第十話・前編「息が足りない」
車の灯りは、道の先で一度止まった。
番地を確かめたのだと思う。
それから、まっすぐ来た。
久世さんは、車で来た。
後ろにもう一台。
二台とも、赤い灯りは回していなかった。
回さない理由が、あるのだろう。
訊かなかった。
わたしが座っている扉の前で、車は止まった。
降りてきて、わたしの顔を見て、上着を脱いだ。
肩にかけられた。
上着は、大きくて重かった。
重さが、体の震えを少しだけ押さえた。
寒さは、消えなかった。
外から来る寒さではないからだ。
言おうとした。
言葉より先に、咳が出た。
一度出ると、止まらなかった。
息を吸うと、途中までしか入らない。
入らないぶんを、また咳が持っていく。
久世さんの手が、背中に置かれた。
置いただけで、叩かなかった。
「どうして言わへんかった」
最初の言葉がそれだった。
怒った声だった。
怒りの向きがわたしでないことだけ、分かった。
答えなかった。
答えられなかった、のほうが近い。
「俺が送っていれば」
「関係ありません」
三語だけで、喉が焼けた。
久世さんは、それ以上言わなかった。
言わない横顔が、まだ怒っていた。
制服の人たちが部屋へ入っていく。
入る前に、一人が扉の外で足を止めた。
中を覗いて、後ろへ何か言った。
言われたほうが、走って車へ戻った。
順番があるらしい。
どこの仕事にも、順番はある。
あの部屋にも、あった。
久世さんは毛布を持ってきて、わたしを車の後ろに座らせた。
誰かが、「大丈夫やからね」と言った。
訊かれたのは事実だけだった。
誰が。
いつ。
どこで。
わたしは、答えられるものだけ答えた。
声は、掠れていた。
掠れても、出た。
出るようになっていた。
途中で咳が入って、そのたびに質問が止まった。
止めたのは、訊いている側だった。
緒の話は、一言も訊かれなかった。
わたしも言わなかった。
男が、連れて出てきた。
両側を挟まれていた。
足どりは乱れていなかった。
男はわたしを見なかった。
一度も見なかった。
憎まれてもいない。
最初から、そういう相手ではなかったのだ。
車に乗せられる直前、男が立ち止まった。
係の人に向かって、頭を下げた。
丁寧な、正しい角度だった。
「初めてなんです」
言い返す声は、出なかった。
出ない代わりに、覚えた。
この人が最後に選んだ言葉が、それだったことを覚えた。
救急車が来たのは、そのあとだった。
久世さんが呼んだのだと、あとで知った。
乗るとき、自分で歩けると言った。
言ってから、二歩で膝が折れた。
中で、誰かがずっと数を数えていた。
その数が、わたしの息の数だと分かるまでに、間があった。
数えられている、と思った。
いやではなかった。
自分で数えなくていいのは、久しぶりだった。
管を鼻に当てられた。
冷たい空気が、水の通った場所を通っていく。
同じ道を、今度は空気が通る。
通ったところが、少しずつ痛くなった。
「痛みますか」と訊かれた。
頷いた。
痛いところまで、空気が入ってきた。
名前を訊かれた。
言えた。
生年月日も訊かれた。
それも言えた。
言えることを確かめるための質問だと、途中で気づいた。
分かってからも、答えた。
そのほうが楽だった。
訊かれたことに答えるのは、久しぶりだった。
手首の包帯を巻きながら、若い人が「よう我慢しはった」と言った。
我慢はしていない。
我慢する場所が、なかっただけだ。
訂正はしなかった。
訂正する声が、もう出なかった。
救急車の天井は、あの部屋より白かった。
息は、まだ半分しか入らなかった。
わたしの息は数えられた。
あの人が何を数えられるのかは、まだ誰も言わない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




