第七話「今日は、いなかった」
朝の支度を三十分早くした。
顔を洗って、鏡を見て、目の下の色は見なかったことにした。
駅は同じで、電車を変えた。
速いほうの電車には、女性専用車両が付いている。
いちばん端の車両で、乗り場は階段からいちばん遠い。
ホームの端まで歩くのは初めてだった。
同じ駅に、知らない場所がまだあった。
決めたとおりに乗った。
空気が違った。
化粧品とシャンプーのにおいがする。
背中に誰の体温も張りつかない。
手の甲には何も当たらない。
吊り革を両手で持てる。
こんなに広かったのか、と思った。
同じ広さの車両のはずだった。
隣で参考書を開いている人がいる。
声を落として話す二人連れがいる。
誰も、体を固くしていない。
わたしだけが、鞄を前に抱えている。
抱える必要は、この車両にはない。
腕が、それを知らない。
窓の外の景色は、いつもより速い。
速いほうの電車は、停まる駅が少ない。
降りてから大学までは、そのぶん歩く。
朝の時間の形が、そっくり変わった。
変えたのは、わたしだ。
選ばされたことは、考えないことにした。
人数を数えた。
数えるつもりはなかった。
目が勝手に拾った。
数え終わって、意味がないことに気づいた。
癖は、まだ止まっていない。
降りた駅の改札の外に、男がいた。
柱の横で新聞を畳んでいた。
目はこちらを見ていない。
毎朝ここで降りる人が、毎朝そうしているだけの姿だった。
通り過ぎるまで、九歩あった。
九歩のあいだ、新聞の音だけがしていた。
振り返らなかった。
わたしが車両を変えても、この人の朝は何も変わらない。
変わったのは、わたしの朝だけだった。
朝だけでは、なかった。
昼の道順も、夜の帰り方も、変わった。
変わっていないのは、大学の時間割だけだ。
時間割は、わたしが決めたものではない。
決めたものではないものだけが、変わらずに残る。
昼は一駅手前で降りて歩いた。
知らない道は、距離の見当がつかない。
角を曲がるたびに先を確かめる癖がついた。
誰のためにつけた癖なのかは、考えない。
帰りは道を変えた。
コンビニの角を曲がらず、豆腐屋の路地を抜ける。
遠回りのぶん、九分余計にかかる。
九分は、毎日積むと重い。
足の裏が、先に覚えていく。
新しい道順ばかりが、上手になる。
大学の門の外に、いた。
門から少し離れた、書店の前だった。
本を開いていた。
頁は、めくられていなかった。
通りかかる学生の誰も気に留めない。
不審なところが、一つもないからだ。
わたしは門の内側へ戻って、別の出口から出た。
出てから気づいた。
この門を使うのは、入学してから二度目だ。
一度目がいつだったかは、思い出せなかった。
変えるたびに思い知る。
変えたほうが疲れる。
あちらは一つの生活を続けているだけだ。
毎日組み直しているのは、わたしだけだ。
時間割のように、逃げ道を組む。
組んだ端から、古くなる。
夜、下宿の手前の自販機の横に立っていた。
買いもせず、飲みもせず、立っていた。
灯りに照らされて、影が長かった。
わたしは手前の角を曲がった。
曲がってから、歩幅を数えた。
数えると、足が止まらずに済む。
遠回りをして、戻った。
自販機の横には、もう誰もいなかった。
灯りだけが点いていた。
郵便受けの蓋が開いていた。
中には何も入っていない。
入っていないのに、蓋だけが開いている。
風では開かない蓋だ。
閉めた。
小さな音が廊下に響いた。
響いた音に、自分で肩を上げた。
階段を上がる足音を、自分で数えた。
部屋の鍵は、一度で開いた。
開いたことに、息を吐いた。
何に安堵したのかは、考えないようにした。
大家さんには言わなかった。
学科にも言わなかった。
言えば、また誰かが、わたしのことを勝手に決めていく。
部屋を変えましょう、とか。
実家に帰ったら、とか。
善意の顔で、わたしの生活が組み替えられていく。
組み替えるなら、わたしが組み替える。
その結果がこの疲れだとしても、だ。
次の日の昼、学食で声をかけられた。
「大津さん、寝不足は肌に出るで」
いつもの軽口だった。
いつもなら返す。
鏡でもご覧になったら、くらいはいつでも出た。
返しが出てこなかった。
口の中を探した。
何もなかった。
「冗談やん」
「はい」
それで終わった。
相手は少し笑って、盆を持って行った。
笑い方に、困った色があった。
困らせたのは、わたしだ。
分かっていて、直せなかった。
うどんの汁が、いつもより塩辛かった。
味が濃いのではない。
わたしの舌が疲れているのだ。
午後の講義には出た。
板書を写して、写した字を読まなかった。
ノートの端に、意味のない線が増えていく。
増えた線を、消しゴムで消した。
消す時間だけ、何も考えずに済んだ。
携帯が鳴ったのは、そのあとだった。
「大津さん、いま大丈夫か」
「はい」
「月末の件な、日取りが決まりそうや」
「分かりました」
用件はそれで済んだ。
切れる前に、間があった。
長い間だった。
缶を開ける音は、しなかった。
「なんかあったやろ」
「ありません」
「……そうか」
電話は切れた。
切れてから、自分の声を思い出した。
早すぎた。
ありません、と言うのが早すぎた。
あの人は、そういう速さを聞き分ける仕事をしている。
分かっていて、わたしはまた早く答えるだろう。
言えば、あの人は動く。
自分の時間を削って、駅に立つ。
証拠のない話のために、そこまでさせられない。
理屈は前と同じだった。
同じ理屈が前より薄くなっていることには、気づいていた。
夜、速いほうの電車で帰った。
女性専用車両の窓からホームを見た。
いない。
降りた駅の、改札の外。
いない。
柱の横にも、階段の下にもいない。
書店の前。
いない。
自販機の横。
いない。
灯りが、誰も照らしていない。
郵便受けの蓋は閉まったままだった。
部屋に入って、鍵をかけた。
かけてから、もう一度確かめた。
窓の錠も確かめた。
カーテンの重なりを直した。
畳に座って、息を吐いた。
安心は来なかった。
来たのは別のものだった。
わたしはいま、探していた。
電車で、ホームで、改札で、道で、探していた。
いなかったことを、一つずつ確かめて回っていた。
数えるように確かめていた。
確かめる場所が、一日で四つに増えていた。
一週間前のわたしは、一つも持っていなかった。
いないなら、いないでいい。
そう思えないことが答えだった。
いてくれたほうがましだ、とは思わない。
思わないが、居場所の分かる恐怖と、分からない恐怖は別のものだった。
今日のは、分からないほうだった。
なぜ、いないのか。
用が済んだのか。
次の何かが決まったのか。
考えても分からない。
分からないことが、いちばん疲れる。
警戒し続けることに疲れた。
疲れた、と思うことにも疲れはじめている。
電気を消して布団に入った。
目は冴えていた。
天井の節が三つ。
どれもこちらを見ていない。
今日は、いなかった。




