第十一話「選り分け」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
数日ぶりの大学は、何も変わっていなかった。
掲示板の前はいつもどおり混んでいる。
わたしの写真も貼られたままだった。
紙の端が少し反っている。
それだけの時間が経った、ということだ。
出しそびれた課題の期限がいつだったのか、先週のカレンダーのどこかに曖昧に溶けてしまっている。
手元にある白い紙片は、その七日間にどんな嵐が吹き荒れていたかなど、露ほども気にも留めていない。
知らないままでいてくれることが、ありがたかった。
窓ガラスに自分が映った。
いつもの軽口を言おうとした。
出てこなかった。
軽口を叩けるのは、まだ呼吸に余裕がある人間だけだ。
今の自分には、喉を震わせる余白すら残っていなかった。
ガラスの中のわたしは、駅の写真と同じ角度で立っていた。
同じ角度なのに、同じ顔には見えなかった。
見えないままでいい。
あの写真には、丸一年分の仕事での顔が貼り付いている。
いまのわたしの顔ではない。
教室の後ろの席に座った。
「大津さん、久しぶりやん」
「顔色わるない?」
「寝てないだけです」
声が、掠れた。
寝ていないせいだと思われた。
訂正しなかった。
「寝えや」
「はい」
それで、終わった。
誰も何も知らない。
知られていない。それが一番楽で、一番遠かった。
講義は、進んでいた。
板書の字は、いつかのわたしに任せることにした。
人で溢れかえる昼の学食を避けた。
ひしめき合う頭数を無意識にカウントしてしまう自分自身に、うんざりしていた。
購買でパンを買って外の階段で食べた。
パンの味はした。
したことに少し安心した。
大学へは、歩いて来た。
自転車にも、電車にも、乗っていない。
歩くあいだ、線路が右に見えたり左に見えたりした。
電車が追い越していくたびに、窓の列が流れた。
あの中に、鞄を前に抱えて立っている人がいる。
足は、止めなかった。
止めればあの窓の列を最後まで見てしまう。
見れば数える。
数えれば今日が終わらない。
午後、署へ行った。
小部屋には久世さんがいた。
その手に握られた分厚い紙の束は、あの人が取調室で吐き出した言葉のすべてだった。
「聞かんでもええ」
読む前に、一度だけ止めた。
「聞きます」
久世さんは一拍置いて、紙を持ち直した。
読み上げは、平らな声だった。
「あの時間に乗るほうが悪い」
「向こうも、嫌がってなかった」
「弁護士を呼んでください」
「証拠あるんですか」
四つ目の言葉を読み上げたとき、紙コップの中の小さな水面が不規則に波打った。
震えているのは、それを握りしめている自分自身の指先だった。
久世さんは、紙を置いた。
「謝る言葉だけが、一個も出てこん」
それだけ言って、あとは何も足さなかった。
推理も、慰めも、持ってこない人だった。
持ってこないでいてくれることが、いまは助かった。
慰めの言葉は、受け取ると返事が要る。
返事に使う力は、もう別のことに回すと決めていた。
回す先は決まっている。
畳の上の束だ。
わたしは紙コップを机の右へ動かした。
少しして、左へ戻した。
置き場所が、決まらなかった。
証拠あるんですか。
四本の中で、あれだけが、こちらに意思を向けていた。
帰り際に、一つだけ言った。
「今回は、お代の話がありませんでした」
久世さんは、答えなかった。
答えない横顔が、詫びる形に見えた。
見えただけかも、しれない。
署の重い扉を抜けると、夕暮れの風が頬を撫でた。
その冷たい匂いで、自分が密室に閉じこもっている間に、世界だけが季節をひとつ進めていたことを知った。
いつの間に、と思った。
いつの間に、のあいだの日々は、思い出さないことにした。
夕方、下宿に戻った。
畳の真ん中に座った。
電気はまだつけない。
机の上の式札を開いた。
あの夜からずっと、開くたびに重い。
緒が、あふれた。
畳の目に沿って、束が広がる。
今度は、数えるためではない。
選り分けるためだ。
数えるのと、選り分けるのは、違う仕事だ。
数えるのは、量を知ること。
選り分けるのは、行き先を決めること。
決める側に、わたしはもう一度座る。
畳の縁を、三度なぞった。
それから、腰を下ろした。
手は、勝手に動いた。
手は仕事を覚えている。
任せた。
手順は、三つに決めた。
根のかたち。
先端の向き。
匂いの有無。
一本ずつ、指で押さえて、繰っていく。
束は、三つに分かれていった。
生きている先へ、伸びているもの。
途中で、切れているもの。
匂う、もの。
切れているものは、先を追えない。
どこの誰の、いつの声だったのか、もう辿れない。
辿れないものを、辿れないまま、脇に分けた。
分けた手が、重かった。
重さは、式札のせいではない。
札は、机の上だ。
重いのは、分けるという仕事のほうだった。
言葉は、どの一本からも読めない。
最初から、言葉にならなかった声たちだ。
わたしに読めるのは、本数と、匂いの有無だけ。
だから、わたしにできるのは、数えることだけだ。
「数えられるものしか、数えられません」
声に出した。
言う相手は、いなかった。
部屋の電気を、まだつけていなかったことに気づいた。
つけると、緒は見えにくくなる。
暗いまま、続けた。
窓の外の街灯だけが、畳の端を照らしていた。
照らされた端だけ畳の目が見える。
束は目に沿ってどこまでも広がっている。
部屋の広さが足りていない。
壁の向こうへ続く分は見ないことにした。
夜になって、匂うほうの緒に指を近づけた。
触らなかった。
近づけただけで、乾いた藁の手ざわりが伝わってくる。
湿った束の中で、そこだけが乾いている。
乾く、ということが何を意味するのか。
この仕事の言葉で、わたしはそれを知っている。
知っている言葉だが、今日は使わない。
使えば、束の呼び方が変わってしまう。
呼び方を変えずに夜を越す。
それが今夜の仕事だった。
電車の中で、講義室で、何度か掠めた手ざわりだった。
一本では、なかった。
二本目を見つけたところで、指が止まった。
やめたく、なった。
やめなかった。
二本目の隣を探した。
探す指が遅くなる。
遅くなっても進めた。
まだ、ある。
それだけを、確かめた。
窓の外は、いつもの夜の色をしていた。
匂いがあるだけ、まだマシだ。
紙の上で平坦にされた事実よりは、ずっと手応えがある。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




