第二話「同じ扉」
レポートの締切を、一日間違えていた。
水曜の夕方だと思っていたものが、火曜の正午だった。
気づいたのは、研究室棟の廊下の紙を見たときだ。
紙はこちらを見ていない。
日付が書いてあるだけだ。
(……終わっていますわね)
教務の窓口へ行って、いちおう訊いた。
「期限を過ぎたものは、受け取れません」
「……はい」
それで終わりだった。
窓口の人は、悪くない。
書きかけの八枚が、鞄の中で少し重くなっただけだ。
手帳を開くと、今週は三日が埋まっていた。
埋めたのは、わたしではない。
締切を一日ずらして覚えていたのは、たぶんそのあたりだ。
たぶん、で片づけた。
一階の掲示板には、写真が増えていた。
同じ写真が三枚。
大きさだけが違う。
その横に、見本が一枚留めてある。
駅に貼るものらしい。
わたしの顔が、路線図の隣に並ぶそうだ。
どうせなら、と誰かが言ったのだと思う。
学科の掲示には、地元紙の取材の日程が入っていた。
わたしは聞いていない。
控室の衣装合わせは、金曜の三限のあとになっていた。
サイズを訊かれた覚えがない。
どこかで、誰かが答えたのだろう。
三限の講義室では、後ろの席の人が振り向いた。
「大津さん、取材って何訊かれるん」
「知りません」
「知らんの?」
「わたしが答えると決まってから、まだ誰も来ていませんので」
「うちの学科から出るの、はじめてらしいで」
「そうですか」
「取材の人、写真をもう一回撮りたいって言うてはったで」
「……何枚あっても、同じ顔しか出ませんけれど」
「もうちょっと嬉しそうにしいや」
嬉しそうな顔の作り方は、写真のときに一度習った。
三枚撮り直して、いちばん口の端が上がっているものが選ばれた。
選んだのも、わたしではない。
「一年ぶんだから、そんなに大変じゃないと思うけど」
学科の人が、通りすがりにそう言った。
「……そうですか」
一年ぶん。
一年が、ぶんという単位になった。
わたしのいないところで、わたしの予定が決まっていく。
誰も嘘をついていない。
誰も、わたしに訊いていないだけだ。
財布を開けて、中を数えた。
家賃の振込が来週で、口座には足りない。
冷蔵庫にはもやしが二袋ある。
賞金の話は聞いたけれど、いつ入るかは聞いていない。
雨は、夕方から降りはじめた。
駅の階段を下りたところに、掲示板で見たのと同じものが貼ってあった。
見本ではなく、もう本番らしい。
わたしの顔が、路線図の隣にある。
紙は大きく、色が濃い。
通る人は、誰も見ていない。
見られるために貼ってあるのに、誰も見ない。
それでいい、と思った。
思ったところで、剥がしてくださいとは言えない。
言う相手を、わたしは知らない。
傘を持つ人が増えると、ホームの列は太くなる。
入ってくる電車の音が、いつもより低い。
その日も、六時十八分の電車だった。
いちばん後ろから二両目。
階段を下りて、正面の扉。
毎日そこから乗る。
選んでいるのではない。
階段がそこにあるからだ。
乗る。
押されて、奥へ入る。
扉が閉まると、隙間がなくなった。
人の背中と、鞄の角。
整髪料と、汗と、濡れた傘のにおい。
発車して、体が一度うしろへ引かれた。
誰も倒れない。
倒れる隙間がないからだ。
窓は白く曇っていて、外は見えない。
壁は木目で、座席の布は深い黄緑だ。
毛足のある布で、光の当たり方で色が変わる。
座っている人の顔は、ここからは見えない。
次の駅までは、二分ほど。
手の甲に、何かが触れた。
前と、同じ高さだった。
今度は当たったのではない。
置かれた。
離れない。
電車が揺れても、離れない。
揺れに合わせて動いていない。
置いたまま、動かさずにいる。
振り返る。
顔が並んでいた。
会社帰りの人。
学生。
紙袋を提げた老人。
その人は、立ったままだった。
この電車に、優先座席の表示はない。
どの席も同じ扱いで、譲るかどうかは乗っている人が決める。
決めなくても、誰にも咎められない。
全員が、少しずつ疲れている。
誰の顔も普通だった。
こちらを見ている人は、一人もいない。
みんな、少し上を見ている。
中吊りか、扉の上の表示か、何もないところか。
人を見るのは、得意なほうだ。
どこを見ているか。
手がどこにあるか。
息が速いか、遅いか。
見ようと思えば、たいていのことは分かる。
分からなかった。
全員が同じ顔をしていた。
疲れていて、無関係で、少しだけ迷惑そうな顔。
腕を伸ばせば届くところに、人がいくらでもいる。
「すみません、降ります」
次の駅で降りた。
ホームに立って、人が散っていくのを見た。
傘の先から、水が落ちている。
扉が閉まって、電車が行く。
車内はもう、別の形になっていた。
視ようとしても、あの中へは戻れない。
アナウンスが、遅れを詫びている。
ホームの端で、駅員が傘立てを直していた。
わたしは柱にもたれて、手の甲を見た。
何もついていない。
跡も、熱も、においも残らない。
残らないものは、証拠にならない。
残ったのは、二つだけだ。
前と同じ車両。
前と同じ扉。
わたしの乗り方が毎日同じだから、こちらも毎日同じでいられる。
偶然が二回。
二回は、まだ偶然だ。
刑事さんに言えばいい。
あの人は、笑わないと思う。
笑わずに、たぶん明日から駅に立つ。
仕事のあとに、自分の時間を削って立つ人だ。
言えば、その日から送ってもらうことになる。
十九の学生が、刑事に持っていく話ではない。
何より、証拠がない。
触られました、と言う。
それだけだ。
わたしは、次の電車を待った。
この駅には、同じ路線しか通っていない。
次の電車は空いていた。
座れたのに、立ったままでいた。
座ると、うしろが見えない。
そう思ってから、自分がそう思ったことに気づいた。
降りる駅の改札で、定期を入れた。
機械がいったん飲み込んで、向こう側の口から返してくる。
抜き取って、財布へ戻した。
隣の改札では、財布を機械にかざしただけの人が通っていった。
去年から、そういう人が増えた。
わたしのは、まだ入れるほうだ。
外は、雨が強くなっていた。
傘を差して、いつもの道を歩く。
コンビニの前で、傘のビニールが風に鳴っていた。
下宿までは七分。
街灯は四つで、間隔はどれも同じだ。
下宿へ着いたのは、いつもより四十分遅かった。
鍵を回して、電気をつける。
鞄を置いてから、右手が左の袖口を引いているのに気づいた。
いつからやっていたのか分からない。
手を離した。
少しして、また引いていた。
今度は、意識してやめた。
湯を沸かすあいだ、立ったまま袖口を見ていた。
布が、少し伸びている。
わたしが引いたぶんだ。
もやしを茹でた。
味は覚えていない。
電気を消さないまま、布団に入った。
消さなかった理由は、考えなかった。
天井の木目を見ていた。
節が三つある。
どれもこちらを見ていない。
明日の時間を、順番に思い浮かべた。
一限は休講。
二限に出るなら、家を出るのは八時半。
帰りは、六時十八分。
明日も、同じ電車に乗る。
定期は、その一枚しか持っていない。




