第四話「掴む」
駅の写真の話は、学食まで追いかけてきた。
「見たで、駅の。めっちゃ大きいやん」
「そうですか」
「写真、一枚もらえたりせえへんの?」
「聞いていません」
「聞いときや。記念やん」
同じ学科の人たちは笑って、次の話題へ移っていった。
悪気はない。
誰にも、どこにもない。
わたしはうどんの丼を持ち上げて、汁を少しだけ飲んだ。
昼の学食は混んでいる。
声と、盆のぶつかる音と、椅子を引く音。
人の多い場所は、平気だったはずだ。
いつから、確かめるようになったのだろう。
携帯が鳴ったのは、盆を返したあとだった。
刑事さんだ。
「大津さん、いま大丈夫か」
「はい」
「祠な、写真撮ってきたで」
「正面は、どちらを向いていましたか」
「山や。道に背中を向けとった」
「なら、向きは元のままです。そのまま起こして大丈夫です」
「ほうか。近所の人に言うとくわ」
それから、少しだけ声が緩んだ。
「呼び鈴の部屋な、あれから一遍も鳴ってへんそうや」
「そうですか」
「助かった。礼を言うとくで」
「礼は、学食三日分でいただいています」
「律儀やなあ」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「それとな、月末あたり、もう一件見てほしいもんがある」
「日が決まったら、また連絡するわ」
「……分かりました」
言うなら、いまだった。
電車で、と言いかけて、その先を飲み込んだ。
証拠がない。
視えたとは言えない。
視えてすらいない。
わたしが持っているのは、手の甲の感触と、覚えのあるにおいと、それだけだ。
どちらも、わたしの中にしかない。
取り出して、机に並べることができない。
この人は、事実しか並べない人だ。
並べるものを持たずに、この人の時間をもらうわけにはいかない。
「なんかあったら、いつでも言うてや」
「はい」
電話は切れた。
切れてから、さっきの間のことを考えた。
あの人は、待っていた。
知っていて、わたしは黙っている。
六時十八分。
いつもの車両の、いつもの扉。
今日も、変えなかった。
列に立って、自分の順番で乗る。
押されて、奥へ入る。
放送が一つあって、扉が閉まった。
整髪料と、汗と、鞄の革のにおい。
今日は、視なかった。
視ても分からないことは、もう確かめてある。
代わりに、覚えることにした。
当たる高さ。
置かれる角度。
布ごしの、体温の伝わり方。
感触なら、わたしの側に残る。
残ったものは、並べられる。
それが今日の、わたしの理屈だった。
発車して、体が一度うしろへ引かれた。
手の甲に、触れた。
同じ高さ。
同じ置き方。
揺れに、合わせていない。
ここまでは、知っている。
次も知っているつもりで、息を整えた。
違った。
手首を、掴まれた。
袖の端がずれて、素肌に指が回った。
親指が、骨の内側に当たっている。
脈の上に、指があった。
痛くはない。
痛くない強さのまま、動かせなくする置き方だった。
息を吸った。
吸ったまま、止まった。
吐き方を、体が忘れている。
心臓の音が、耳の内側に移った。
声、と思った。
出せ、と思った。
「……あの」
自分の耳にしか届かない大きさだった。
前の人の背中は、動かない。
誰も、何も気づかない。
もっと大きく、と思う。
思うだけで、喉が動かない。
喉は、乾いてすらいない。
ただ、動かない。
人が多すぎる。
声を出せば、この車両の全員が振り返る。
振り返った全員に、わたしはどこを指せばいい。
うしろ、としか言えない。
うしろは、人の壁だ。
間違っていたら。
混雑で流されただけの、誰かの手だったら。
掴んでいる。
流された手は、掴まない。
分かっているのに、間違っていたら、が消えない。
肘を上げようとした。
上がらない。
どこに力を入れれば肘が上がるのか、その順番が思い出せない。
指は、動く。
指だけが、動く。
鞄の持ち手を、握り直した。
それが、精一杯だった。
窓の外を、灯りが流れている。
中吊りが、揺れている。
誰かの新聞が、頁を繰られた。
世界は、いつものままだ。
わたしの手首だけが、違う。
二分の駅間が、終わらない。
電車が、緩んだ。
駅に着く。
手が、離れた。
扉が開くより、先だった。
速くて、音がなくて、ためらいがなかった。
力を抜く早さまで、決まっていた。
何度も、そうしてきた早さだ。
初めての手では、なかった。
扉が開いて、人が降りる。
わたしも降りた。
降りる駅では、なかった。
考えて降りたのではない。
足が先に動いて、ホームの風の中にいた。
人波が、階段へ流れていく。
わたしは柱の横に立って、右の手首を見た。
跡は、ない。
熱だけが、まだ残っている気がする。
気がするだけで、それも証拠にはならない。
手首は、洗いたかった。
洗うのは、あとだ。
先に、やることがある。
鞄を開けた。
留め金で、指が二回滑った。
式札を一枚、抜き出す。
端の黒くないものを選んだ。
顔は、見ていない。
名前も、知らない。
緒は、あの混雑の中では選り分けられない。
残っているものが、一つだけある。
右手の、あの動き。
同じ高さに来て、同じ角度で置かれて、同じ速さで離れていく軌跡。
繰り返された動きには、念が結ばれる。
あの空き部屋の、呼び鈴と同じだ。
わたしは札を、手首の熱の上に置いた。
覚えなさい。
人ではなく、動きを。
札が、指の先で一度たわんだ。
行き先を、確かめるように。
離れる。
紙一枚が、風に逆らって飛んでいく。
階段を下りる人の肩のあいだへ入って、見えなくなった。
追わなかった。
追えない。
札が何をたどっているのか、わたしには視えない。
わたしにできるのは、放つことと、待つことだけだ。
次の電車で、一駅戻った。
空いていた。
座らなかった。
下宿に戻って、電気をつけた。
窓を、指二本ぶんだけ開ける。
札は、そこから帰ってくる。
湯を沸かして、もやしを茹でて、食べた。
味は、確かめなかった。
机の前に座って、待った。
ノートを開いたが、一行も書かなかった。
開いているだけで、講義の続きをしている顔になれる。
誰も見ていないのに、そうした。
袖口を、引いていた。
気づいて、やめた。
やめられたのは、一度だけだった。
十一時を過ぎた。
十二時を過ぎた。
蛍光灯が、時々小さく鳴る。
窓の隙間で、カーテンが一度だけ揺れた。
帰ってきた。
いつもなら、滑り込んでくる。
紙のままの軽さで、音もなく机まで届く。
今日は、落ちた。
桟を越えたところで、力の尽きたように、畳へ落ちた。
紙の落ちる音では、なかった。
拾い上げる。
沈んだ。
手のひらに載せただけで、皮膚が沈んだ。
紙一枚の重さではない。
濡れても、厚くもなっていない。
見た目は、出ていったときのままの札だ。
持った手だけが、嘘をつかれている。
開けば、読める。
札がたどってきたものが、そこにある。
端に指をかけた。
指が、止まった。
札が拒んだのか、わたしが止めたのか、分からなかった。
指の先が、冷たかった。
今日は、開かない。
開かないことに、理由は付けなかった。
札を机の真ん中に置いて、その上に湯呑みを置いた。
湯呑みは、空だった。
置いてから、これは重石のつもりなのかと思った。
紙が、重い。
こんな重さの式札を、わたしは知らなかった。




