手に、四国の山奥へと足を踏み入れた。
その集落の奥底で。
四十七人を呑み込んだ祟り神の牙よりも、遥かに救いようのない「人間の嘘」が口を開けて待ち受けていることなど、このときのわたくしはまだ、知る由もなかった。




