第三話「混みすぎていて」
その日は、朝から決めていた。
講義のあいだも、そのことばかり考えていた。
ノートには、日付しか書いていない。
下宿に戻って、鞄の中身を畳の上に全部出した。
教科書。
筆記具。
財布。
折りたたみの傘。
その上に、いつもの三つを足す。
護符。
霊符。
式札。
式札は五枚あって、そのうち二枚は端が黒い。
去年のうちに使いかけたものだ。
護符は、休ませるための紙。
霊符は、それより強い。
式札は、追わせるためのもの。
追わせるほうは、まだ使うつもりがなかった。
桃木剣は、床に置いたままにした。
大学の鞄には入らない。
入れて歩けば、それだけで人が避ける。
人へ向けるものは、何一つ入れなかった。
(今日は、視ますわ)
声には出さなかった。
鞄を閉じて、電気を消した。
六時十八分。
いつもの車両。
いつもの扉。
変えなかった。
変えれば、来ないかもしれない。
ホームでは、いつもより前に立った。
扉の正面ではなく、少し横。
背中を壁につけたかったが、ホームに壁はない。
乗る。
押されて、奥へ入る。
扉が閉まる。
息を一度、深く吸った。
視た。
緒が見えた。
一本ではない。
手すりから、吊り革へ。
吊り革から、隣の人の肩へ。
鞄の持ち手から、その持ち主の指へ。
誰かの背中から、誰かの背中へ。
全員が、全員に触れている。
触れたところには、必ず何かが残る。
残ったものが、また次の人へ移る。
人の輪郭より、緒のほうが多い。
吊り革の輪が揺れるたびに、緒が擦れる。
擦れたところで、色が混ざる。
混ざったものは、もう分けられない。
どれが誰のものか、分からない。
(混みすぎている)
あの空き部屋なら、すぐに分かった。
根が一つで、伸びる先も一つだった。
人が一人か二人しかいない場所でなら、緒は勝手に浮き上がる。
ここは違う。
多すぎるものは、読めない。
手の甲に、何かが触れた。
同じ高さ。
そこから、動いた。
手首の内側を、袖の縁をなぞるように上がっていく。
肘の手前で止まって、戻る。
戻って、今度は背中へ回った。
鞄で隠れている側だ。
布の上を、手のひらが下りていく。
声が出なかった。
出そうとして出なかったのではない。
出すという考えが、浮かばなかった。
視ている。
視ているのに、分からない。
いま触れているのが、どの緒なのか。
わたしは動かなかった。
動けば、逃げられる。
そう思ってから、逃げるのはどちらだろうと思った。
次の駅で、扉が開いた。
人が降りて、人が乗る。
緒が、いっせいに入れ替わった。
さっきまであった線は、もうどこにもない。
新しい線が、また同じだけ張られる。
覚えておくことができない。
覚えても、次の駅で消える。
わたしにできるのは、視ることだけだ。
視えていて、何も分からない。
そのとき、においが変わった。
整髪料でも、汗でも、雨でもない。
嗅いだことのあるにおいだった。
どこで嗅いだのかは、思い出さなかった。
人が多い。
誰かの荷物だろう。
そう決めて、鼻から息を抜いた。
降りる駅まで、ずっと視ていた。
最後まで、分からなかった。
帰り道は、覚えていない。
改札を出たことも、靴を脱いだことも。
気がつくと、洗面所の電気をつけていた。
鏡は、下のほうが曇っている。
石鹸は、白いのが半分になっていた。
手を洗った。
指のあいだを洗う。
爪のあいだも洗う。
手の甲は、いちばん最後にした。
腕は、肘まで洗った。
背中は、洗えない。
石鹸が、うまく泡立たない。
もう一度、洗った。
蛇口を閉めてから、腕が震えているのに気づいた。
震えはじめたのは、たぶん電車の中だ。
気づいたのは、いまだ。
水の温度が分からなかった。
顔を上げると、鏡に自分が映っていた。
駅に貼ってあるのと、同じ顔のはずだ。
同じには見えなかった。
部屋に戻って、電気をつけた。
鞄は、まだ玄関に置いたままだった。
畳の上に、しまい忘れた護符が一枚落ちている。
拾って、机に置いた。
何か食べたほうがいい。
そう思って、思っただけで終わった。
布団に入ってから、袖口をまた引いていた。
昨日、やめたはずだった。
次の日の昼、学食で、衣装合わせの日が変わったと聞いた。
変えたのは、わたしではない。
新聞の取材は、来週のままらしい。
らしい、で聞く自分の予定が、また一つ増えた。
携帯が鳴ったのは、そのすぐあとだった。
「大津さん、いま大丈夫か」
「はい」
「たいした話やないんやけどな」
小学校の裏にある祠が、去年から少し傾いているらしい。
「近所の人が、直してええもんか訊いてきてな」
「祠の向きだけ、写真に撮ってきてください」
「向きだけでええんか」
「元の向きが分かれば、直していいかどうかも分かります」
「ほな、撮っとくわ」
用は、それで済んだ。
切る前に、少し間があった。
「なんかあったか」
「いえ」
「そうか」
それだけだった。
この人は、追ってこない。
黙って待つ人だ。
待たれていることには、気づいていた。
気づいていて、何も言わなかった。
電話を切ってから、自分の手を見た。
何も残っていない。
午後の講義には出た。
板書を写して、余白に日付を書いた。
書いた字が、いつもより小さい。
昨日の夜、手を洗った。
二度洗って、二度目は、熱いと思わなかった。




