↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怖がりな女子大生陰陽師は、怪異より先に人間を調べる~  作者: K3/KASANE
『守る親と壁』改稿中です

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

77/143

第七話「今日は、いなかった」


 朝の支度を三十分早くした。


 顔を洗って、鏡を見て、目の下の色は見なかったことにした。


 駅は同じで、電車を変えた。


 速いほうの電車には、女性専用車両が付いている。


 いちばん端の車両で、乗り場は階段からいちばん遠い。


 ホームの端まで歩くのは初めてだった。


 同じ駅に、知らない場所がまだあった。


 決めたとおりに乗った。


 空気が違った。


 化粧品とシャンプーのにおいがする。


 背中に誰の体温も張りつかない。


 手の甲には何も当たらない。


 吊り革を両手で持てる。


 こんなに広かったのか、と思った。


 同じ広さの車両のはずだった。


 隣で参考書を開いている人がいる。


 声を落として話す二人連れがいる。


 誰も、体を固くしていない。


 わたしだけが、鞄を前に抱えている。


 抱える必要は、この車両にはない。


 腕が、それを知らない。


 窓の外の景色は、いつもより速い。


 速いほうの電車は、停まる駅が少ない。


 降りてから大学までは、そのぶん歩く。


 朝の時間の形が、そっくり変わった。


 変えたのは、わたしだ。


 選ばされたことは、考えないことにした。


 人数を数えた。


 数えるつもりはなかった。


 目が勝手に拾った。


 数え終わって、意味がないことに気づいた。


 癖は、まだ止まっていない。


 降りた駅の改札の外に、男がいた。


 柱の横で新聞を畳んでいた。


 目はこちらを見ていない。


 毎朝ここで降りる人が、毎朝そうしているだけの姿だった。


 通り過ぎるまで、九歩あった。


 九歩のあいだ、新聞の音だけがしていた。


 振り返らなかった。


 わたしが車両を変えても、この人の朝は何も変わらない。


 変わったのは、わたしの朝だけだった。


 朝だけでは、なかった。


 昼の道順も、夜の帰り方も、変わった。


 変わっていないのは、大学の時間割だけだ。


 時間割は、わたしが決めたものではない。


 決めたものではないものだけが、変わらずに残る。


 昼は一駅手前で降りて歩いた。


 知らない道は、距離の見当がつかない。


 角を曲がるたびに先を確かめる癖がついた。


 誰のためにつけた癖なのかは、考えない。


 帰りは道を変えた。


 コンビニの角を曲がらず、豆腐屋の路地を抜ける。


 遠回りのぶん、九分余計にかかる。


 九分は、毎日積むと重い。


 足の裏が、先に覚えていく。


 新しい道順ばかりが、上手になる。


 大学の門の外に、いた。


 門から少し離れた、書店の前だった。


 本を開いていた。


 頁は、めくられていなかった。


 通りかかる学生の誰も気に留めない。


 不審なところが、一つもないからだ。


 わたしは門の内側へ戻って、別の出口から出た。


 出てから気づいた。


 この門を使うのは、入学してから二度目だ。


 一度目がいつだったかは、思い出せなかった。


 変えるたびに思い知る。


 変えたほうが疲れる。


 あちらは一つの生活を続けているだけだ。


 毎日組み直しているのは、わたしだけだ。


 時間割のように、逃げ道を組む。


 組んだ端から、古くなる。


 夜、下宿の手前の自販機の横に立っていた。


 買いもせず、飲みもせず、立っていた。


 灯りに照らされて、影が長かった。


 わたしは手前の角を曲がった。


 曲がってから、歩幅を数えた。


 数えると、足が止まらずに済む。


 遠回りをして、戻った。


 自販機の横には、もう誰もいなかった。


 灯りだけが点いていた。


 郵便受けの蓋が開いていた。


 中には何も入っていない。


 入っていないのに、蓋だけが開いている。


 風では開かない蓋だ。


 閉めた。


 小さな音が廊下に響いた。


 響いた音に、自分で肩を上げた。


 階段を上がる足音を、自分で数えた。


 部屋の鍵は、一度で開いた。


 開いたことに、息を吐いた。


 何に安堵したのかは、考えないようにした。


 大家さんには言わなかった。


 学科にも言わなかった。


 言えば、また誰かが、わたしのことを勝手に決めていく。


 部屋を変えましょう、とか。


 実家に帰ったら、とか。


 善意の顔で、わたしの生活が組み替えられていく。


 組み替えるなら、わたしが組み替える。


 その結果がこの疲れだとしても、だ。


 次の日の昼、学食で声をかけられた。


「大津さん、寝不足は肌に出るで」


 いつもの軽口だった。


 いつもなら返す。


 鏡でもご覧になったら、くらいはいつでも出た。


 返しが出てこなかった。


 口の中を探した。


 何もなかった。


「冗談やん」


「はい」


 それで終わった。


 相手は少し笑って、盆を持って行った。


 笑い方に、困った色があった。


 困らせたのは、わたしだ。


 分かっていて、直せなかった。


 うどんの汁が、いつもより塩辛かった。


 味が濃いのではない。


 わたしの舌が疲れているのだ。


 午後の講義には出た。


 板書を写して、写した字を読まなかった。


 ノートの端に、意味のない線が増えていく。


 増えた線を、消しゴムで消した。


 消す時間だけ、何も考えずに済んだ。


 携帯が鳴ったのは、そのあとだった。


「大津さん、いま大丈夫か」


「はい」


「月末の件な、日取りが決まりそうや」


「分かりました」


 用件はそれで済んだ。


 切れる前に、間があった。


 長い間だった。


 缶を開ける音は、しなかった。


「なんかあったやろ」


「ありません」


「……そうか」


 電話は切れた。


 切れてから、自分の声を思い出した。


 早すぎた。


 ありません、と言うのが早すぎた。


 あの人は、そういう速さを聞き分ける仕事をしている。


 分かっていて、わたしはまた早く答えるだろう。


 言えば、あの人は動く。


 自分の時間を削って、駅に立つ。


 証拠のない話のために、そこまでさせられない。


 理屈は前と同じだった。


 同じ理屈が前より薄くなっていることには、気づいていた。


 夜、速いほうの電車で帰った。


 女性専用車両の窓からホームを見た。


 いない。


 降りた駅の、改札の外。


 いない。


 柱の横にも、階段の下にもいない。


 書店の前。


 いない。


 自販機の横。


 いない。


 灯りが、誰も照らしていない。


 郵便受けの蓋は閉まったままだった。


 部屋に入って、鍵をかけた。


 かけてから、もう一度確かめた。


 窓の錠も確かめた。


 カーテンの重なりを直した。


 畳に座って、息を吐いた。


 安心は来なかった。


 来たのは別のものだった。


 わたしはいま、探していた。


 電車で、ホームで、改札で、道で、探していた。


 いなかったことを、一つずつ確かめて回っていた。


 数えるように確かめていた。


 確かめる場所が、一日で四つに増えていた。


 一週間前のわたしは、一つも持っていなかった。


 いないなら、いないでいい。


 そう思えないことが答えだった。


 いてくれたほうがましだ、とは思わない。


 思わないが、居場所の分かる恐怖と、分からない恐怖は別のものだった。


 今日のは、分からないほうだった。


 なぜ、いないのか。


 用が済んだのか。


 次の何かが決まったのか。


 考えても分からない。


 分からないことが、いちばん疲れる。


 警戒し続けることに疲れた。


 疲れた、と思うことにも疲れはじめている。


 電気を消して布団に入った。


 目は冴えていた。


 天井の節が三つ。


 どれもこちらを見ていない。


 今日は、いなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。