第5話「悼んではいけない人たち」
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間宮ゆきさんは、駅にいた。
汐灘駅は無人の駅で、待合室にベンチが二つあるだけだった。
鵜飼さんが電話をして、来ますと言ったのだという。
浜には来ない、とも言ったらしい。
白いシャツと、大きな鞄。
髪を後ろで結んでいる。
写真の女の子が、四年ぶん大人になった顔をしていた。
「看護の学校です」
聞く前に、そう言った。
「今は実習で、休みが少なくて」
早口だった。
早口の人は、間を怖がっている。
「来年から、現場ですのね」
「はい」
間宮さんは、少しだけ背筋を伸ばした。
「救急に行きたいと思っています」
わたしは、その言葉の置かれた場所を覚えておいた。
「毎年、この時期に帰られるんですか」
「帰ります」
「町へは」
「駅までです」
間宮さんは鞄の持ち手を握った。
「駅で待って、次のバスで戻ります」
「何時間、いらっしゃいますの」
間宮さんはベンチの木目を見た。
「盆の入りの日に来て、二時間いて、帰ります」
「どこかへ行かれるのではなく」
「行きません」
言い方に、練習の跡があった。
何年も、同じ答えを自分に言ってきた人の言い方だ。
「お墓へは」
間宮さんの喉が動いた。
「行っていません」
「四年、ですか」
「はい」
ベンチの上で、鞄の持ち手が鳴った。
「行ってはいけないと、言われましたので」
わたしは、そのまま聞いた。
「誰に」
「うちの親と、室井さんと」
間宮さんは目を伏せた。
「あと、たぶん、町の人みんなです」
「みんなというのは、誰も言っていないということですわね」
言葉が漏れた。
舌打ちする間もなく、間宮さんが笑った。
笑い方が、写真より薄かった。
「そうです。誰も言っていません」
「けれど、伝わった」
「はい」
間宮さんは膝の上で指を組んだ。
「柏木さんの前に顔を出すな、っていうのは、ちゃんと伝わりました」
「お手紙は」
「書きました。出していません」
膝の上の指が、鞄の口へ触れた。
「四通、この鞄に入っています」
わたしは待合室の時計を見た。
次のバスまで、まだ間がある。
「あの日、走られたのは、あなただと聞きました」
間宮さんの指が、止まった。
「足を痛めていらしたのに」
「……誰から」
「足跡が、そう言っていますわ」
わたしは訂正しなかった。
訂正しないほうが、話が続きそうだった。
「三番目に上がって、それから走られた」
間宮さんは、しばらく息をしなかった。
それから、下を向いて言った。
「わたし、上がるのが遅かったんです」
「足のせいですわね」
「前の日に、階段で捻ってしまって」
間宮さんは、自分の左の足首を見た。
「泳がなければよかったんです」
「圭吾くんが、待ってくれてました」
波の音はここまで届かない。
届かないのに、間宮さんは海のほうを見た。
「先に行けって言ったのに、待ってて」
「そのあと」
「わたしが上がったら、圭吾くんが、数えてました」
わたしの背中が、すこし冷えた。
夜の砂で聞いた声が、耳の裏に戻ってきた。
「なんと数えていましたか」
「ひとり、ふたり、って。それだけです」
間宮さんは目を上げた。
「あの子、そういうとこ、変に真面目で」
鞄の持ち手が、また鳴った。
「四人いるな、って言って、それで、笑って」
言葉が途切れた。
わたしは急がなかった。
「そこから先は、見ていません」
それだけ言って、間宮さんは黙った。
「間宮さん」
「はい」
「走って、どこまで行かれましたの」
「漁協です。人がいると思って」
間宮さんは、鞄の持ち手を握り直した。
「足が、途中で動かなくなって。それでも行きました」
「着かれたんですね」
「着きました。でも」
言葉が、そこで止まった。
「わたしが着いたときには、もう大人が浜へ走っていました」
「では、あなたが呼んだぶんは」
「数えられていません」
バスの時刻が近づいていた。
「亮太は、いいですよね」
最後に、そう言った。
「毎年、竹を組ませてもらえるんだから」
声は静かだった。
静かなぶんだけ、刃の置き方が正確だった。
「わたしは、駅までなんです」
「今年も、二時間でお帰りになりますの」
バスの音が、坂の下から聞こえた。
「……分かりません」
初めて、練習していない答えが出た。
◆
観光協会の事務所は、役場の隣にあった。
室井さんは、灯籠の竹を数えているところだった。
細く割った竹が、束にして立てかけてある。
「学生さん」
顔は笑っていた。
「まだいらしたんですね」
「明日が行事ですから」
わたしは束を見た。
「竹は、いくつぶんですか」
「一つです」
「毎年」
「毎年、一つです」
室井さんは束をそろえた。
「柏木さんが、お一人で流されますので」
わたしは事務所の中を見た。
壁に、去年の写真が貼ってある。
夕方の浜に、灯籠が一つ浮いていた。
母親らしい人の背中と、竹の枠を持った若い男の人が写っている。
鵜飼さんだった。
「四年前のことを、少し伺いたいのですけれど」
笑い方は変わらなかった。
「それは、もう」
「消防団の記録に、通報者が三名と書いてありました」
室井さんの手が止まった。
止まったのは一瞬で、すぐ竹へ戻った。
「走り書きですよ」
「清書には、一名と書いてあります」
「書き間違いです」
「増える間違いなら分かりますわ」
わたしは束の竹を一本見た。
「減る間違いは、少ないと思います」
「走り書きでも、三名ですわ」
わたしは浜の四列を思い出した。
「あの日、浜へ上がったのは四人です」
返事はなかった。
「走り書きの時点で、もう一人が数から落ちています」
室井さんは竹を置いた。
そして、初めて笑うのをやめた。
やめると、ふつうの疲れた人の顔になった。
「あの子たちは、高校二年でした」
静かな声だった。
「四人とも、進路がありました」
「ええ」
「一人は看護学校を受けるところで、一人は推薦の話が出てました」
「残りのお二人は」
「一人は、家の仕事を継ぐ話が出ていました」
室井さんは、少し間を置いた。
「もう一人は、この町を出る話が出ていました」
室井さんは、竹の束を撫でた。
「あの日のことが名前つきで残ったら、どうなりますか」
「町の中で、四年は消えませんわね」
「四年では済みません」
室井さんは首を振った。
「二十年、言われます。この町は、そういう町です」
「では、四人のためになさったと」
「そうです」
「四人に、そう伺いましたか」
返事は、なかった。
室井さんは竹の束へ目を戻した。
「だから、消したんじゃありません」
言い方に、力がこもった。
「書かなかっただけです」
わたしは、その差を頭の中で置き直した。
消したのではなく、書かなかった。
嘘をついたのではなく、整えた。
「海水浴場も、その年に開いておられますね」
「開けました」
室井さんは目をそらさなかった。
「浜が閉まったら、この町は畳みます」
「開けて、人は来ましたの」
「来ました。前の年の、七割です」
室井さんは束を数え直した。
「七割でも、来たんです」
「では、伺いますけれど」
わたしは事務所の壁の写真を見た。
「悲しんでよいのは、どなたですか」
室井さんは、答えるのに少し時間をかけた。
「お母さんです」
「ほかの四人は」
「あの子たちは、生きてます」
「生きていると、悼めませんの」
声が硬くなったのが、自分でも分かった。
「四年、お墓に行っていない方がいらっしゃいます」
「それは、その子の気持ちの問題で」
「気持ちを、そう置かせたのはどなたですか」
「……わたしではありません」
「では、どなたですの」
室井さんは答えなかった。
「便利ですわ」
言葉が先に出た。
止めなかった。
「かわいそうな人を一人お決めになれば、ほかの方は黙るしかありませんもの」
室井さんは、口を開いて、閉じた。
言い返す言葉はいくらでもあったと思う。
選ばなかったのだと思う。
「……学生さんに、なにが分かりますか」
「なにも分かりませんわ」
わたしはそこだけ、正直に言った。
「わたしは数を数えに来ただけです」
「数えて、どうなるんですか」
「どうにもなりませんわ」
わたしは戸口へ向かった。
「数は、数えても減りませんし、増えません」
室井さんは、竹の前に立ったままだった。
「合っていないと、分かるだけです」
◆
宿へ戻る途中で、電話が鳴った。
「どうです、そちらは」
慈恩様の声は、いつもの調子だった。
「日焼けはしましたか」
「していません」
「海まで行って、もったいない」
「水着は持ってきていませんわ」
「若いうちですよ」
「なんの話ですの」
「日焼けの話です」
「本当に」
「本当です」
絶対に違うと思う。
「人数が、合いません」
「そうでしょうねえ」
驚きもしない。
「ご存じでしたの」
「知りませんよ」
慈恩様は、湯呑みでも探すような間を置いた。
「ただ、足跡が増える相談で、増える理由が町にないのなら。数のほうが先に合っていないでしょう」
「町のほうは、一人と数えていますわ」
「灯籠は」
「一つです」
電話の向こうで、湯呑みを置くような音がした。
「真琴ちゃん」
「はい」
「数を減らすのは、一晩でできますよ」
慈恩様は、のんびりと言った。
「増やすほうは、何年かかりますからねえ」
「四年、経っておりますけれど」
「四年では足りなかったんでしょう」
「……わたしが増やすわけには、いきませんわね」
「いきません」
あっさりしていた。
「そこは、数えた人の仕事です」
「わたしは、なにをすればよろしいの」
「数えたことを、数えた人へ返すだけでいいでしょう」
慈恩様は、あくびでもするような声で言った。
「真琴ちゃんが数えたことにしてしまうと、その家はもう自分では数えませんからねえ」
「……ずるい言い方をなさいますわね」
「年寄りの独り言です」
電話はころんと切れた。
わたしは道の途中で立ち止まった。
数えた人。
あの日、波打ち際で四人を数えた子と。
四年かけて、一人と数え直した誰かと。
そのどちらでもない場所に、わたしは立っている。
(家でも、そうでしたわね)
視えるだけの娘は、数に入れてもらえなかった。
だから、これは仕事だ。
自分の話にしてはいけない。
わたしは歩き出した。
柏木さんの家は、浜からいちばん近い路地の奥にあった。
◆
柏木佐和子さんは、玄関の戸を開けて、わたしを見た。
五十代の半ばだと思う。
髪をきちんと結んで、化粧をしていない人だった。
仏壇の花が、玄関からも見えた。
新しい花だった。
「大津真琴といいます」
わたしは名乗った。
「四年前のことを、伺いに来ました」
佐和子さんは、驚かなかった。
「浜を見ている学生さんね」
「ご存じでしたか」
「あなたが来られた日から、町じゅうが言っています」
声は静かだった。
「上がってください」
わたしは靴を揃えた。
揃えているあいだに、佐和子さんが言った。
「あの子たち四人の名前は」
わたしは手を止めた。
「四年前から、知っています」
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