第2話「一人で行った子」
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寝不足は、肌に出る。
朝の鏡で、目の下の色を確認した。
それから水で顔を叩いた。
夜行バスの疲れが二日目に来ている。
それでも足は浜へ向かった。
朝の東浜は、きれいだった。
思っていたより、ずっと。
人の手が入っている。
流木も瓶の破片も落ちていない。
海の家が二軒あった。
片方はもう畳んである。
浜の入口に立て看板があった。
『遊泳注意 沖の流れが速い場所があります』
字が新しい。
去年か今年、書き替えたばかりの看板だ。
看板の脇に、海の家の若い人がいた。
こちらを見ていた。
わたしが顔を上げた。
若い人は慌てて氷の袋を持ち直した。
「あの、なにか探してます」
「足跡ですわ」
「足跡」
「濡れた足跡です。ご覧になりました」
「……見てないです」
目が、看板のほうへ逃げた。
「見てないですけど、朝、砂をならせって言われてます」
「どなたに」
「観光協会の人です」
「ならしていらっしゃるの」
「毎朝やってます。今日はこれからです」
若い人は氷の袋を持ち直した。
「やっても、夕方にはまた出てるんですけど」
(浜には水着の方もおりますでしょうに)
わたしは砂の上へ戻った。
三列の足跡は残っていた。
昨日の夜のままだ。
まず人の手から考える。
いちばん単純な線だ。
悪戯なら、誰かが夜に浜へ入っている。
バケツで海水を汲む。
素足で歩いて、また戻る。
できないことではない。
ただ、それをすると足跡は水際から始まる。
バケツを持って波打ち際へ行く。
そこから歩き出すからだ。
この足跡は違った。
濡れた砂の乾き方を見る。
足跡は満潮の水位より上から始まっている。
夜のうちに海がいちばん上がる線。
それを砂の色が教えてくれる。
その線より、足跡は三歩ぶんうしろにあった。
水が届かない場所だ。
そこで人が濡れて立ち上がっている。
◆
漁協の前で、鵜飼さんがホースを巻いていた。
「夜、浜へ下りる道は何本ありますの」
「二本です。宿の前と、ここの横」
「どちらも、家の前ですわね」
「前です。夜中に人が通ったら、犬が鳴きます」
「昨日の夜は」
「鳴いてません」
鵜飼さんはホースを掛けた。
「聞いてたので」
この人も、夜に起きている。
「灯籠の準備は、いつからなさいますの」
「十六日の夕方です。竹の枠を組みます」
「浜へ入るのは、その日だけ」
「その日だけです。ほかの日は、誰も下りません」
「下りていらっしゃいますわ」
ホースを巻く手が止まった。
「海の家の方が、毎朝」
「……ああ」
鵜飼さんは首の後ろを掻いた。
「あれは、浜の内には入りません。砂をならすだけです」
「ならすときは、どこを歩かれますの」
「波打ち際です。均すのは、そこがいちばん荒れるので」
わたしは砂の図を頭に置いた。
波打ち際から入って、波打ち際を戻る。
足跡が始まるのは、満潮の水位より三歩うしろだ。
道が違う。
「そのとき、皆さんは裸足ですか」
「まさか。長靴か、サンダルです」
サンダルなら、底の跡が残る。
足跡には、指の形があった。
全部、素足だった。
「もうひとつ。沖へ引く流れは、どのあたりですの」
「二か所あります。ひとつは、岩場の手前」
「もう一か所は」
「西の、ブロックの先です」
わたしは、その言葉を置いておいた。
「四年前も、そこですか」
「そこです」
鵜飼さんは東の岩場を指した。
「圭吾が上がったのは、あの先です」
東。
わたしは指の向きを覚えた。
◆
役場の窓口で、四年前の広報を出してもらった。
「八月号ですね。綴りのまま、そこで見てください」
「持ち出しは」
「できません」
窓口の人は、それから少し声を落とした。
「学生さん、なにを調べてはるの」
「行事のことです」
「行事」
「灯籠の行事ですわ」
窓口の人は、それ以上は聞かなかった。
小さな記事が一つ載っていた。
『東浜で高校生が溺れる 単独で入水と見られる』
単独。
三行の記事に、それが二回書いてあった。
わたしは頁を戻して、その号の後ろの方も見た。
同じ号に、海水浴場の開設の記事があった。
その年の来客数の目標が書いてある。
事故の記事の二頁うしろだった。
紙は、並べ方でも喋る。
「なにか、探してますか」
声は柔らかかった。
振り返ると、白いポロシャツの人が立っていた。
五十代の半ばくらい。
胸に観光協会の名札がある。
「室井といいます」
室井達彦さん。
四年前は、畳んだほうの海の家を管理していた人だという。
「学生さんが浜の写真を撮っていると聞いたので」
塩見さんの話が、もう届いている。
小さい町は、電話より噂が速い。
「大学の課題ですわ。……です」
「どんな課題です」
「海の町の、行事について」
室井さんは笑った。
目尻の皺がやわらかく寄る。
人に好かれる笑い方をする人だと思った。
「盆の灯籠なら、いい行事ですよ」
「どのくらい続いているんですの」
「四年です。事故のあった年から、毎年」
「柏木さんが流されるものですね」
笑い方は変わらなかった。
変わらないまま、声だけが半歩うしろへ引いた。
「あの話は、あまり掘り返さんといてください」
「掘り返しているつもりはありませんけれど」
「四年です」
「四年、なにがですの」
「なにもかもです」
室井さんは指を四本ではなく、手のひらを見せた。
「四年かけて、やっと浜が静かになった」
「静かに」
「新聞も来なくなりました。町の者も、言わなくなりました」
室井さんは手を下ろした。
「言わなくなるまでに、四年かかるんです」
「お母さんが、去年やっと、灯籠の日以外にも浜へ来られるようになったんです」
わたしは黙った。
黙ると、人は続きを喋る。
「学生さんに悪気がないのは分かります」
室井さんは、声を落とした。
「でも、ご遺族の気持ちを考えてください」
考えます、と言えば話は終わった。
わたしはそう言わなかった。
「ご遺族というのは、お母さまですね」
「ええ」
「ほかには」
室井さんの目が、初めて動いた。
「……ほかに、なにが」
「ご遺族というのは、亡くなった方のご家族のことですわね」
「そうです」
「では、お一人ですのね」
「一人です」
言い切るのに、少しだけ時間がかかった。
「いえ」
わたしは頭を下げた。
「行事の話を、ありがとうございました」
◆
消防団の記録は、意外なところにあった。
漁協の二階の倉庫だ。
「古い紙ばっかりやで」
塩見さんは鍵を回した。
「なにが見たいんや」
「四年前の、消防団の控えです」
「そんなもん、なんの役に立つ」
「行事の話に、要りますの」
嘘ではない。
嘘のすぐ隣に立っているだけだ。
当時の出動の控えが、綴りで残っていた。
鉛筆の走り書きの紙と、清書された紙が、同じ綴りに前後で入っている。
走り書きは、現場で書いたものだ。
時刻と場所と、短い文が並んでいる。
『十五時四十分 東浜 水難 通報者三名 少年』
三名。
わたしは紙をめくった。
次の頁が清書だった。
同じ日の、同じ時刻。
『十五時四十分 東浜 水難 通報者一名 付近少年』
一名。
字の丁寧さだけが違う。
数字は、書き直されていた。
消したのではない。
書き写すときに、減らしてある。
わたしは二枚を並べて、しばらく見ていた。
誰かが慌てて隠したのなら、走り書きのほうを捨てる。
捨てなかった。
つまりこれを書いた人は、隠しているつもりがなかった。
整えているつもりだったのだ。
その方が、こわい。
「学生さん、埃かぶるで」
階段の下から塩見さんの声がした。
「塩見さん」
「なんや」
「四年前に通報なさったのは、どなたですか」
返事までに、間があった。
「……そんな昔のこと、覚えとらんわ」
覚えていない人は、間を置かない。
「もう下りますわ」
わたしは綴りを閉じた。
閉じる前に、その二頁だけ写真に撮った。
◆
その日の夕方も、浜へ下りた。
風の変わる時間だった。
砂の上の足跡は、四列になっていた。
新しい一列だ。
いちばん海側に増えている。
やはり波の届かない高さから始まっている。
陸へ十歩で消えていた。
わたしは四列の前へ立った。
歩幅を見た。
一列目は歩幅が広い。
二列目は狭い。
足の形が小さい。
三列目は左を引いている。
四列目は歩幅が広い。
足の形は一列目より大きい。
わたしは砂の上に膝をついた。
死の匂いは、四つのどれからも上がってこない。
匂いはやはり、沖の側にある。
(四つとも、生きている方)
波が寄って、引いた。
わたしは立ち上がって、四列を端からもう一度見た。
歩幅も、足の形も、砂の沈み方も違っていた。
同じ人が四回歩いたのではない。
四つとも、違う人の歩き方だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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