第六話「あなたが悪いんですよ」
目が合った、と男は思った。
夜の改札の外だった。
男は鞄を持ち直して、腕時計を見る顔を作った。
偶然、目が合っただけの顔だ。
顔は、いくらでも作れる。
作らなくても、誰も見ていない。
あの子は今日、六時十八分に乗らなかった。
ホームに立って、電車を見送っていた。
初めてのことだ。
毎日、同じ時間の、同じ車両の、同じ扉。
まじめな子だ。
まじめなのも、悪い。
覚えてくれと言っているようなものだ。
こちらが覚えたのではない。
向こうが、覚えさせたのだ。
駅の階段の下に、あの子の写真が貼ってある。
名前も大学も、書いてある。
毎朝目に入る。
見るなというほうが、無理だ。
ああいうものを貼るほうが悪い。
見た目がいいから悪い。
胸が大きいから悪い。
スタイルがいいから悪い。
あの時間に乗るほうが悪い。
こちらは、何一つ間違えていない。
欲しくなるものを、目の高さに並べたのは向こうだ。
写真より、実物のほうがいい。
それを知っているのは、見つけたからだ。
見つけたものは、こちらのものだ。
あの子がどの駅で降りるかも、知っている。
訊いたことは一度もない。
訊く必要がないからだ。
あの子は、声が出ない。
それも知っている。
何度も、確かめたことだ。
女は、目を逸らさない。
立ち止まったまま、こちらを見ている。
それで、どうする気だ。
誰が見ていた。
何が残っている。
何も、ない。
あなたが悪いんですよ。
口には出さない。
出す必要もない。
「あのっ」
◆
昨日の帰りの車内で、男は何もしなかった。
その日の朝も、いつもの車両の、いつもの扉から乗った。
変えなかった。
変えれば、あの右手はわたしの見えないところへ行く。
見えるところに置いておく。
用意した理屈は、それだけだった。
乗る前にホームで一度だけ視た。
右手の根は、今日も減っていない。
扉が閉まる。
鞄を前に抱え直した。
男は斜めうしろにいた。
二つ目の駅で、人の乗り降りに紛れて、気配が動いた。
真うしろ。
息の高さで分かった。
発車して、体が一度うしろへ引かれた。
腰の横に、手の甲が触れた。
いつもの高さだった。
ここまでは、知っている。
知っていれば、こわくないはずだった。
布が、動いた。
ブラウスの裾が、少しだけ引かれた。
布と肌のあいだに、指が入った。
腰の後ろの素肌に、人の指があった。
車内の音が遠くなった。
放送も、車輪も、誰かの新聞も、水の中で鳴っている。
近くにあるのは、指だけだ。
(数えなさい)
自分にそう言った。
降りるまでの駅を数える。
あと、三つ。
指が腰の骨の上をなぞった。
あと、二つ。
指先が、スカートの後ろのボタンに掛かった。
外そうとしている、と頭のどこかが言った。
言っただけだった。
体は、立っている。
立っている以外のことを、何もしていない。
電車が緩んだ。
手が、退いた。
扉が開く前だった。
退く速さだけ、知っている速さだった。
人が降りて、人が乗って、わたしは降りる駅まで立っていた。
学部棟の洗面所で手を洗った。
洗ってから、腰の後ろへ手を回した。
スカートのボタンが、外れていた。
掛かったのは、分かった。
外れたのは、分からなかった。
いつ外れたのかを、わたしは言えない。
自分の体に起きたことを、わたしは言えない。
留め直すのに時間がかかった。
鏡の中のわたしは、いつもの顔をしていた。
この顔の作り方を、いつ覚えたのだろう。
携帯が鳴ったのは、昼だった。
「大津さん、いま大丈夫か」
「はい」
「月末の件な、書類がまとまったんや」
「夕方、大学の近くまで行くさかい、渡しとくわ」
夕方、大学前の喫茶店で会った。
封筒を受け取って、鞄に入れた。
開くのはあとでいい。
コーヒーが来るのを待って、切り出した。
「知り合いに、訊かれたことがあるんです」
「一般論として、伺いますけれど」
「証拠って、どれくらい要るものなんですか」
「なんの証拠や」
「人が、人を捕まえるのに要る証拠です」
久世さんはコーヒーに口をつけた。
「こっちの仕事はな、積むことや」
「誰が、いつ、どこで、何をしたか」
「それを言える人間が、何人おるか」
「一遍きりか、繰り返しか」
「繰り返しなら、次がいつ、どこで起きるか」
「そういうもんを、一つずつ積む」
「積み上がったら、捕まりますか」
「積み上がるまでは、捕まらん」
はっきりと、そう言った。
「いちばん強いのは、その場や」
「その場を、見てる人間がおることや」
「……その場で、声が出なかったら」
訊いてから、一般論の顔を作り直した。
「出えへん人のほうが、多いで」
久世さんはこともなげに言った。
「せやから、積むんや」
コーヒーが半分になった。
「誰の話や、とは訊かへんよ」
わたしは、答えなかった。
答えないことが答えになると知っていて、答えなかった。
伝票は久世さんが取った。
店を出るとき、背中に一つだけ届いた。
「言うんやったら、早いほうがええで」
振り返ったときには、人混みのほうへ歩き出していた。
六時十八分の電車を、ホームで見送った。
乗らない、と決めたのは階段の途中だった。
理由は言葉になっていない。
今夜だけ、とだけ思っていた。
列から外れて、柱の横に立つ。
電車が入って、人を飲んで、出ていった。
ホームが少し薄くなる。
男は、残っていた。
乗らずに、いつもの扉の前に残っていた。
こちらを見ていた。
目が、合った。
初めて、合った。
男は、逸らさなかった。
わたしは階段を上がって、改札を出た。
夜の空気は、雨のにおいを少しだけ含んでいた。
足音が、ついてきた。
改札を出て三歩のところで、立ち止まった。
振り返る。
男が、改札を出てくるところだった。
目が合って、男は鞄を持ち直して、腕時計を見る顔を作った。
「あのっ」
声は、出た。
出たのは、そこまでだった。
「失礼。何か?」
丁寧な声だった。
乱れのない、正しい敬語だった。
続きを、わたしは持っていなかった。
触りましたね、は言えない。
証拠、という言葉が喉で止まって、降りてこなかった。
男は少しだけ待った。
待ってから、階段の下のほうへ視線をやった。
「……ああ」
「駅の、写真の方ですか」
それだけ言って、軽く頭を下げた。
知らない人へ向ける、正しい会釈だった。
男は視線を外して、改札へ戻っていった。
定期を入れて、抜き取って、財布へ戻す。
いつもの改札を、いつもの手順で通っていく。
何も、起きなかった。
誰が見ても、何も起きていない夜だった。
言い返す相手すら、いなかった。
舌打ちは、出なかった。
出す力が、残っていなかった。
階段の下の写真の前に、立った。
わたしの顔が、路線図の隣で笑っている。
名前が書いてある。
大学の名前も書いてある。
あの人は、毎朝ここを通る。
毎晩も、通る。
訊かなくても、知っている。
わたしが誰で、どこの学生で、何時の電車に乗るか。
全部、ここに貼ってある。
貼ったのは、わたしではない。
剥がしてくださいと言う相手を、わたしはまだ知らない。
電車には、乗らなかった。
乗れなかったのか、乗らなかったのか、分けられなかった。
線路沿いの道を歩いた。
電車なら、二十分の距離だ。
歩けば何分かかるのかは、考えなかった。
二駅ぶん歩いたところで、携帯を出した。
久世さんの番号を、出す。
親指をボタンの上に置いた。
押さなかった。
言うことが、ないからだ。
触られました。
言えるのは、それだけだ。
誰が。
名前を、知らない。
いつ。
毎日、としか言えない。
どこで。
満員の、誰も見ていない場所で。
見ていた人は。
いない。
積めるものが、一つもない。
積み上がるまでは、捕まらん。
昼間の声のとおりの話に、わたしの話はなる。
携帯を、鞄に戻した。
歩きながら、決めた。
明日から、女性専用車両に乗る。
変えるのは突き止めてからでいい、と思っていた。
突き止めることは、終わっている。
顔も、右手も、知っている。
知っていて、今朝のわたしは、立っている以外のことをしなかった。
知っているだけでは、守れない。
守れないなら、離れるしかない。
それだけのことを決めるのに、ここまでかかった。
街灯の下で、一度だけ振り返った。
誰も、いない。
歩きながら、あの会釈を思い出していた。
正しくて、丁寧で、何も訊かない会釈だった。
名前を、訊かなかった。
用件も、訊かなかった。
男は、わたしがどの駅で降りるかを、言わなかった。
訊きもしなかった。




