第十話・後編「数える側」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
署へ行ったのは、次の日の朝だった。
迎えに来た久世さんは、運転のあいだ、一度も話しかけなかった。
署に着くと、小部屋へ通された。
机と、椅子が二つだけの部屋だった。
紙が机に並んでいた。
紙の束は、薄かった。
「調べは、ひととおり終わった」
久世さんは、立ったまま言った。
「前歴は、無い。一件も」
紙を一枚ずつ指で押さえた。
「届出も、注意書きも、記録も何も無い。名前もどこにも残ってへん」
「これで全部や」
この人の仕事は、資料を探してから渡すことだ。
探し終えても、渡すものが残らなかった。
並べ終えてから、少しの間があった。
「……足りん」
自分で、言った。
わたしは、机の紙を見ていた。
白い紙の上で、男は初めての犯行を行った人だった。
前科のない者の罪は軽い。
条文という名の紙片の上では、命の値段すらそう規格化されている。
書類に書かれた文字に偽りはない。
だが、その無機質な一枚が、現場の人間には一番手の届かない場所にあった。
わたしの手首の熱も、髪の上の息も、洗面器の水も、どの紙にも載っていない。
調書や台帳に記されぬ出来事は、最初からこの世に存在しなかったものとして処理される。
「ご本人は、何と」
「初犯です、や」
「何べん訊いても、同じことしか言わん」
初犯です。
手続きの言葉が、白い紙と同じ顔で並ぶ。
口の端が、勝手に動いた。
「便利ですわ。初めて、というのは」
ですわ、が漏れた。
言い直さなかった。
言い直す力が、どこにも残っていなかった。
久世さんは、聞かなかった顔をした。
最初から何も耳に入らなかったという顔のまま、書類の端が整えられる。
机に小さく当たる角の乾いた音。
その事務的な音の反復を、私はただ黙って聞いていた。
部屋の空気を満たしていたのは、その冷淡な響きだけだった。
朝、廊下を戻った。
人が増えはじめていた。
書類を持った人が、足早に通っていく。
通り過ぎる誰も、わたしを見ない。
署の朝は、大学の朝と同じ速さで動いていた。
速さの中で立ち止まっているのはわたしだけだった。
毛布はもう返した。
肩の重さだけが残っている。
取調べの部屋へ通じる、短い廊下だった。
突き当たりの扉が、開いた。
係の人が出入りする、一瞬だった。
扉の向こうに、男の右手が見えた。
机の上に、そろえて置かれていた。
視た。
考える前に、視ていた。
緒が、見えた。
混線が、なかった。
満員の車内でも、朝の駅前でもない。
人の少ない部屋の、机の上の右手だった。
初めて、緒だけが見えた。
根から、数えた。
十までは、すぐだった。
二十も、過ぎた。
三十を越えたあたりで、数の意味が変わった。
一本が、一人だった。
乗っていた車両の定員を、思い出しかけた。
思い出す前に、扉が閉まった。
数は、途中で止まった。
止めなかった。
数えるあいだ息を止めていた。
止めた息が、途中で咳になった。
咳が収まってから、続けた。
続けるほかに手が無かった。
閉まった扉の前で、続きを数えていた。
やめたら、いま数えていた一本が消える気がした。
消していいものは、一本もなかった。
誰も、この数を数えていない。
紙も、手続きも、この数は数えられない。
数えられるのは、たぶん、わたしだけだった。
だから数える。
役目と呼ぶには暗すぎる。
癖と呼ぶには重すぎる。
名前をつけずに続けることにした。
少し高いところから、数えている自分を見ていた。
廊下は、白かった。
わたしの数はまだ、この廊下の長さにも届いていない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




