第1話「足跡が、ひとつ増える」
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海から、足跡が上がってくる。
防波堤の内側の砂に、濡れた足の形が並んでいた。
波打ち際からではない。
波の届かない高さから、いきなり始まっている。
そこから陸へ向かって、まっすぐ歩いている。
十歩ほど進んで、ふつりと消えていた。
三日前までは、一人分だったという。
今朝は二人分になっていた。
(増えていますわね)
わたしは膝をついて、砂へ指先を近づけた。
八月の砂は日が落ちても熱い。
サンダルの底から、まだ昼の熱が上がってくる。
なのに足跡の縁だけが指を冷やした。
濡れている。
海の匂いがした。
今朝から誰も水へ入っていない浜で。
「三日前までは、そこだけでした」
うしろで声がした。
「鵜飼といいます。電話をした者です」
「大津真琴ですわ。……です」
鵜飼亮太さん。
二十二歳。
この町の漁協で働いている。
わたしを呼んだ人だ。
日に焼けた腕と、洗いすぎて色の抜けた作業着。
浜を見る目だけが休んでいなかった。
「毎年、盆になると出ます」
「毎年」
「はい。四年、続いてます」
「四年」
「盆の入りに出て、送り火の日に消えます。毎年、同じです」
鵜飼さんは砂の上の二人分を指した。
「でも去年までは、ずっと一人分でした」
「一人分というのは、いつも同じ形でしたの」
「同じです。歩幅も、向きも」
鵜飼さんは自分の足元を見た。
「毎年、同じ人が上がってくるみたいでした」
わたしは立ち上がって膝の砂を払った。
「今年から増えた」
「三日前からです」
「その前の日に、なにかありましたか」
「……なにも」
返事が早かった。
早い返事は、たいてい用意してある。
海はおとなしかった。
凪いだ水面に、夕方の色が薄く伸びている。
沖に船が二隻。
その向こうに、灰色の岩場が黒く出ていた。
「ひとつ伺いますけれど」
わたしは足跡の列を目でたどった。
「わたしを呼ぶ前に、警察へは」
「言いました」
「なんと」
「子どもの悪戯やろう、と」
「見には来られましたの」
「来ました。写真だけ撮って、帰りました」
「なんとおっしゃって」
「よくある話や、と」
まあ、そうでしょうね。
濡れた砂で調書は取れない。
わたしの知っている私服の刑事さんは、府の内側の人だ。
ここは府の端で、海の側だった。
電話をしても、たぶん来ない。
◆
昨日の夜、わたしのスマホが鳴った。
出たくない相手ではないけれど、背筋が伸びる相手だった。
「夜分にすみませんねえ。慈恩です」
神宝町の拝み屋、慈恩様。
子どものころ、一度だけ命を拾ってもらった人だ。
「ご無沙汰していますわ。……います」
出だしから家の言葉が漏れて、わたしは小さく舌打ちした。
「漁協の若い人から、相談が回ってきましてねえ」
慈恩様は世間話の調子で用件へ入った。
「浜に足跡が出るそうです。それが今年、増えているとか」
「ご自分で行かれないんですか」
「ぼくが行くと、町が身構えますからねえ」
「わたしなら身構えないと」
「大学生ですから。夏休みの子が浜を見ていても、誰も片づけません」
便利な理屈だ。
「遠いんですの」
「夜行で一晩です。海のきれいなところですよ」
「何日ぶんですか」
「四日も見ていただければ。盆が明けると、出なくなるそうですから」
「出なくなる」
「毎年、出て、消えるんです。四年、そうだそうですよ」
「消えるものを、なぜ今年だけご相談になるの」
「増えたからでしょうねえ」
慈恩様は、そこだけ声を平らにした。
「消えるうちは、誰も数えずに済みますからね」
「お代は」
「宿と、行きと帰りのぶんは先に出ます。あとは片がついてから」
「片がつかなかったら」
「宿代は残りますよ」
わたしは口の中で数を数えた。
冷蔵庫のもやしと、後期の履修登録の締切と、財布の中身。
「受けます」
「よろしくねえ。――ああ、それと」
切れかけた声が戻ってきた。
「あの浜で亡くなったのは一人だと、町では数えていますよ」
「……数えて」
「足跡というのは、行った先より、上がってきた場所を見るものですよ」
「……どういう意味です」
「さあ。年寄りの独り言です」
電話はころんと切れた。
意味深なことだけ言って切る。
術者の悪い癖だと思う。
夜行バスは腰にきた。
◆
わたしはもう一度しゃがんで、二つの足跡へ指を寄せた。
目を細める。
――ある。
死の匂い。
薄い。
けれど確かに、この浜のどこかから上がってくる。
海の匂いに混ざって、鼻の奥へ残る種類のものだ。
念の緒は沖へ伸びていた。
水の上でほどけて、先が読めない。
人の念は人へ向かう。
恨む相手へ。
恋しい人へ。
あるいは自分自身へ。
この緒はどちらへも向いていなかった。
海の上のどこかで、ぷつりと視界から落ちている。
わたしは指を右の足跡へ移した。
次に左の足跡へ移した。
二度やって、三度目でやめた。
どちらからも、死の匂いは上がってこない。
匂いは足跡ではなく、沖から来ている。
「鵜飼さん」
わたしは砂を指した。
「こちらの二人分ですけれど」
「はい」
「どちらも、生きている方の跡ですわ」
鵜飼さんの喉が動いた。
「生きてる、というのは」
「生きていらっしゃる方の思いが残した跡、ということですわ」
「亡くなった方は、まだ上がってきていません」
言い直す間もなかった。
鵜飼さんは足跡を見て、それから海を見た。
しばらく黙っていた。
「……足跡が、生きてるって、どういうことですか」
「生きている人の思いも、足跡くらいは残します」
わたしは砂の粒を払った。
「本人が来ていなくても、です」
「本人が、知らんでもですか」
「知らないほうが、よく残りますわ」
わたしは足跡の縁を指でなぞった。
「忘れようとする力も、思いのうちですので」
鵜飼さんは答えなかった。
答えないことが、いちばん答えていた。
◆
民宿の名前は潮鳴荘だった。
一階の帳場に古い扇風機が置いてある。
首を振るたび、かたん、と音を立てた。
「学生さん、卒論かい」
声をかけてきたのは塩見さんという人だった。
漁協にいちばん長くいるおじいさんだと鵜飼さんが言っていた。
「まだ一年ですわ。……一年です」
「ほう。若いのに浜の写真ばっかり撮って」
「浜が、お好きですの」
「わしは五十年見とる」
塩見さんは湯呑みを持ち上げた。
「見飽きた」
「見飽きても、毎日ご覧になるんですのね」
「そら、そこにあるからな」
塩見さんの目が、膝の砂を払うわたしの手のあたりで一度止まった。
「その丈で砂に膝つくと、危ないで」
「なにがですの」
「まくれる」
「……ご心配なく」
わたしは裾を押さえて、半歩だけ下がった。
塩見さんは湯呑みを置いた。
「浜だけ見といてくれたらええよ」
「ほかに、なにか見えますの」
「なんも無い」
浜だけ。
わたしはその言い方を、頭の隅へ置いた。
「四年前に、事故があったと聞きました」
扇風機がかたんと首を振った。
「柏木さんの子や」
塩見さんの声が少し低くなった。
「圭吾くん。十七やった」
「夏ですか」
「八月や。昼過ぎに、ひとりで浜へ来てな」
塩見さんは湯呑みを両手で持った。
「泳いで、沖へ流された。上がったんは次の日や。東の岩場の先でな」
高校二年の夏だった。
「一人で来たんですか」
「一人や」
「誰にも言わずに」
「言わずに来て、言わずに死んだ」
塩見さんは湯呑みを回した。
「かわいそうな子や」
その言い方には、四年ぶんの手垢がついていた。
何度も同じ形で口にされた話の手触りだ。
「町では、そう言うんですのね」
「そう言うほかに、言いようがないやろ」
塩見さんは湯呑みの底を見た。
「毎年、お盆に灯籠を流します」
塩見さんは指を一本立てた。
「柏木さんが、一つ」
「一つだけ、ですの」
「一つや」
塩見さんは湯呑みを置いた。
「毎年、一つ。四年、一つや」
一つ。
わたしはうなずいて、そこは飲み込んだ。
◆
日が落ちてから、わたしはもう一度浜へ下りた。
風が変わっていた。
昼は陸から、夜は海から吹く。
波の音が、昼より近く聞こえる。
懐中電灯の光を砂へ落とした。
足跡は増えていた。
二人分ではない。
三人分になっている。
新しい一列は、前の二列の右側に並んでいた。
同じように波の届かない高さから始まって、陸へ十歩。
わたしは光をゆっくり動かした。
三列の足跡は、どれも陸を向いていた。
海へ帰る形のものは、一つもなかった。
ただ、新しい一列だけ、歩き方が違った。
左の足跡だけ、砂を引きずった跡がついている。
右足はきちんと踏んで、左足を寄せるように運んでいる。
足を痛めた人の歩き方だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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