第八話・前編「床のほこり」
八方の掲示板に、落とした科目の知らせが貼り出されていた。
落としたレポートの科目は、不可だった。
分かっていたことだ。
分かっていても、字で見ると重さが増える。
通りかかる人は、誰もその紙を見ない。
単位は来年もう一度になる。
学費を出しているのは、わたしだ。
一年ぶん、と誰かの声が頭の中で言った。
鞄が重かった。
教科書の重さしか入っていないのにだ。
門の外は、もう暗かった。
日が短くなったのではない。
掲示板の前に、長く立ちすぎたのだ。
校門を出たところで、携帯が鳴った。
「大津さん、いまどこや」
「大学を、出たところです」
「いま近くにおる。送ろか」
二度目だった。
缶コーヒーの夜と、同じ言葉だった。
あの夜は怒って断った。
断る理由も、自分で選んだ。
「……いえ。大丈夫です」
怒りはどこにもなかった。
断る理由も考えなかった。
口が先に断っていた。
断ってから、理由を探した。
見つかる前に、足が歩き出していた。
「そうか。気ぃつけてな」
電話は切れた。
駅から下宿までの道を歩いた。
あれから、男を一度も見ていない。
いない日が続くと、探す時間が少しずつ短くなる。
いつもの遠回りを、今日はしなかった。
九分を惜しんだのではない。
考える力が残っていなかった。
道の先の街灯を、順番に見た。
四つ先まで、いつもどおり点いている。
確かめる癖も、もう古い癖になっていた。
街灯の一つ目を過ぎた。
後ろに足音があった。
夜道に足音はある。
あるものだ。
足音の間隔を数える癖が、ついている。
遠いか、近いか。
速いか、遅いか。
二つ目の街灯を過ぎた。
足音が止まった。
止まった位置が、近すぎた。
振り返りかけた視界の端に、木の色があった。
それきりだった。
◆
寒い、が最初に来た。
次に、頭の右側の痛み。
目を開けた。
知らない天井だった。
電球が一つ点いている。
笠に埃が積もっていた。
電球の紐が、動かない。
風のない部屋だ。
床は板の間だった。
頬の下に埃の粒がある。
古い埃だった。
人が住んでいる部屋の埃ではない。
埃の味が、口の中にあった。
起き上がろうとして、手首が動かないことを知った。
背中の側で、まとめて縛られている。
革の感触だった。
男物のベルトだ。
金具が、手首の骨に当たっている。
手首の痛みは、締めた穴のぶんだけある。
寒い。
寒さの意味は考えないことにした。
膝を引き寄せた。
髪が肩から落ちて重い。
部屋を見た。
出口になる扉は一つ。
足の先の、向こう側。
窓は一つ。
内側から板が打ちつけてある。
釘の頭だけが新しい。
耳を澄ました。
水の音はしない。
人の声もしない。
車の音が、あるかないかの距離にある。
遠くで一度だけ、犬が鳴いた。
鳴き声の距離で、家の少ない場所だと分かった。
分かっても、場所は分からない。
ここがどこか、わたしには分からない。
声を出すことを、考えた。
考えて、やめた。
犬の声しか返らない場所で、声は使えば減る。
減らしていいものが、もう多くない。
においは、閉めきった部屋のにおいだった。
人の生活のにおいがしない。
わたしの知っている空き部屋のにおいと、少し違う。
あの集合住宅の部屋は、生活が抜けたあとのにおいだった。
ここは、生活が最初から入っていないにおいがする。
箱のまま古くなった場所だ。
部屋の隅に、わたしの服が置いてあった。
角をそろえて、たたんであった。
その横に、わたしの鞄。
倒れずに、立てて置いてある。
反対の隅に、布が積んであった。
洗って、たたんである布だった。
わたしのものではない。
それが何かを考える余裕はなかった。
視る余裕もなかった。
扉の脇に、白い紙箱が一つ置いてあった。
この部屋で、それだけが新しかった。
男は、部屋の真ん中に椅子を置いて座っていた。
わたしが目を覚ましたことに気づいている。
急がなかった。
「起きましたか」
敬語だった。
男は、待っていた。
わたしが目を開けるのを、その椅子で待っていた人だった。




