第6話「正しい遺族」
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仏壇の前に、写真が置いてあった。
制服の圭吾さんが笑っている。
海の家の前の写真とは、笑い方が違った。
こちらのほうが、顔が硬い。
「学校の写真は、こわい顔をしますね」
「海のお写真は、笑っておられました」
佐和子さんの手が、線香の箱の上で止まった。
「……あそこに、まだ残っていましたか」
「残っていました」
「そう」
それだけだった。
佐和子さんは線香を一本立てた。
わたしは手を合わせた。
合わせているあいだ、部屋は静かだった。
海が近いのに、波の音がしない家だった。
窓は閉まっていた。
網戸ではなく、硝子のほうが閉まっている。
八月の昼で、扇風機も回っていない。
畳の匂いと、線香の匂いだけがした。
仏壇の脇に、制服の上着が掛かっていた。
四年前の夏から、掛けたままの高さだった。
「お茶を出さなくて、いいかしら」
「けっこうです」
「じゃあ、座って」
佐和子さんは座布団を出して、自分は畳へ座った。
「鵜飼くんが、うちへ来たわ」
早い。
町は電話より噂が速い。
「あなたに全部言ってしまったと、泣いてました」
「怒られましたか」
「怒りません」
佐和子さんは膝の上で手を重ねた。
「あの子は、毎年うちへ来ます」
「毎年」
「灯籠の竹を届けて、玄関で謝って、帰ります」
「四年、ですか」
「四年です。四回とも、同じ言葉でした」
「なんと」
「すみませんでした、と」
佐和子さんは、そこで目を上げた。
「四年、待っていましたから」
わたしは、その言い方を頭の中で二回聞いた。
「四人の名前は、いつ知られたんですか」
「あの日の、夜です」
早い。
わたしが思っていたより、ずっと早かった。
「四人の親が、うちへ来ました」
「何時ごろですの」
「十時を過ぎていました」
佐和子さんは廊下の方を見た。
「圭吾が、まだ上がっていない夜です」
わたしは、その一行を頭の中へ置いた。
まだ見つかっていない夜に、四人の親が揃っている。
「そこの玄関で、並んで、頭を下げて」
「なんとおっしゃいましたか」
「うちの子は、なにもしていません、と」
わたしは黙った。
「四人とも、同じことを言いました」
「順番に、ですか」
「いいえ。声を揃えてでした」
「揃えて」
「来る前に、決めてきたんだと思います」
「どなたが決めましたの」
「聞いていません」
佐和子さんは、首を振った。
「聞いたら、その人を恨みますから」
佐和子さんの声は平らだった。
平らにするのに、何年もかけた声だった。
「そのあと、室井さんが来ました」
「なんと」
「圭吾くんは、一人で来たことにしましょう、と」
佐和子さんは、そこで少し笑った。
笑いは、目まで来なかった。
「わたしは、はいと言いました」
波の音のしない部屋で、その言葉だけが長く残った。
「なぜです」
わたしは聞いた。
聞くために来た。
「順番が、こわかったんです」
「順番」
「あの子が誘って、あの子が先に行って、あの子だけが帰りませんでした」
佐和子さんは手を開いて、指を四本立てた。
「五人いたと数えると、あの子が四人を連れて行った子になります」
わたしは息を止めた。
「圭吾さんが、誘われたのですか」
「あの子が誘いました」
はっきり言った。
「前の日に、うちで電話をかけてました。行こう行こう、って四人に」
「四人ともにですか」
「四人ともです。順番に、かけていました」
佐和子さんは指を下ろした。
「三人目で断られて、それでもかけ直していました」
「聞いていらしたんですね」
「台所にいました」
佐和子さんは、手を膝へ戻した。
「止めればよかったと、四年思っています」
仏壇の線香が、まっすぐ上へ細く伸びていた。
「四人が無事で、あの子だけが死にました」
「はい」
「五人だと数えたら、あの子は、人を巻き込んで自分が死んだ子になります」
佐和子さんの声が、初めて少し揺れた。
「一人だと数えたら、あの子は、一人で行って一人で死んだ、かわいそうな子です」
わたしは、膝の上の指を握った。
「わたしは、かわいそうな子のほうを選びました」
「どちらが、あの子にとってよろしかったんですの」
「分かりません」
即答だった。
「四年、分からないままです」
「けれど、選ばれた」
「選びました」
選んだ。
この人は、選んだと言った。
整えたとも、書かなかったとも言わなかった。
「そのために、四人には」
「黙ってもらいました」
「どのように」
「わたしが、一人ずつ会いました」
佐和子さんは、目を伏せなかった。
「お宅の子は悪くないから、来なくていいと言いました」
「それは」
「優しい言い方です」
先に、そう言われた。
「優しい言い方で、来るなと言いました」
「悲しむのも、やめてもらいました」
線香の煙が、少し曲がった。
「お墓に来られたら、人が数えますから」
「数えますと」
「五人いた、と言う人が出ます」
佐和子さんは、線香のほうを見なかった。
「一度言われたら、もう戻せません」
わたしは、そこでようやく理解した。
この家に、波の音がしない理由が分かった。
四年ぶん、閉めきってあったのだ。
「間宮さんは、駅から出ていらっしゃいません」
「知っています」
「四年です」
「知っています」
「駅で二時間待って、帰られます」
「知っています」
三度目だった。
三度とも、同じ強さだった。
佐和子さんは、はじめて手を膝から下ろした。
「わたしが、そうさせました」
言い切った。
言い切れる人だから、四年もったのだと思った。
わたしは息を吸って、聞くべきことを聞いた。
「灯籠は、なぜ一つですか」
「二つ流したら、誰か聞くでしょう」
「なんと聞かれますの」
「もう一つは、どなたのぶんですか、と」
声は平らなままだった。
「聞かれると」
「順番を、言わなきゃいけなくなります」
誰が誘って、誰が上がって、誰が上がらなかったか。
その順番だ。
毎年一つ流す灯籠は、供養ではなかった。
数え直しだった。
一人だった、一人だった、一人だった、と四年かけて確かめてきた。
念は、それを聞いていた。
だから毎年、上がってくる。
(今年、増えたのはなぜですの)
わたしは頭の中で紙をめくった。
鵜飼さんが言った。
三日前から増えた、と。
三日前。
「柏木さん」
「はい」
「わたしが来る三日前に、なにかありましたか」
佐和子さんは、少し考えた。
「……鵜飼くんが、うちへ来ました」
「なんの用で」
「今年は、竹を四本、多く割りましょうかと」
わたしは目を閉じた。
合った。
全部、合った。
「なんとお答えになりましたか」
「一つでいいと言いました」
佐和子さんは膝の上を見ていた。
「四本は、どなたのぶんですかと聞きました」
「鵜飼さんは」
「答えませんでした」
佐和子さんは、膝の上で指を組んだ。
「答えられるくらいなら、四年、黙っていません」
「そうしたら、あの子が」
声が、途切れた。
「浜に、上がってきたんですね」
わたしは、答えなかった。
答えるのは、わたしの役ではない。
わたしは座布団を返して、立ち上がった。
「窓は、お開けになりませんの」
佐和子さんは、硝子のほうを見た。
「開けたら、波の音が入ります」
「入りますわね」
「四年、聞いていません」
わたしは、それだけ聞いて玄関を出た。
◆
わたしは護符を持っている。
やり方は、はじめの日から知っていた。
潮時に結ばれた念は、潮で休ませられる。
満潮から引き潮まで、一周期だけ付き添えばいい。
そうすれば、来年から足跡は出ない。
浜は静かになる。
室井さんの言う静かさが、完成する。
わたしは三日、それをしなかった。
できないからではない。
してしまうと、数が永久に一つになる。
あの子が四年かけて数え直してきたものを、わたしが最後に閉じることになる。
視えるからといって、他人の家の数を決めていい理由はない。
護符は、忘れさせる道具ではない。
もう数えなくていいと言ってやる道具だ。
誰かが代わりに数えないなら、言う資格がない。
◆
その夜、満潮は二十二時をまわった。
宿を出るとき、帳場の塩見さんが顔を上げた。
「またその格好で浜か」
「動きやすいんですわ」
「動きやすいのはええけどな」
塩見さんは湯呑みの陰で、目だけ横へ流した。
「夜の風は、下から来るで」
「……ご忠告、承っておきますわ」
わたしは裾を押さえて、戸を引いた。
浜へ下りた。
風が海から来ていた。
懐中電灯の光を砂へ落として、わたしは足を止めた。
足跡は、五列になっていた。
四列は、これまでと同じ。
波の届かない高さから始まって、陸へ十歩。
五列目は、いちばん端にあった。
列は、陸から始まっていた。
そして海へ向かって歩いていた。
水際まで行って、そこで消えている。
わたしは光を、その最後の一歩に当てた。
爪先が、海を向いていた。
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