第十四話「袖の一本」
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ぜひお楽しみに!
朝の光が畳の目を斜めに照らしている。
束を最後にもう一度繰る。
式札を開いて、緒があふれて、畳に広がる。
この手順も、今日で何度目だろう。
数えなかった。
数えるべきものは、ほかにある。
窓の外で新聞配達の原付が通り過ぎていった。
朝のいちばん早い音は今日も同じだ。
同じ音の中で違うことを始める。
生きている緒。
切れている緒。
匂う緒。
分け方は、手が覚えている。
覚えるまでに何日かかったかは数えていない。
数えなかったものも少しはあるということだ。
匂うほうを、一本ずつ確かめていく。
根は、どれも同じ右手にある。
あるはずだった。
一本だけ、違った。
根が、男の右手にない。
辿り直した。
二度、辿り直した。
ない。
どこにも、ない。
根のない緒が、それでも乾いて、匂っている。
先を、辿った。
先は、遠くへ伸びていなかった。
この部屋の中に、あった。
わたしの袖口に、触れていた。
息を一つ吐いた。
吐いてからもう一度先を辿った。
同じだった。
何度辿っても袖口で止まる。
下宿を出るとき、袖を引かれた朝があった。
振り返って、誰もいなかった。
はいはい、と言って鍵を回した。
古い下宿の、いつもの何かだと思った。
思い込んだまま、見ようともしなかった。
あれは、触られたのではなかった。
知らせだった。
誰が、とは後から知った。
この知らせは、理屈ではない。
理屈のつかないものに触れ合うのは慣れている。
この目も最初から理屈の外にある。
袖口にそっと手を当てた。
乾いた緒は、動かなかった。
昼前に署へ寄って、手紙の封筒を渡した。
扉の外に置いたままの包みも、開けずに持っていった。
封筒ごと、手続きの側へ渡した。
渡すだけ渡して、何も訊かずに帰ってきた。
渡せるのは、届いたぶんだけだ。
動かないことが返事のようでもあった。
ようでもある、より先へは行かない。
昼、電話が鳴った。
「大津さん、いま大丈夫か」
「はい」
「一人だけ、名前が出た」
帰ってこなかったほうの、名前だった。
久世さんの声は、平らだった。
平らにするのに、力の要る平らさだった。
「もう一度、言ってください」
久世さんは、もう一度言った。
小森未散。
こもり、みちる。
口の中で二度繰り返した。
書き留めなかった。
紙に書けば、紙に任せてしまう。
覚えるのは、わたしの仕事だ。
名前は音で覚える。
音にすると年齢も顔も付いてこない。
付いてこないままの名前を胸の内に置いた。
「ほかは」
「まだや」
「まだ、としか言えん」
「……はい」
ほかの名前は、出ていない。
出ない名前の数を、わたしは知っている。
知っていて、どうにもできない。
できないことを、できないと知っているだけだ。
一つだけを、覚えた。
全部は、覚えられない。
覚えられないから一つを選んだのでは、ない。
出た名前が、一つだったのだ。
電話を切って、窓の外を見た。
電線に鳥が二羽とまっていた。
二羽までなら数えても疲れない。
そのくらいの数の世界で夕方まで過ごした。
昼の町は、いつもの速さで動いていた。
夜、護符を書いた。
墨を磨る手が、まだ少し震えている。
右手の震えは、あの夜からの続きだ。
理由は、考えない。
考えない練習だけが上手になっていく。
筆先が、それでも字を作っていく。
手は、仕事を覚えている。
覚えている手に、任せた。
書き上げた護符を、いつもなら貼る。
貼る先が、この一本にはない。
だから、縫うことにした。
針箱は部屋の隅の茶箱の中にあった。
持ってきてから一度も開けていなかった箱だ。
開けると樟脳のにおいがした。
実家のにおいだった。
においだけ嗅いで、蓋の内側は見なかった。
護符を小さく折った。
折り目を爪で押さえた。
袖の内側に当てる。
針に糸を通した。
通すのに、三度かかった。
針目は、下手だった。
家庭科の成績を思い出す出来だった。
それでも、縫った。
一針ずつ、布と紙を留めていく。
留めるたびに、袖が少しだけ重くなる。
重さはたぶん錯覚だ。
錯覚と分かっていて確かめなかった。
紙一枚の重さでは、ないと思う。
思うだけにして、続けた。
縫い終わって、糸を切った。
「小森さん、あなたはもう、知らせなくていい」
声に出して、言った。
袖口を撫でた。
布の下の紙が、小さく硬い。
硬さの分だけ、そこにいる。
泣かなかった。
これは、仕事だ。
仕事の顔のまま、針を片づけた。
糸の端を結んで切った。
糸くずを、手のひらに集めた。
そのまま、捨てた。
捨てられるものは糸くずだけだった。
針箱の蓋を閉めたころ、電話が鳴った。
「大津さん、いま大丈夫か」
「はい」
いつもの入り方だった。
用件が、いつもと違った。
「今回の件やけどな」
「礼の、払いようがない。わても、表彰されてもうた。」
「学食三日分では、済まん」
「ええ。だから、いちばん高くつきます。けど、これは仕事ではないので」
電話の向こうで、短く息の抜ける音がした。
笑ったのだと、思う。
「……そうか」
「ええ」
「ほな」
金額の話は、どちらもしなかった。
月末の件の日取りだけ、最後に決まった。
そちらは、いつもの仕事だ。
学食三日分の。
電話は、切れた。
切れる音まで、聞いた。
聞き終えてから、携帯を置いた。
置いた携帯の横で袖口が硬い。
硬いままでいい。
今夜はそれでいい。
机の端に、署で渡された紙がまだある。
名前を書く欄は、空のままだ。
書かないと決めたのでは、ない。
決める日を、わたしが決める。
次の日、教務の窓口へ行った。
落とした単位のことを、訊きに行った。
「診断書がないと、こちらでは」
「……ええーと」
書ける病名は、なかった。
窓口の人は、悪くない。
紙に書いてある。だからそう口にした。
それ以上の理由も意味も、ここには存在しない。
ただ、絶望だけがあった。
少し、呪いたくなったが。辞めておいた。
黙って、窓口を離れた。
言い忘れた毒を、一つ思いついた。
思いついただけで使わなかった。
毒は、吐かなかった。
出す先が、見つからないからだ。
廊下の掲示板の前を、通った。
わたしの写真は、まだ貼ってある。
紙の端の反りが、少し進んでいた。
反りの進み方で日数が分かる。
日数の数え方ばかり増えていく。
横に、小さな紙が一枚増えていた。
取材と衣装合わせは当面見合わせ、と書いてある。
決めたのは、わたしではない。
今度ばかりは、決めてもらってよかった。
よかったと思う自分に、少し驚いた。
帰りに、財布の中身を数えた。
一目で、数えられる額だった。
冷蔵庫には、もやしが一袋。
湯を沸かして、茹でて、食べた。
味は、した。
もう一口、食べた。
確かめながら食べる癖はいつか抜けるだろうか。
抜けなくても食べてはいける。
舌打ちが、一つ出た。
単位の分だった。
夕方、駅へ行った。
通路の壁に、わたしの写真が貼ってある。
路線図の隣で、口の端だけを上げている。
剥がしてくれとは、言わない。
誰に告げるべきか、いまの自分にははっきりと分かっている。
その上で、言葉を喉の奥に呑み込んで沈黙を選んだ。
貼り出しには、期限がある。 あと何か月かを、数えた。
指を折れば、数え終わる長さだった。
終わりが見えている数字なら、どれほど膨大でも恐れるには足らない。
本当に背筋を凍らせるのは、二度と数え切れない無限の数字の羅列だ。
階段を下りて、ホームに立った。
いつもの時間の電車が、入ってくる。
小豆色の車体に、夕方の照明が伸びている。
乗る。
押されて、奥へ入る。
放送が一つあって、扉が閉まった。
人と、鞄と、においの中で、背筋を立てる。
袖口の内側で、紙が小さく硬くなる。
硬さを確かめる指の癖が一つ増えた。
増えた癖の中で初めて嫌いではない癖になった。
発車して、体が一度うしろへ引かれた。
手の甲に、何かが当たった。
混んでいる。
鞄だろう。
振り返らなかった。
今日のは、多分、ただの偶然。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
リアルが、繁忙期突入。
編集無しバージョンは、落ち着いたら18禁で乗せますよっと('◇')ゞ




