第八話・後編「返事は」
ラインの上でタップダンス₍₍ ᕕ(´ ω` )ᕗ ⁾⁾
敬語は、そこまでだった。
「騒ぐな。誰も来ない」
声が違った。
改札の外の声と、同じ喉から出ているとは思えなかった。
男は上着を脱いで、椅子の背に掛けた。
皺を手で伸ばした。
急ぐ理由が、どこにもない人の動きだった。
立ち上がって、窓の板を確かめた。
釘の頭を指で押した。
扉の鍵を確かめた。
わたしの服。
わたしの鞄。
積んである布。
最後に、たたんだ服の角へ目が戻った。
戻ったのは、二度目だった。
男が見ているのは、わたしではなかった。
抜けている工程がないかを、見ていた。
時計は見なかった。
時間は、この人の側にあるからだ。
男が、わたしの鞄を取った。
留め金を丁寧に開けた。
逆さにした。
教科書が落ちた。
筆記具の音が続いた。
財布が落ちた。
護符が散った。
霊符が散った。
式札が床を滑った。
どれも、男の側の床で止まった。
桃木剣はない。
最初から鞄に入れて歩いていない。
大学の鞄には入らないからだ。
男は、散らばった紙を一枚だけ拾い上げた。
眺めて、捨てた。
紙の値打ちを知らない手つきだった。
札は、拾われなかった。
紙屑と同じ扱いで、床に残った。
床にあるかぎり、失くなってはいない。
それだけを、覚えておくことにした。
男は時々、窓の板の隙間から外を見た。
見張っているのではない。
眺めていた。
戻ってきて、扉の脇の紙箱を取った。
紐を解いて、蓋を開けた。
ケーキだった。
白い生地に、字は書いていない。
その上に、細いろうそくが立ててあった。
数える癖が、勝手に動いた。
十まで。
三十まで。
五十を過ぎても、まだあった。
隙間なく、まっすぐに立ててある。
曲がっているものが、一本もない。
百を超えても、まだ残っていた。
それより先は、数えなかった。
火は、つけなかった。
蓋を戻して、床に置いた。
わたしのためのものではない。
自分のために、持ってきた箱だった。
それから、腕時計を外した。
外して、窓の桟に置いた。
急がない動きだった。
時間は、まだこの人の側にあった。
わたしの持ち物は、全部、あちら側の床にあった。
「こちらを見てください」
顔を、上げなかった。
髪を掴まれた。
上を向かされる。
痛みより先に、電球の光が目に刺さった。
「分かってるだろ、自分でも」
「胸が大きいから悪い」
言い聞かせる声だった。
「スタイルがいいから悪い」
子どもに道の渡り方を教える、あの調子だった。
「毎日あんな時間に、あんな車両に乗って」
「こっちはずっと、我慢してたんです」
「欲しくなるのは、当たり前でしょう」
「悪いのは、そっちだ」
「一回も百回も同じでしょう」
「自分が悪かったと言ってください」
声は出なかった。
出せなかったのではない。
その言葉だけは、わたしの中になかった。
頭を掴んで、顔から地面に押し付けられた。
床の埃が跳ねた。
「返事は」
男は待った。
待つことのできる人だった。
わたしは答えなかった。
男は怒っていなかった。
返事の出ない無機物を、一度だけ叩いたような顔だった。
叩いてから、声は元の高さに戻った。
「泣かないんですね」
感心した声だった。
「泣いてもいいんですよ」
許可だった。
許可を出せる側にいることを、確かめる声だった。
わたしは、相手の手を見ていた。
観察は、癖だ。
癖だけが、この部屋でも動いていた。
指の関節。
爪の白さ。
力の入れどころ。
覚えても、使い道はまだない。
それでも、覚えた。
二度目は、顔ではなかった。
心窩部へ、重いものが入った。
息が出た。
戻ってこなかった。
床が遠くなった。
「言ってください」
男の声は、まだ淡々としていた。
わたしは口を開いた。
空気だけを探した。
言葉は出さなかった。
男の口元が動いた。
笑ったのではない。
合わない蓋を、何度も閉めようとしている顔だった。
「言え」
敬語が、初めてなくなった。
水の弾ける音がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




