第十三話「本数と、方角」
昼の署は夜より音が多い。
多い音の中をいつもの小部屋まで歩いた。
歩き方だけは、もう覚えてしまった。
覚えたくなかった道順ばかり、増えていく。
廊下ですれ違う人は誰もこちらを見ない。
見ないでいてくれる場所は署と大学だけになった。
机の前で紙を一枚だけ出した。
書いてあるのは二つだけだ。
本数と、方角。
数は、書いた。
口には、出さなかった。
出せば、数が声の形になってしまう。
声にした数は部屋に残る。
残ったものと寝起きする自信がない。
久世さんは紙を長く見てから、地図を広げた。
方角の線を、一本ずつ引いていく。
定規は、使わなかった。
手で引く線のほうが、この人の仕事の形に合っている。
線の始まりは一つで、先は別々だった。
引き終えて、黙った。
線の先に、この人の知っている場所があるらしい。
らしい、としか、わたしには言えない。
地名は言われなかった。
わたしも、訊かなかった。
訊けば、繋がってしまう気がした。
地図の畳み目を、久世さんの指が押さえている。
押さえたまま、長かった。
「ここから先は、こっちの仕事や」
線を引いた紙を、久世さんは畳んだ。
畳み方が、いつもより丁寧だった。
「ええ」
わたしは、それだけ答えた。
行きたい、とは言わなかった。
現場という言葉は、二人とも使わなかった。
「……これ以上は、増やさん」
立ち上がりながら、久世さんが低く言った。
誰に言ったのかは、分からなかった。
わたしにでは、なかったと思う。
扉が閉まる前に礼を言った。
言えた自分に少し驚いた。
礼の形をした言葉はまだ体に残っていた。
署を出ると、昼の光が白かった。
人が、普通の速さで歩いている。
普通の速さを、わたしはまだ思い出せない。
思い出せないまま歩幅だけ合わせた。
歩けば、見た目は同じだ。
見た目だけでも同じにしておく。
夕方、下宿で護符を書こうとした。
墨を磨って、紙を置いて、筆を持った。
墨のにおいは、いつもどおりだった。
いつもどおりのものが、この部屋にまだ残っている。
手が、止まった。
護符は、休ませるための紙だ。
もう続けなくていい、と伝えるための紙だ。
呼び鈴に貼った。
祠にも貼ってきた。
休ませる相手がいて、初めて仕事になる。
この束の根は、生きた人の右手にある。
右手は、いまも生きている。
還す先が、ない。
休ませる先が、ない。
祓っても、根が同じ動きをすれば、また増えるだけだ。
視る。
読む。
納める。
わたしの仕事は、三つで一組だった。
三つ目だけが、宙に浮いている。
筆を、置いた。
書きかけの紙を、引き出しに戻した。
引き出しの木の音が、部屋に大きかった。
口の端が、動きかけた。
動きかけて、止まった。
漏れる元気も、もうないらしい。
「……休ませる先が、ないんですけど」
誰にともなく、言った。
返事は、なかった。
墨だけが、乾いていった。
乾いた墨は使えない。
机の上に、駄目にしたものが増えていく。
片づける気力は、夜のわたしに回した。
夜に回したものは大抵そのまま朝になる。
鞄を持って、外へ出た。
行くと決めたのは、筆を置いたときだった。
駅までは七分。
いつもの道を、いつもの速さで歩いた。
速いほうの電車には、乗らない。
女性専用車両にも、乗らない。
今日は、六時十八分に乗る。
階段を下りて、いつもの扉の前に並んだ。
列のどこに立つかを、体が覚えていた。
覚えていることが、こわかった。
電車が入ってくる。
小豆色の車体に、ホームの照明が長く伸びている。
乗った。
人の間に、自分で体を入れた。
隙間が、すぐになくなる。
背中に、誰かの体温が張りついた。
胸が、途中までしか開かなかった。
開かないまま、二駅を数えた。
息を止めていた。
止めていることに、二駅目で気づいた。
吐いた。
視た。
緒が、いつもどおり混ざっている。
読めない。
読めないことは、はじめから知っていた。
乗ったのは、読むためではない。
三本のうちの一本が、この車両のどこかにいる。
どこかにいる、までしか分からない。
それでも、同じ空気の中に立っていた。
紙に書いて渡すだけの相手では、なくなった。
ここから先は、こっちの仕事や。
あの言葉に、まだ返事をしていなかった。
返事は、これだ。
向こうには向こうの領域がある。
私の持ち場は、この揺れる車両のシートの上だけだ。
二駅で、降りた。
反対側のホームへ回って、戻った。
戻りの電車は、空いていた。
座らなかった。
身体には、何も当たらなかった。
当たらなかったことを、確かめている自分がいた。
この癖は、当分抜けないのだろう。
下宿までの道を歩いた。
足が、いつもより速かった。
夜、階段の下で足が止まった。
部屋の扉の前に、四角い包みが置いてあった。
封筒がかかっている。
白と赤の、正しい封筒だった。
正しさが、廊下の暗さの中で浮いていた。
包みの角は潰れていない。
運んだ人は丁寧に歩いたのだろう。
郵便受けには、封筒が一通。
切手が、ない。
消印も、ない。
直接、入れに来たということだ。
誰が、とは考えないようにして、考えた。
包みには、触らなかった。
封筒だけ部屋へ持って入った。
鍵をかけてから、灯りの下で開けた。
便箋が一枚と、名刺が一枚。
名刺には、知らない事務所の名前と、冤罪、という字があった。
便箋の字は、整っていた。
年配の人の、丁寧な字だった。
「うちの子は、そんな子ではありません」
一行目が、それだった。
「あなたにも、ご事情があったのでしょう」
二行目まで、読んだ。
三行目の頭で、やめた。
読み方が、分かってしまったからだ。
礼儀正しい字だった。
礼儀正しく、一度も謝っていない字だった。
丁寧さの、使い道が違う。
どこかで見た使い方だった。
差出人の名前は、なかった。
なくても、うちの子、と呼ぶ人があちらにいることは分かった。
分かったのは、そこまでだ。
そこから先は、考えなかった。
迷いも言い訳も削ぎ落とされた便箋は、指先で風を孕むほどに薄く、軽かった。
考える場所など、最初から用意されていない。
軽い紙ほど手から下ろしにくいことを今日知った。
便箋を封筒へ戻した。
捨てなかった。
これは、渡すものだ。
手続きの側へ、渡すものだ。
包みは、開けなかった。
扉の外に、置いたままにした。
封筒の正しさごと、外に置いた。
久世さんには、電話しなかった。
明日、渡せば済む。
済む、という言い方に、自分で引っかかった。
そのまま、座っていた。
膝の上に、鞄を置いた。
抱える形になった。
部屋の中でまで抱えることはない。
ないと分かっていて腕は解かなかった。
深夜、机の上に紙が一枚ある。
署で渡された紙だった。
名前を書く欄が、ある。
書くかどうかは、わたしが決めていいらしい。
ペンを、持った。
置いた。
湯を沸かしに立って、戻って、また持った。
書かないまま、夜が深くなっていく。
男は、選ばない。
自分を疑わない人に、選ぶ時間は来ない。
手紙の人も、選ばない。
うちの子は、そんな子ではない。
選ぶものは、この部屋にしか残っていない。
空欄を見ていた。
欄は、小さい。
書けば、一秒で埋まる大きさだ。
埋めるかどうかだけが、決まらない。
名前を書けば数の一つになる。
数えられる側に並ぶということだ。
数える側のわたしはそれをどう数えるのだろう。
湯呑みの湯気が、細くなって消えた。
蛍光灯が、一度またたいた。
名前を書く欄が、いちばん短い。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




