第九話・後編「同じですね」
わたしがずらした角を、男が見つけた。
こちらへ来る足が、止まった。
男は隅へ歩いて、しゃがんだ。
一枚ずつ、たたみ直しはじめた。
角をそろえて。
埃を払って。
丁寧だった。
爪の短い、清潔な指だった。
電車で鞄を持ち直していた、あの手だった。
畳む速度を、目で数えた。
一枚に、たっぷり時間をかける。
角がそろわないと、やり直す。
やり直すたびに、時間がこちら側へ少しずつ落ちてくる。
わたしは手首を動かした。
革は、汗と水を吸っていた。
金具と手首のあいだに、指一本ぶんの遊びがある。
この人が、初めて残した遊びだった。
手首を、細いほうへ、細いほうへと捻る。
皮膚が擦れて熱い。
裂けたところは、もう痛まなかった。
急ぐな、と自分に言った。
急げば、音が出る。
音が出れば、終わる。
息は、畳む音に合わせた。
合わせようとして、途中で咳が出そうになった。
喉の奥を、舌で押さえた。
男は二枚目をたたんでいる。
背中がこちらを向いている。
手が、抜けた。
立ち上がった。
膝が一度折れた。
折れたまま、扉へ走った。
鍵は内側から回った。
廊下だった。
短い廊下だった。
廊下の先に、外への扉。
開かなかった。
鍵穴に、鍵がない。
窓は廊下にはなかった。
壁の電気のメーターが、回っていなかった。
誰も住んでいない。
叩いて助けを呼ぶ壁の向こうが、ない。
後ろで、部屋の扉が開いた。
急いでいない足音が来る。
逃げる、が潰れた。
残っているものを数えた。
護符は、あちらの床。
霊符も、あちらの床。
式札も、あちらの床。
残っているのは手だけだった。
手は、二本ある。
震えていない。
まだ、震えていない。
廊下の突き当たりに、背中をつけた。
男が、廊下の入口に立った。
急がなかった。
立ったまま、話しはじめた。
「順番を変えないでください」
男は怒っていなかった。
予定を戻そうとしているだけだった。
「まだ、返事をもらっていません」
部屋の声と、廊下の声が、同じ高さだった。
この人の中では、何も起きていないのだ。
知っているのは、こちら側だけだった。
わたしは聞いていた。
言い返す言葉は探さなかった。
探す場所が、もうわたしの中にない。
手を見た。
この手は、札を放つ手だ。
護符を書く手だ。
呼び鈴を休ませて、祠の向きを確かめる手だ。
陰陽師としての力…
人に向けたことは一度もない。
向けてはいけない、と教わったのではない。
自分の本能や血が、一般人に術を使うのを拒絶している。
女は、視えればよいと。
家の家訓が、埃の味と一緒に浮かんだ。
視えればよい。
視ているだけでよい。
決めるのは、いつも別の誰かでよい。
そのとおりに、生きてきた。
視て、報告して、あとは任せる。
任せた先で、物事は勝手に決まっていく。
それで回っている間は、それでよかった。
いまは、任せる先がこの廊下にない。
一年を他人に決められて、見ていた。
電車で触られて、見ていた。
この部屋に来て、まだ見ている。
男が一歩、入ってきた。
距離が、あと三歩になった。
「大人しくしていれば、すぐ済みます」
自由を欲しがって、何が悪い。
その理屈を、わたしは口の中で裏返した。
生きたい。
生きたがって、何が悪い。
ためらいは、まだ終わっていなかった。
終わるのを、待ってはもらえなかった。
あと二歩。
「では、わたしが生きるために、あなたにこれを使うのも、同じですね」
声は出た。
水を飲んだあとの喉で、それでも出た。
この部屋に来て、初めて出た声だった。
男の顔が、初めて動いた。
意味を測る顔だった。
測り終える前に、指をそろえた。
二本の指で刀を作る。
横に五つ。
縦に四つ。
最後にひとつ
空気を切った。
小さい所作だった。
音はしなかった。
幼少のころより、延々と繰り返した…
男が、落ちた。
膝から、床へ。
埃が薄く立った。
それきり動かなかった。
わたしの手が震えはじめた。
切り終えた右手から、震えた。
男を見なかった。
見たのは、床の埃と、自分の手のひらだった。
手のひらは、ただの手のひらだった。
昨日と同じ形をしていた。
形だけが、同じだった。
服を着た。
濡れた髪が、襟の内側で冷たかった。
道具を拾った。
護符を一枚だけ、手に持ったままにした。
しまう気にならなかった。
鞄の底から携帯を出した。
番号は一つしか浮かばなかった。
「……大津です」
「夜分に、すみません」
「迎えに、来てください」
場所を、わたしは言えなかった。
分からないからだ。
男の上着から、鍵が出た。
触ったのはそれだけだった。
外への扉を開けると、夜だった。
知らない通りだった。
外の空気は、埃の味がしなかった。
それだけのことに、膝が抜けそうになった。
電柱の看板の字を、そのまま読み上げた。
久世さんは訊き返さなかった。
「動くな。そこにおれ」
「十五分で行く」
電話を切って、扉の前に座った。
座ってから、部屋の中の男を思い出した。
起きたら、と考えて、やめた。
考えても、震えが増すだけだった。
護符を持った左手だけが、静かだった。
紙一枚の重さが、頼りに思えた。
夜の道の先を見ていた。
車の灯りが来るまでの時間は、数えなかった。
数えられる気がしなかった。
胸の奥では、まだ水の音がしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




