第九話・前編「どうして言わない」
何に使う水か、考えるより先に分かった。
部屋の外に、水の出る場所があるということだ。
台所か、風呂場か。
この家には、まだ水が通っている。
電気のことは、まだ分からない。
水音は、思ったより長く続いた。
容れ物が大きいのだ。
その長さのあいだ、わたしは天井を見ていた。
電球の紐が、動かない。
風のない部屋だ。
風のない部屋で、水の音だけがしている。
男が戻ってきた。
両手で湯おけを持っていた。
こぼさない持ち方だった。
男は洗面器を床に置いた。
置き方だけが、まだ丁寧だった。
水面が、置いたあとで一度だけ揺れて、すぐ平らになった。
平らになるまでを、目で見てしまった。
見なければよかった、と思った。
思っただけで、目は離れなかった。
髪を掴まれた。
頭が下がっていく。
息を、大きく吸った。
吸えるうちに吸うことしか、思いつかなかった。
冷たさが、口と鼻を一緒に塞いだ。
息を止めた。
止めたのではない。
吸える場所が、なかった。
最初の数秒は、耐えるものだと思っていた。
耐えるものではなかった。
身体が勝手に暴れた。
手首の皮膚が裂けても、足が床を叩いても、身体はやめなかった。
生きるために、わたしの意思を置いて暴れようとしていた。
水が離れた。
空気が入った。
咳と一緒に吐いた。
涙も鼻水も止まらなかった。
顔を上げることも、できなかった。
「自分が悪かったと言え」
男の声が近かった。
わたしは咳き込んだ。
何度も咳き込んだ。
言葉を出せる隙は、あった。
出さなかった。
意地ではない。
意地なら、とっくに折れている。
その言葉が、わたしの中で作れないのだ。
悪かった、の前に主語がいる。
主語のところに、わたしを置く方法が分からない。
置けば、この人の紙の上に、わたしの名前が入る。
白い紙の上で、この人はまだ初めての人だ。
わたしが言えば、初めてのままになる。
そこまで筋道を立てたのではない。
立てる余裕はなかった。
ただ、口が動かなかった。
身体は、もう一度やめてくれと叫んでいた。
心まで渡した覚えは、なかった。
冷たさが戻ってきた。
今度は、数えなかった。
数えられなかった。
水の中で、耳だけが音を拾っている。
自分の喉が鳴る音だった。
周囲の灯りが遠くなった。
部屋から、電球の明かりが消えていった。
最後に残ったのは、男の声だった。
「どうして言わない」
初めて、質問になっていた。
◆
目を開けた。
電球が点いている。
紐の位置が、さっきと違っていた。
息を吸うと、胸の奥で音がした。
一度では足りなかった。
二度吸っても、空気が足りない。
口の中に、前にはなかった味がある。
右の耳だけ、音が遠い。
どれだけ経ったのかは、分からない。
時計は、あちら側の桟にある。
男は部屋の隅にいた。
服を畳んでいた。
乱れた角を、最初から全部直している。
上着も、時計も、鞄も、元の場所へ戻してあった。
わたしだけが、元の場所へ戻っていなかった。
男の指が震えていた。
震えている指で、それでも角をそろえている。
同じ一枚を、三度やり直した。
三度目でそろって、次の一枚へ移った。
順番は、崩していない。
崩れているのは、速度だけだった。
わたしは、それを見ていた。
この部屋で、初めてこちらが見る側になった。
この人の予測に、わたしの返事だけが入っていなかった。
パズルに欠けが一つあると、この人は手が止まる。
そろえるものを見つけると、また動き出す。
整頓は、この人が過酷な現実を歩き続けるための『背骨』だった
手首の金具が、さっきとは違う位置にあった。
締め直したのだ。
震えている指で。
男の視線が、服の角へ落ちた。
落ちるのを、わたしは待っていた。
三度目だった。
踵を動かした。
いちばん下の布を、指一本ぶん押した。
見つかれば、男は直す。
見つからなければ、もう一度水が来る。
だから、見つかるようにずらした。
男の手が、止まった。
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