第7話「潮の順番」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
八月十六日は、朝から風がなかった。
海が鏡みたいになる日だ。
こういう日は、夜に潮の音がよく通る。
夕方、浜に人が出てきた。
竹を組む音がする。
鵜飼さんが枠を作って、紐で縛っていた。
その横に、竹の束が置いてある。
わたしは数えた。
一つぶんではなかった。
「今年は、余分に割りました」
声は室井さんだった。
白いポロシャツのまま、砂の上に立っている。
「四本、多く」
「そうですか」
わたしはそれだけ言った。
礼を言う場面ではない。
「あの方たちの名前は、書かれますの」
「書きません」
「ただ」
室井さんは浜を見たまま続けた。
「記録は、直しません」
風のない浜で、その声はよく届いた。
「役場の紙も、広報も、そのままです」
「直すと、どうなりますか」
「四人の名前が出ます」
「出ると」
「二十年、言われます」
「昨日と同じことをおっしゃいますのね」
「同じことしか、言うことがないんです」
室井さんは束の竹をそろえた。
「あの子たちは、もう二十二です。就職も、免許も、これからあります」
「四年前は、進路でしたわね」
「そうです」
「今年は、就職ですのね」
室井さんは束の竹をそろえ直した。
「来年は、ご結婚とおっしゃいますわ」
「……言うかもしれません」
「その次は、お子さんですわね」
室井さんは、竹を置かなかった。
「では、四年前と同じ理由ですわね」
「同じです」
室井さんは否定しなかった。
この人は、四年前と同じ判断を、四年後も同じ顔でする。
「竹だけは、割ってくださいました」
わたしは言った。
「あなたが割らせたわけじゃありませんよ」
「存じておりますわ」
「では、なぜ言うんです」
「言っておかないと、割った方がいなくなりますので」
室井さんは、はじめてわたしを見た。
「柏木さんが、うちへ来たんです」
「なんと」
「竹を、四本ぶん余分に割ってくださいと」
室井さんは、そこで初めて息を吐いた。
「四年で、あの人がうちへ来たのは、それが初めてです」
◆
日が落ちる前だった。
佐和子さんが浜へ下りてきた。
白いブラウスと、麻の鞄。
髪をきちんと結んでいた。
毎年、この形で来るのだと思った。
鵜飼さんが立ち上がった。
頭を下げた。
佐和子さんはうなずいた。
竹の束を見た。
「四本ぶん、余っています」
鵜飼さんが言った。
「組みますか」
佐和子さんは答えなかった。
わたしを見た。
「学生さん」
「はい」
「あなたが決めてくださるのかと思っていました」
わたしは、砂を踏み直した。
ここが、いちばん間違えてはいけない場所だった。
「決めません」
佐和子さんの目が、わずかに動いた。
「わたしは、視ただけです」
「視た人が、いちばん分かっているでしょう」
「分かっているのと、決めてよいのは、別ですわ」
わたしは砂の上の五列を指した。
昼のうちに乾いている。
縁だけが薄く残っていた。
「四つは、生きている方の跡です」
指を動かす。
「一つは、圭吾さんです」
最後の列は、海を向いていた。
「圭吾さんは、恨んでいません」
「……本当ですか」
「本当ですわ」
佐和子さんの肩が、少し動いた。
「恨んでいる念は、四年も律儀に数えません」
「恨む念は、陸から海へ人を引きます」
わたしは陸のほうを指した。
「この四つは、海から陸へ上がってきています」
「……上がって、なにをしているんですか」
「数えています」
「なにを、ですか」
「上がってきた人の数を、です」
佐和子さんは、口を閉じた。
「あの日、圭吾さんは波打ち際で四人を数えました」
わたしは、その順番を指でたどった。
「一番目に上がった方。二番目。三番目。四番目」
左足を引いた列。
そこで指を止めた。
「三番目の方が、走って人を呼びに行かれました」
「……ゆきちゃんですね」
「はい」
「足を、痛めていた子です」
佐和子さんの喉が、動いた。
「そのあと、圭吾さんは上がっていません」
わたしは、指を最後の列へ動かした。
「だから、あの子の数は、四人で止まっています」
波が寄って、引いた。
わたしは列の端を指した。
「四年、同じところで止まっています」
「……はい」
「竹を四本、と鵜飼さんがおっしゃった日から、足跡が増えました」
佐和子さんの指が、鞄の持ち手を握った。
わたしは、そこで一度黙った。
「圭吾さんは、聞いています」
佐和子さんは、砂を見ていた。
長いあいだ、見ていた。
「わたしが、直せばいいんですね」
「わたしは、そうは言いませんわ」
言葉が漏れた。
直さなかった。
「では、なにをしにいらしたんですか」
「数えに来ました」
わたしは砂の上の列を見た。
「数えて、お伝えするところまでが、わたしの仕事です」
「四人を数えたら、圭吾さんは誘った子になります」
わたしはそこを避けなかった。
「一人のままなら、かわいそうな子でいられます」
佐和子さんの目が、赤くなった。
「どちらが正しいのか、わたしには分かりません」
「学生さんでも、ですか」
「わたしでも、ですわ」
風がない浜だ。
波の音だけが動いていた。
「あなたの家の数です」
わたしは鞄を開けた。
白い紙を四枚出した。
灯籠へ名前を書く紙だ。
宿の帳場で頼んだものだ。
鵜飼さんが用意してくれた。
わたしはそれを、佐和子さんへ渡した。
渡して、手を離した。
「後始末まで、わたしにさせないでください」
◆
佐和子さんは、紙を受け取った。
しばらく持って、鞄へ入れた。
書かなかった。
「考えます」
それだけ言った。
わたしはうなずいた。
それで充分だった。
言わされた「わかりました」よりも、ずっと重い。
灯籠は、一つ組まれた。
「今年も、一つですね」
鵜飼さんが、紐を結びながら言った。
「はい」
佐和子さんは、それだけ答えた。
「四本は、置いておきます」
「……ええ」
「来年まで、乾かしておきますので」
四本の竹は、束のまま砂に置かれていた。
日が落ちて、灯籠に火が入った。
佐和子さんが枠を持って、水際まで歩いた。
鵜飼さんが、途中まで付いて、途中で止まった。
止まる位置が、四年ぶん決まっているのだと分かった。
◆
浜の入口の斜面に、人が立っていた。
白いシャツと、大きな鞄。
間宮ゆきさんだった。
バスに乗らなかったのだ。
わたしは近づかなかった。
間宮さんは、そこから先へ来なかった。
砂を踏まずに、コンクリートの上で立っていた。
鵜飼さんが振り返って、間宮さんを見た。
間宮さんは、鵜飼さんを見なかった。
海だけ見ていた。
そのとき、わたしのスマホが震えた。
知らない番号だった。
「もしもし」
「……あの、園部です」
「園部さん」
「はい。拓です」
園部拓さん。
写真の、細い男の子だ。
「亮太から、番号を聞きました」
声が遠かった。
電車の音がした。
「今、どこですか」
「乗り換えです。今日は、間に合わないです」
「毎年、そうですの」
「毎年、乗ります」
電車の音が近くなって、また遠ざかった。
「毎年、途中で降ります」
「今年は」
「まだ、乗っています」
わたしは、浜の灯籠を見た。
「間に合わなくても、いいと思いますわ」
「……はい」
「もう一人の方は」
少し、間があった。
「涼は、出ません」
電話は、それで切れた。
四人のうち、一人が斜面にいて、一人が電車の中にいて、一人が来て、一人が出ない。
これが、四年の形だった。
◆
満潮は、二十二時をまわった。
灯籠は沖へ出て、火の点になっていた。
佐和子さんは、水際に立っていた。
波が足首まで来ても、動かなかった。
それから、口を開いた。
わたしは、少し離れた。
聞かないことにした。
わたしが聞いてしまうと、この人の数はわたしのものになる。
波の音が近かった。
声は、風のない海に吸われて、こちらへは届かなかった。
届かないまま、しばらく続いた。
四つぶんくらい、続いたと思う。
最後に、佐和子さんは息を吐いた。
そのとき、砂が鳴った。
ぴちゃ、と濡れた音が、海から上がってきた。
「ひとり」
わたしは動かなかった。
「ふたり」
佐和子さんが、水際で顔を上げた。
「さんにん」
波が引いた。
「よにん」
声はそこで止まった。
待つ気配があった。
四年ぶん、そこで待ってきた気配だった。
わたしは息を吸って、待った。
声は、もう一度言わなかった。
繰り返さなかった。
それだけだった。
それだけが、四年前から変わったことだった。
◆
わたしは砂へ膝をついて、護符を出した。
紙に息を吹きかける。
潮の匂いが、少し薄くなった。
「もう、数えなくてよろしいですわ」
わたしは護符を、寄せてきた波の上へ置いた。
流されるままにした。
これは祓う道具ではない。
休ませる道具だ。
念は消えない。
ただ、毎年上がってこなくてよくなる。
わたしは満潮から引き潮まで、そこに座っていた。
二時間ほどだったと思う。
途中で、緒が一本ずつ細くなった。
四本は、それぞれの方向へ薄れていった。
生きている人の念は、本人が動けば形を変える。
最後に残った一本を、わたしは指で追った。
沖の折り返し点で、緒はゆっくりほどけた。
ほどける前に、わたしは読もうとした。
あの子が四年、なにを言いたかったのか。
水を通った念は、言葉が溶ける。
残るのは、順番と向きだけだ。
指の先に来たのは、砂の冷たさと、海の匂いだけだった。
わたしには、視えなかった。
引き潮になって、砂の上の五列は消えていた。
波が上から均していったのではない。
乾いた場所の跡まで、なくなっていた。
◆
翌朝、汐灘の停留所で、わたしは干物の箱を持たされた。
鵜飼さんが漁協から持ってきたものだ。
箱を受け取るとき、鵜飼さんの目が一度だけ下がって、すぐ上がった。
浜にいたぶんだけ、肩が赤くなっている。
「焼けましたわね」
「見てません」
「まだなにも申していませんけれど」
鵜飼さんは海のほうを向いた。
「お代は、慈恩さんへ回します」
「その言い方、慣れておられますわね」
「言われた通りに言いました」
鵜飼さんは、少し笑った。
四日で、初めて笑うのを見た。
「灯籠は、来年」
言いかけて、やめた。
「柏木さんが決めます」
わたしは箱を持ち直した。
「わたしは、聞かずに帰りますわ」
「聞かんのですか」
「聞くと、わたしの数になりますので」
鵜飼さんは、しばらく黙っていた。
「……数え直すのは、こっちの仕事ですね」
「そうですわ」
バスが来た。
乗る前に、斜面の上を見た。
間宮さんはいなかった。
駅から先へ行ったのか、駅から戻ったのかは、分からなかった。
わたしは、そこも聞かなかった。
◆
夜行バスは、行きと同じで腰にきた。
膝の上の箱が、海の匂いをさせている。
この匂いを持って京都へ帰るのは、なかなか度胸のいることだった。
スマホを開くと、大学からのお知らせが来ていた。
後期の履修登録。
締切の日付を二回読んで、それから今日の日付を見た。
二日、過ぎている。
(……もやしも、切れていますわね)
わたしは窓へ頭を寄せた。
視える目で、いちばん見えないのは自分の締切だ。
四年ぶんの数を数え直した町の話より、そちらのほうが差し迫っていた。
バスが山を越えると、海の匂いが少し薄れた。
数が一人に減っていった道筋は、分かった。
あの子が、なにを言いたかったのかは、分からないままだ。
分からないままで、たぶん、正しいのだと思う。
わたしは目を閉じて、干物の箱を抱え直した。




