第五話「この車両より多い」
朝が来る前に、目が覚めた。
目覚ましは、まだ鳴っていない。
外は、まだ暗い。
布団の中で、続きを眠る気はもうなかった。
昨日の夜、開かないと決めた。
決めただけで、眠れたわけではない。
天井の節を三つとも覚えるくらいには起きていた。
電気をつけて、机の前に座った。
湯呑みは、置いたときのままだった。
窓の外を新聞配達の原付が通り過ぎていった。
朝のいちばん早い音だ。
持ち上げると、底が一瞬、札に貼りついた。
札は、まだ重い。
夜のあいだに、軽くなってはいなかった。
端に指をかけて、今度は止めなかった。
開く。
緒が、あふれた。
畳の上に、見えない束が広がる。
根が、ひとつ。
そこから、放射状に。
先が、全部外を向いている。
束は畳の目に沿って広がっている。
広がりの端が部屋の壁を越えていた。
壁の向こうまで、続いているのだ。
一本ずつは、細い。
細くて、声がない。
数える。
根に近いところを指で押さえて、順に繰っていく。
繰った端から、どこまで繰ったのか分からなくなる。
押さえた指の下に、まだある。
繰る。
次が来る。
繰る。
また次が来る。
息を止めて、続けた。
息が続かなくなって、吐いた。
繰っても、繰っても、まだある。
途中から、数を口の中で言うのをやめた。
言っても、続きがあるからだ。
数えるのを、やめた。
終わらないからだ。
畳の上の束を、しばらく見ていた。
「数えられるものしか、数えられません」
声に出して、そう言った。
言い訳です、と自分で分かる声だった。
誰に言ったのかは、自分でも分からない。
言ってから、束に頭を下げた。
下げてから、意味を考えた。
謝ったのか、挨拶をしたのか。
どちらでもある気がした。
読めるのは、本数と、匂いの有無。
それだけだ。
言葉は、一本からも読めなかった。
最初から、言葉にならなかったものたちだ。
あの車内で、飲み込まれたままの声だ。
札を閉じて、机に戻した。
窓の外が、明るくなりはじめていた。
朝、下宿を出た。
鞄の中身は昨日と同じだ。
同じでないのは、こちらの目当てだけだ。
朝の電車は、夜と同じくらい混む。
顔ぶれが、少し違うだけだ。
ホームの列はいつもの長さだった。
並んでいる人の顔を、今日は見た。
毎朝、同じ順番で並んでいる。
わたしも、その一人だ。
いつもの車両に、いつもの扉から乗った。
変えなかった。
変えるのは、突き止めてからでいい。
今日は、視ない。
視れば、また全部が見える。
全部は、読めない。
探すのは、一つだけでいい。
あの軌跡。
同じ高さに来て、同じ角度で置かれて、同じ速さで離れる、右手の動き。
札が覚えて、わたしが覚え直した。
手首の熱はもう消えた。
軌跡のほうは、消えていない。
扉が閉まる。
鞄を、体の前に抱えた。
息を整えて、待った。
待つ、と決めて乗ったのは初めてだった。
いつもは、ただ運ばれている。
うしろで、誰かが新聞を畳んだ。
髪の上で、空気が動いた。
息だ。
吸う息。
わたしの髪のにおいを、吸っている。
確かめるように、二度。
首筋に、今度は吐く息が当たった。
当てる場所を、選んでいる息だった。
うなじの毛が、立った。
鳥肌は、腕まで来て止まった。
髪の先が、持ち上がった。
指だ。
毛先を、量るように滑って、離れていった。
量られている、と思った。
長さか、重さか、それとも別の何かか。
振り向かなかった。
振り向けなかったのが先か、振り向かないと決めたのが先か、あとから考えても分からない。
ただ、位置は分かった。
真うしろ。
息の高さからして、わたしより頭一つ高い。
今日は、それでいい。
逃げない、と決めていたから立っていられた。
決めていなければどうだったかは、考えない。
降りる駅の手前で、人が動きはじめた。
人の流れで、体の向きが変わる。
その一瞬だけ、視た。
全部ではない。
真うしろの、右手のまわりだけ。
視る範囲を、手のひらほどに絞る。
絞れば、混線は入ってこない。
あった。
吊り革を持つ右手に、束の根がある。
今朝、畳の上で見たものと同じ形だった。
顔を見た。
清潔だった。
髭が剃ってあって、爪が短い。
鞄の持ち方が、丁寧だった。
年も、背格好も、服も、少し歩けば忘れる。
そういう見た目をしていた。
不審なところを探して、一つも見つからなかった。
目は、合わなかった。
男は窓の上の広告を見ていた。
誰もが見ている、あのあたりだ。
この人は、朝もこの車両にいた。
昨日までのわたしは、それを知らないで立っていた。
電車が止まる。
声は、かけなかった。
かける言葉を、持っていなかった。
同じ扉から、降りた。
改札を、男が出ていく。
降りる駅も、同じだった。
定期を入れて、抜き取って、財布へ戻す。
わたしと、同じ手順だった。
改札の人はこの人の顔を覚えていないだろう。
覚える理由が、どこにもない。
駅前の道を、いつもの向きへ歩いていく。
迷いのない歩幅だった。
毎朝そうしている人の、歩き方だった。
男は、一度も振り返らなかった。
振り返る必要が、ないからだ。
駅前は朝の速さで人が流れている。
誰もが、行き先を持っている。
男の行き先も、その中に紛れていく。
追わなかった。
追えば、気づかれる。
柱の横に立って、遠くなる背中を見ていた。
右手から、束が出ている。
距離が開いても、減って見えない。
今朝の車両に立っていた人を、頭の中で並べてみた。
扉のまわり。
座席の前。
吊り革の列。
並べ終わる前に、分かった。
緒のほうが、多い。
あの車両に乗っている人数より、あの右手から出ている緒のほうが多い。
百を、超えている。
それより先は、数えなかった。
数えるのをやめるのは、今日はじめてではない。
今朝、畳の上でもやめた。
どちらも、理由は同じだ。
終わらないからだ。
束の先は、今朝もこの駅の改札を通ったのかもしれない。
男の背中が、角を曲がって消えた。
わたしは、大学へ歩いた。
講義室の後ろの席で、わたしは人数を数えていた。
数えるつもりは、なかった。
目が勝手に、頭数を拾っていく。
廊下に出れば、廊下の人数。
学食に入れば、列の人数。
止まらなかった。
板書は、写した。
写しただけだ。
数えて、どうするのか。
足りるか足りないかを、確かめている。
何と比べているのかは、考えないようにした。
繰り返された動きには、念が結ばれる。
わたしのこの癖には、何が結ばれるのだろう。
午後の講義のあいだ、ノートの余白を見ていた。
今朝の束を、思い出す。
乾いた緒が、何本か混じっていた。
ほかの緒と、手ざわりが違う。
湿ったものの中に、乾いた藁が混ざっているようだった。
数は、少ない。
少ないことに、安心してはいけない気がした。
どこかで、似たものに触れた気がする。
思い出しかけて、やめた。
乾いている、とだけ覚えておくことにした。
窓の外で、チャイムが鳴った。
教室から、人が減っていく。
減っていく人数を、また数えた。
帰りの電車の時間が、近づいてくる。
あの右手を、思い出す。
この車両に、何人乗っているか。
数えて、足りなかった。




