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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
『守る親と壁』

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第六話「あなたが悪いんですよ」


 目が合った、と男は思った。


 夜の改札の外だった。


 男は鞄を持ち直して、腕時計を見る顔を作った。


 偶然、目が合っただけの顔だ。


 顔は、いくらでも作れる。


 作らなくても、誰も見ていない。


 あの子は今日、六時十八分に乗らなかった。


 ホームに立って、電車を見送っていた。


 初めてのことだ。


 毎日、同じ時間の、同じ車両の、同じ扉。


 まじめな子だ。


 まじめなのも、悪い。


 覚えてくれと言っているようなものだ。


 こちらが覚えたのではない。


 向こうが、覚えさせたのだ。


 駅の階段の下に、あの子の写真が貼ってある。


 名前も大学も、書いてある。


 毎朝目に入る。


 見るなというほうが、無理だ。


 ああいうものを貼るほうが悪い。


 見た目がいいから悪い。


 胸が大きいから悪い。


 スタイルがいいから悪い。


 あの時間に乗るほうが悪い。


 こちらは、何一つ間違えていない。


 欲しくなるものを、目の高さに並べたのは向こうだ。


 写真より、実物のほうがいい。


 それを知っているのは、見つけたからだ。


 見つけたものは、こちらのものだ。


 あの子がどの駅で降りるかも、知っている。


 訊いたことは一度もない。


 訊く必要がないからだ。


 あの子は、声が出ない。


 それも知っている。


 何度も、確かめたことだ。


 女は、目を逸らさない。


 立ち止まったまま、こちらを見ている。


 それで、どうする気だ。


 誰が見ていた。


 何が残っている。


 何も、ない。


 あなたが悪いんですよ。


 口には出さない。


 出す必要もない。


「あのっ」



 昨日の帰りの車内で、男は何もしなかった。


 その日の朝も、いつもの車両の、いつもの扉から乗った。


 変えなかった。


 変えれば、あの右手はわたしの見えないところへ行く。


 見えるところに置いておく。


 用意した理屈は、それだけだった。


 乗る前にホームで一度だけ視た。


 右手の根は、今日も減っていない。


 扉が閉まる。


 鞄を前に抱え直した。


 男は斜めうしろにいた。


 二つ目の駅で、人の乗り降りに紛れて、気配が動いた。


 真うしろ。


 息の高さで分かった。


 発車して、体が一度うしろへ引かれた。


 腰の横に、手の甲が触れた。


 いつもの高さだった。


 ここまでは、知っている。


 知っていれば、こわくないはずだった。


 布が、動いた。


 ブラウスの裾が、少しだけ引かれた。


 布と肌のあいだに、指が入った。


 腰の後ろの素肌に、人の指があった。


 車内の音が遠くなった。


 放送も、車輪も、誰かの新聞も、水の中で鳴っている。


 近くにあるのは、指だけだ。


 (数えなさい)


 自分にそう言った。


 降りるまでの駅を数える。


 あと、三つ。


 指が腰の骨の上をなぞった。


 あと、二つ。


 指先が、スカートの後ろのボタンに掛かった。


 外そうとしている、と頭のどこかが言った。


 言っただけだった。


 体は、立っている。


 立っている以外のことを、何もしていない。


 電車が緩んだ。


 手が、退いた。


 扉が開く前だった。


 退く速さだけ、知っている速さだった。


 人が降りて、人が乗って、わたしは降りる駅まで立っていた。


 学部棟の洗面所で手を洗った。


 洗ってから、腰の後ろへ手を回した。


 スカートのボタンが、外れていた。


 掛かったのは、分かった。


 外れたのは、分からなかった。


 いつ外れたのかを、わたしは言えない。


 自分の体に起きたことを、わたしは言えない。


 留め直すのに時間がかかった。


 鏡の中のわたしは、いつもの顔をしていた。


 この顔の作り方を、いつ覚えたのだろう。


 携帯が鳴ったのは、昼だった。


「大津さん、いま大丈夫か」


「はい」


「月末の件な、書類がまとまったんや」


「夕方、大学の近くまで行くさかい、渡しとくわ」


 夕方、大学前の喫茶店で会った。


 封筒を受け取って、鞄に入れた。


 開くのはあとでいい。


 コーヒーが来るのを待って、切り出した。


「知り合いに、訊かれたことがあるんです」


「一般論として、伺いますけれど」


「証拠って、どれくらい要るものなんですか」


「なんの証拠や」


「人が、人を捕まえるのに要る証拠です」


 久世さんはコーヒーに口をつけた。


「こっちの仕事はな、積むことや」


「誰が、いつ、どこで、何をしたか」


「それを言える人間が、何人おるか」


「一遍きりか、繰り返しか」


「繰り返しなら、次がいつ、どこで起きるか」


「そういうもんを、一つずつ積む」


「積み上がったら、捕まりますか」


「積み上がるまでは、捕まらん」


 はっきりと、そう言った。


「いちばん強いのは、その場や」


「その場を、見てる人間がおることや」


「……その場で、声が出なかったら」


 訊いてから、一般論の顔を作り直した。


「出えへん人のほうが、多いで」


 久世さんはこともなげに言った。


「せやから、積むんや」


 コーヒーが半分になった。


「誰の話や、とは訊かへんよ」


 わたしは、答えなかった。


 答えないことが答えになると知っていて、答えなかった。


 伝票は久世さんが取った。


 店を出るとき、背中に一つだけ届いた。


「言うんやったら、早いほうがええで」


 振り返ったときには、人混みのほうへ歩き出していた。


 六時十八分の電車を、ホームで見送った。


 乗らない、と決めたのは階段の途中だった。


 理由は言葉になっていない。


 今夜だけ、とだけ思っていた。


 列から外れて、柱の横に立つ。


 電車が入って、人を飲んで、出ていった。


 ホームが少し薄くなる。


 男は、残っていた。


 乗らずに、いつもの扉の前に残っていた。


 こちらを見ていた。


 目が、合った。


 初めて、合った。


 男は、逸らさなかった。


 わたしは階段を上がって、改札を出た。


 夜の空気は、雨のにおいを少しだけ含んでいた。


 足音が、ついてきた。


 改札を出て三歩のところで、立ち止まった。


 振り返る。


 男が、改札を出てくるところだった。


 目が合って、男は鞄を持ち直して、腕時計を見る顔を作った。


「あのっ」


 声は、出た。


 出たのは、そこまでだった。


「失礼。何か?」


 丁寧な声だった。


 乱れのない、正しい敬語だった。


 続きを、わたしは持っていなかった。


 触りましたね、は言えない。


 証拠、という言葉が喉で止まって、降りてこなかった。


 男は少しだけ待った。


 待ってから、階段の下のほうへ視線をやった。


「……ああ」


「駅の、写真の方ですか」


 それだけ言って、軽く頭を下げた。


 知らない人へ向ける、正しい会釈だった。


 男は視線を外して、改札へ戻っていった。


 定期を入れて、抜き取って、財布へ戻す。


 いつもの改札を、いつもの手順で通っていく。


 何も、起きなかった。


 誰が見ても、何も起きていない夜だった。


 言い返す相手すら、いなかった。


 舌打ちは、出なかった。


 出す力が、残っていなかった。


 階段の下の写真の前に、立った。


 わたしの顔が、路線図の隣で笑っている。


 名前が書いてある。


 大学の名前も書いてある。


 あの人は、毎朝ここを通る。


 毎晩も、通る。


 訊かなくても、知っている。


 わたしが誰で、どこの学生で、何時の電車に乗るか。


 全部、ここに貼ってある。


 貼ったのは、わたしではない。


 剥がしてくださいと言う相手を、わたしはまだ知らない。


 電車には、乗らなかった。


 乗れなかったのか、乗らなかったのか、分けられなかった。


 線路沿いの道を歩いた。


 電車なら、二十分の距離だ。


 歩けば何分かかるのかは、考えなかった。


 二駅ぶん歩いたところで、携帯を出した。


 久世さんの番号を、出す。


 親指をボタンの上に置いた。


 押さなかった。


 言うことが、ないからだ。


 触られました。


 言えるのは、それだけだ。


 誰が。


 名前を、知らない。


 いつ。


 毎日、としか言えない。


 どこで。


 満員の、誰も見ていない場所で。


 見ていた人は。


 いない。


 積めるものが、一つもない。


 積み上がるまでは、捕まらん。


 昼間の声のとおりの話に、わたしの話はなる。


 携帯を、鞄に戻した。


 歩きながら、決めた。


 明日から、女性専用車両に乗る。


 変えるのは突き止めてからでいい、と思っていた。


 突き止めることは、終わっている。


 顔も、右手も、知っている。


 知っていて、今朝のわたしは、立っている以外のことをしなかった。


 知っているだけでは、守れない。


 守れないなら、離れるしかない。


 それだけのことを決めるのに、ここまでかかった。


 街灯の下で、一度だけ振り返った。


 誰も、いない。


 歩きながら、あの会釈を思い出していた。


 正しくて、丁寧で、何も訊かない会釈だった。


 名前を、訊かなかった。


 用件も、訊かなかった。


 男は、わたしがどの駅で降りるかを、言わなかった。


 訊きもしなかった。

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