第3話「折り返す場所」
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漁協の壁に、潮見表が貼ってあった。
紙が日に焼けている。
端が反り返っている。
わたしは今日の欄を指でたどった。
「その表、去年のとは合うてへんで」
塩見さんが湯呑みを持って通りかかった。
「毎年、貼り替えますの」
「貼り替えな、使えん」
満潮、二十二時十八分。
足跡が増えるのは夜だ。
鵜飼さんは、わたしが来る三日前からだと言った。
その日も、満潮は夜だった。
わたしは指を四年前の八月の欄へ動かしたかった。
この表は今年のものだった。
「塩見さん」
わたしは声をかけた。
「四年前の八月の潮を、調べられますか」
「潮なら、頭に入ってるわ」
塩見さんは湯呑みを置いた。
「潮の時分は、年で変わるわ」
「では、四年前の八月と今年の八月は」
「別もんや」
「あの日の午後は」
「上がっとった」
塩見さんは指で宙に線を引いた。
「三時半か、四時。いちばん上がる時分やった」
「よく覚えていらっしゃいますのね」
「浜の人間は、潮で日を覚えるんや」
湯呑みが、机の上で小さく鳴った。
「四年前の、午後三時四十分ごろは」
「上がりきる、少し前やな」
塩見さんは指を止めた。
「いちばん、沖へ出やすい時分や」
「出やすい」
「上がっとると、遠くまで行ける気がするんや」
湯呑みが、また鳴った。
「行ける気になって、帰りで足が止まる」
十五時四十分。
走り書きの紙にあった時刻だ。
あの日。
海はいちばん高いところにいた。
そして今年。
いちばん高いところに来るのは夜だ。
念が覚えているのは、時刻ではない。
海がいちばん高くなることだ。
人よりよく覚えている。
◆
宿の帳場で、懐中電灯を借りた。
「夜の浜は、なんもないで」
「なにも無いのを、見に行きますの」
「変わった学生さんやな」
塩見さんは電池の残りを確かめて、渡してくれた。
「潮の上がるのは十時過ぎや。上がりきる前に戻り」
「なぜですの」
「上がりきったら、帰り道が短うなる」
式札は三枚だけ持った。
多く持つと、迷ったときに使ってしまう。
サンダルは斜面の上へ脱いで置いた。
波を踏む前に、裾を膝の上までたくし上げた。
見ているのは海だけだ。
……たぶん、海だけだ。
砂の温度で、念のある場所は分かる。
裸足のほうが早い。
階段を下りると、砂はまだ生ぬるかった。
◆
夜の浜は、昼と別の場所だった。
風が海から吹いている。
砂の表面だけが動いている。
波の音は近い。
水の色は見えない。
懐中電灯を消した。
暗さの中で、音だけが立ち上がってきた。
音には層があった。
いちばん遠く。
沖のうねりが低く鳴っている。
その手前。
消波ブロックが水を割る音がする。
足元。
細い波が砂を舐めていた。
三つの音の距離が、そのまま海の広さだった。
匂いも昼と違う。
昼は日に焼けた砂の匂いがする。
夜は水の匂いのほうが濃い。
足の裏だけが、じわりと冷えていった。
わたしは白い式札を一枚出した。
砂の上に置いた。
息を吹きかける。
紙が起きた。
雀の形になった。
海の上は、式が嫌がる場所だ。
水は念をほどく。
行き先も、帰り道も、水の上では溶けやすい。
「一往復だけ」
雀は羽を鳴らした。
「戻れなかったら、置いていきますわよ」
紙の羽が、一度だけ強く鳴った。
沖の暗がりへ飛んだ。
紙の羽は、二度ためらった。
式は水を嫌がる。
嫌がるものを飛ばす。
こちらの手のほうが冷たくなる。
指の先から熱が抜けていくのが分かった。
わたしは砂へ膝をついた。
目を細めた。
緒が見える。
四本。
どれも岸から沖へ。
細く伸びている。
満潮が近づいてくる。
緒は少しずつ岸へ寄ってきていた。
海が上がると念も上がる。
引けば戻る。
人へ向かう緒ではない。
時刻へ向かって、伸び縮みしている。
雀の見たものが、指の先に届いた。
沖の一点。
そこで緒は、ぷつりと折り返している。
先へは行かない。
行って、戻ってくる。
わたしは位置を目で測った。
東の岩場ではない。
浜の中央から、西へ。
消波ブロックの列の、その先だった。
距離は百メートルほどだと思う。
圭吾さんが上がった場所は、東の岩場の先。
鵜飼さんはそう言った。
流れは沖へ引く。
そして東へ回る。
流された人は、東へ運ばれる。
なら、折り返す場所が西にあるのは、おかしい。
流された地点でもなく、上がった地点でもない。
わたしは頭の中で、海の上に線を引いた。
浜から沖へ、まっすぐ一本。
流れは沖で右へ曲がる。
東の岩場へ回る。
物も人も、そこへ運ばれる。
だから捜すときは東を捜す。
四年前もそうしたはずだ。
西は、誰も見ていない。
あそこは、なんの場所だろう。
(引き返した場所ですわね)
沖へ向かった誰かが、あそこで向きを変えた。
溺れた人は、向きを変えられない。
あそこで戻ったのは、溺れた人ではない。
水は念をほどく。
言葉は溶けて読めない。
残るのは、順番と、向きだけだ。
◆
背中で、砂が鳴った。
ぴちゃ、と濡れた音がした。
わたしは振り返らなかった。
振り返る前に、数を数えた。
自分の足の位置。
式札の残り。
波打ち際までの距離。
音は一つではなかった。
ぴちゃ。
ぴちゃ。
濡れた足の裏が砂を叩く音が、二つ、三つと重なる。
海から上がってくる。
風が止まった。
そのとき、声がした。
子どもみたいに素直な、数える声だった。
「ひとり」
波が引いた。
「ふたり」
砂の匂いが濃くなった。
「さんにん」
わたしの後ろで、砂が続けて凹む音がする。
「よにん」
声はそこで止まった。
止まって、少し待った。
待っている。
誰かが上がってくるのを待っている。
波が一つ寄って、引いた。
声は、もう一度言った。
「……よにん」
わたしは振り返った。
誰もいない。
懐中電灯をつけると、光の中に砂だけがあった。
そして、足跡が四列並んでいた。
わたしが立った場所の、すぐ後ろまで。
昼に見たときより、濡れた縁が新しい。
いま、上がってきたばかりの跡だった。
わたしは、しゃがんだ。
膝が少し笑っていた。
(大丈夫。数えているだけですわ)
こわい念ではない。
こわい念は、数を数えない。
数を数えるのは、確かめたい念だ。
理屈は、ちゃんと立っている。
立っているのに、耳がまだ後ろを向いていた。
(帰りたい)
(宿の扇風機のところへ帰りたい)
(というか、なぜわたしはこんな時間に裸足で砂の上にいるんですの)
内心は、だいぶ騒がしかった。
顔は動かさないでおいた。
動かしても、誰も見ていないけれど。
それでも、心臓は言うことを聞かなかった。
雀が戻ってきて、わたしの手のひらで紙に戻った。
紙は湿っていた。
海の水ではない。
念が濡れているのだ。
わたしは息を吐いて、立ち上がった。
斜面のサンダルまで、砂の上を戻った。
足の裏の砂が、なかなか落ちなかった。
叩いても、まだついている。
濡れた砂は、そういうものだ。
宿の風呂場で足を洗いながら、わたしは声の数え方を思い出していた。
急いでいなかった。
叱ってもいなかった。
ただ、確かめていた。
あの調子で四年、毎年数えてきたのだ。
四列の足跡と、沖の折り返し点。
死の匂いは沖に一つだけ。
四列は生きている人のもの。
そして、数える声。
もう、遠回りをする理由がなかった。
あの日、海にいたのは一人ではない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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