第十二話「三人」
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ぜひお楽しみに!
匂うほうには、まだ触れない。
先に、会える三本のほうを済ませる。
朝から畳の上で束を繰っていた。
生きている先へ伸びる緒だけを選り出していく。
先端に名前は読めない。
読めるのは、癖だ。
その人がいつの電車に乗っていたか。
どの扉から降りたか。
階段を使ったか、使わなかったか。
改札を出るまで、鞄をどう抱えていたか。
呼び鈴も、右手も、そうだった。
降りる駅と、降り方の癖と、時間帯。
読めるのは、そこまでだ。
そこまでで足りる緒が、三本あった。
三本とも、いまも同じ時間の、同じ車両に乗っている。
生きていて、続けている。
続けているから、会える。
三本のほかにも、生きている緒はある。
時間の読めないもの。
癖の薄いもの。
乗るのを、やめたひと。
やめたひとの緒は、先が家の中から動かない。
会いに行けるのは、三本だけだった。
三本を、順に指で押さえた。
一本目は、朝の早い人。
降りる駅で、いつも走り出す癖がある。
二本目は、雨の日も同じ扉の人。
傘の持ち方まで、決まっている。
癖は誰かに見せるためのものではない。
見られていたと知る日が来なければ一生気づかない。
知らせる役をわたしが引き受けた。
三本目は、鞄を胸の前で抱える人。
改札を出るまで、腕をほどかない。
わたしと、同じ抱え方だった。
同じ抱え方を選んだ理由も同じだろう。
訊かずに分かることばかり増えていく。
条件を紙に書いた。
名前は、書けない。
視た、とも書けない。
書けないものを、どう渡すか。
一晩、考えた。
台所の湯を二度沸かした。
蛇口は、細くしか開けない。
全開にすると、音が大きい。
音の大きさだけの話だと、自分に言っている。
沸かしただけで飲まなかった。
湯気の向こうで束が待っている。
待たせているのはわたしのほうだった。
考える前から、答えは一つしかなかった。
根拠を書かずに、条件だけを渡す。
受け取ってくれる人を、わたしは一人だけ知っている。
夜のうちに、紙に清書した。
字は、いつもより丁寧に書いた。
この紙は、わたしの代わりに喋る。
喋れない分まで、書き方に持たせた。
書き終えて読み返した。
視た、の一文字もない。
ない形にするのに一晩かかった。
午後の署の小部屋で、紙を机に置いた。
条件が三つ並んでいるだけの、一枚だ。
「この三人に、聞いてみてください」
久世さんは紙を長く見た。
なんで分かった、とは訊かなかった。
訊いたのは、一つだけだった。
「それが本当やとして、現場の何が変わる?」
聞き覚えのある問いだった。
空き部屋の呼び鈴の夜から、この人はこれしか訊かない。
「三人、増えます」
久世さんは紙を畳んで、内ポケットに入れた。
「ほな、行くわ」
立ち上がって、それきりだった。
どう当たるのかは言わなかった。
訊かなかったが、想像はつく。
時間帯を絞って、駅に頼んで、人に会いに行く。
この人が当たるのは、いつも人だ。
紙でも、機械でもない。
小部屋を出るとき、久世さんが一つだけ足した。
「無理はさせん。話したない人は、そのままや」
それを先に言う人だから、渡せたのだと思う。
署の帰りに駅の前を通った。
改札の音が並んで鳴っている。
あの音の中に三人の毎日がある。
通り過ぎるつもりだった。
通り過ぎずに、改札の脇に立った。
三本目の癖を、思い出す。
鞄を胸の前で抱えて、改札を出るまで腕をほどかない人。
夕方の改札からは、人が続けて出てくる。
十人ほど見たところで、いた。
紺の鞄を、胸の前で抱えていた。
腕は、改札を出てもほどかれなかった。
歩きながら、少しずつ下りていった。
三十歩ほどで、手が体の横に戻った。
最後まで、見た。
呼び止めはしない。その背中に言葉を投げる役目を、最初から自分は担っていない。
見に来たのは、わたしだ。
紙の上の癖が、人の形をして歩いていた。
わたしはまだ電車に乗っていない。
それからの日々は、電話での声で進んだ。
「一人目、話してくれた」
数日おきに、短い報告が来る。
「二人目も、や」
届が、増えていく。
「三人目は、時間がかかった」
「かかっただけや。話してくれた」
三人が話すたびに、あちらの紙が増える。
増えるたびに、久世さんの声は少しずつ低くなった。
「増えても、あいつの顔は一個も変わらん」
同じ文法で、同じ言い分が返ってくるという。
新しい言葉は、一つも増えない。
増えるのは、こちら側の紙だけだ。
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
その音が、日ごとに速くなる。
声のほうは、追いついていない。
声が追いつかない日は電話が短い。
そのぶん、畳の上が長くなる。
電話を切ってから、畳の上の束を見た。
紙の増える速さと、束の残りを、並べてみる。
釣り合わない。
どれだけ増えても、釣り合わない。
束の残りは、紙よりずっと多い。
多い、をわたしは知っている。
廊下で数えかけて、届かなかった数だ。
紙は、その端にやっと爪をかけたところだった。
それでも爪はかかった。
かからないまま終わる数を思えば進んでいる。
進んでいると口に出しては言えない。
夜、窓辺で束をもう一度繰った。
生きている先へ伸びる緒は、みんな同じ向きに流れている。
線路に、沿っている。
同じ時間の、同じ車両の向きだ。
毎日が、そのまま地図になっている。
地図には駅の名前がない。
名前の代わりに癖が並んでいる。
毎日を続けている人の数だけ、緒は線路の上を走っている。
続けている、は強い言葉ではない。
やめられなかった人も、その中にいる。
行き先を変える力ごと、取られた人もいる。
線路の上の緒は、そういう毎日の形をしている。
形は毎日書き換わる。
書き換わるたびに少しずつ数が違う。
違いを追える目はこの部屋にひとつしかない。
匂う緒だけが、違った。
線路から、外れている。
電車の降りない場所へ、別々の方角へ、伸びている。
方角は、読める。
距離は、読めない。
どこまで行っているのかは、分からない。
帰ってくる気配だけが、どの一本にもない。
帰りの緒、という言い方を、わたしは今夜つくった。
行きがあって、帰りがある。
線路の上の緒には、全部それがある。
外れた緒には、行きしかない。
舌打ちが、出た。
久しぶりに、出た。
出たことに、自分で少し驚いた。
出る力が、戻ってきている。
舌打ちのあと、指はまた束へ戻った。
ほかに置き場がなかった。
窓の外は、いつもの夜だった。
電車の音が、遠くでしている。
線路の外へ出ている緒は、どれも、帰ってきていない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




