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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
『守る親と壁』

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第一話「結構です」

xやってないから18禁できない(´・ω・`)


 手の甲に、何かが当たった。


 十時過ぎの、混んだ車内だ。


 吊り革には手が届かない。


 人の背中と、鞄の角。


 整髪料と汗と、誰かの弁当のにおい。


 空気が生温かい。


 当たったのは、手の甲の外側だった。


 骨の出ているあたり。


 (あれっ? 触られた? ……まさかね)



 その日の朝、下宿を出るときに、袖を引かれた。


 振り返る。


 誰もいない。


 廊下に風は通っていない。


「はいはい」


 声に出して、鍵を回した。


 鍵の回りが渋い。


 この下宿は、何もかもが少しずつ古い。


 この手のものは、まともに相手をすると居着く。


 挨拶だけして、忘れるのがいい。


 洛都大学の学部棟は、一階の掲示板の前だけがいつも混んでいる。


 履修変更の告知。


 奨学金の締切。


 サークルの勧誘。


 その真ん中に、わたしの顔があった。


 紙だけが新しい。


『ミスみやこ グランプリ 大津真琴さん(本学一回生)』


 写真のわたしは、口の端だけを上げている。


 この写真を使うと、いつ頷いたのか思い出せない。


「大津さん、おめでとう」


 声をかけてきたのは、名前を知らない人だった。


 同じ学科ではあるらしい。


「もう刷ってあるから、写真、これでいいよね」


「……はい」


 通りがかった事務の人が、足を止めずに言った。


「取材、学科のほうに来てるから。あとで寄ってね」


「めっちゃええやん、大津さん。うち、この写真いちばん好き」


 後ろから覗き込んできた人が、そう言って笑った。


 悪気はどこにもない。


「あ、取材の日、来週の水曜になったから」


「学科のほうで決めといたし。三限、空いてるやんな」


「……空いてます」


 わたしの時間割を、わたしより先に見た人がいる。


 わたしが頷いたのは、出ることだけだった。


 賞金の額と、家賃の残りを並べて、それで頷いた。


 副賞が一年間の観光の仕事だと知らされたのは、頷いたあとだ。


 断ろうとした言葉は、二回、口の中で溶けた。


 一度目は、相手が善意で笑っていたから。


 二度目は、言う相手がその場にいなかったから。


 誰も悪くない。


 悪くない人たちの前で、予定だけが一つずつ増えていく。


 取材の日。


 衣装の合わせ。


 どうせなら、と誰かが言う。


 どうせなら、の先を決めているのは、いつもわたしではない。


 辞退します、と言えばいい。


 言えばいいと思いながら、鞄を持ち直した。


 わたしは掲示板から少し離れて、自分の顔を見た。


 少し高いところから、知らない人の話を聞いているようだった。


 携帯が鳴ったのは、夕方だった。


「すまんね、大津さん」


 私服の刑事さんだ。


 久世さん、という。


 入学してから、妙な案件だけがこの人経由で回ってくる。


「見てほしい部屋があるんやけど」


「北のほうの、古い集合住宅や」


「空き部屋の呼び鈴が、夜のあいだに何遍も鳴る」


「住んでる人が入れ替わっても、まだ鳴るんや」


「配線は」


「替えた。ボタンごと新品にした」


「悪戯は」


「二晩張り込んだ。誰も来てへん」


「隣の部屋の呼び鈴と、郵便の人は」


「どっちも当たった。全部潰してある」


「潰してから、電話をくださるんですね」


「潰してから渡すのが、こっちの仕事や」


「幽霊だと思っていらっしゃるんですか」


「思てへん。思てへんから、大津さんに訊いてる」


「それが本当やとして、現場の何が変わる?」


「鳴らなくなります。それだけです」


 電話の向こうで、缶を開ける音がした。


「報酬は、いつもので」


「学食三日分。……受けます」


 その集合住宅は、階段の踊り場の電球が切れていた。


 二階のいちばん奥が、その部屋だった。


 鍵はもう外されている。


 中は空だ。


 畳の焼けた跡だけが、家具の形に残っている。


 換気扇が、回っていないのに小さく鳴った。


 表札の枠には、剥がした跡が三つ重なっている。


 人が入っては出ていった数だけ、糊が残る。


 外廊下の手すりは、触ると冷たかった。


 どこかの部屋で、テレビの音がしている。


 人は住んでいる。


 この部屋にだけ、誰もいない。


 九時を過ぎ、九時半を過ぎた。


 刑事さんは壁にもたれて、缶コーヒーの二本目を開けた。


 何も訊いてこない。


 待つのが上手い人だ。


 呼び鈴が鳴ったのは、十時を過ぎてからだった。


 二回。


 間を置かずに、続けて二回。


 音は思ったより軽い。


 電池の切れかけた玩具のような音だった。


 刑事さんが扉を開ける。


 誰もいない。


 外廊下は先が行き止まりで、そこまで全部見えた。


 わたしはボタンを見た。


 縁の右下だけが、白く擦れている。


 指の腹が、いつも同じ角度で当たっていた跡だ。


 新品にした、と刑事さんは言った。


 新品の樹脂が、もう擦れている。


 緒は短かった。


 ボタンから伸びて、扉の内側で止まっている。


 人にも、物にも還っていかない。


 死の匂いはしない。


「刑事さん」


「なんや」


「前にここに住んでいた方は、帰ってくるたびに、呼び鈴を二度押していませんでしたか」


「……自分の家やのにか」


「癖です」


「毎日、同じ場所を、同じ強さで押していたと思います」


「根が、人でも物でもないことがあります」


「繰り返された動きのほうに、結ばれてしまうことが」


 刑事さんは、それはどういう理屈やとは訊かなかった。


 この人は、怪異の正体を先に言わない。


 並べるのは、いつも事実だけだ。


 護符を出して、ボタンの上へ貼った。


 祓うのではない。


 休ませるだけだ。


 紙が一度だけ膨らんで、それきり動かなくなった。


「同じことを、毎日おやりになったんですね」


 畳に膝をついたまま、少しのあいだ動かなかった。


 毎日、二度。


 何年ぶんだろう、と数えかけて、やめた。


 呼び鈴は、その夜、二度と鳴らなかった。


 外へ出ると、風が出ていた。


「あ、そうや。忘れとった」


「駅に貼ってあったで」


「あれ、ちゃんと笑えてへんかったぞ」


「……刑事さんは、人の顔をよく見る仕事だと伺いましたけれど」


「見る仕事や。せやから言うてる」


「余計なお世話ですわ」


 舌打ちをして、言い直した。


「……余計なお世話です」


「サインでももらっとこか」


「油性でよろしければ、額に書いて差し上げます」


「怖いこと言うなあ」


 刑事さんは笑って、自動販売機に小銭を入れた。


 缶の落ちる音がする。


 一本を、こちらへ差し出してきた。


 受け取らなかった。


「送ろうか?」


「結構です」


 少し怒りながら、そう言った。


 断る理由は、特になかった。


 強いて言えば、さっきの仕返しだ。


 刑事さんは追ってこなかった。


 缶を持った手を、一度だけ上げただけだった。


 駅の階段を下りると、ホームはもう人で埋まっていた。


 小豆色の電車が入ってくる。


 塗りの厚い車体で、ホームの照明が長く伸びて映っている。


 乗る。


 押されて、奥へ入る。


 合図の音は鳴らない。


 放送が一つあって、それで扉が閉まった。


 人と人のあいだの隙間が消えた。


 人と、鞄と、においの中で、わたしは背筋だけを立てていた。


 アナウンスが、次の駅までの遅れを詫びている。


 誰も聞いていない。


 肩と肩が触れて、離れない。


 誰のものか分からない体温が、背中に張りついている。


 手の甲に、何かが当たった。


 混んでいる。


 鞄だろう。


 当たっただけだ。


 わたしはそう並べた。


 並べれば、たいていのことは片づく。


 視ようとしたときには、もう終わっていた。


 電車は次の駅で止まって、また混んだ。


 降りるまでの二十分を、同じ姿勢で立っていた。


 振り返らなかった。


 手の甲の、当たった高さだけを、わたしは覚えた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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