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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
『鏡の教室』ミステリーよりのホラー

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第8話「鏡の教室」

最終回ですお楽しみください




 その夜、わたしは一人で二〇四号室に入った。


 誰にも、頼まなかった。


 これは、わたしの仕事だ。


 廊下の灯りは、落としてきた。


 守衛には、朝まで開けておくと頼んだ。


 護符は、一枚だけ。


 それを、指に挟んでいる。


 膝が、少し震えていた。


 怖くない、とは言わない。


 一人で怪異と向き合うのは、いつだって怖い。


 それでも逃げなかった。


 逃げれば、また誰かがここへ来る。


 それでも、これは、わたしにしかできない。


 闇と、あの古い香水が、待っていた。


 匂いが肺の底まで沈んでくる。


 甘くて、重い。


 二十数年ぶんの、匂いだった。


 わたしは一歩踏み出した。


 足の裏がまた柔らかいものを踏んだ。


 ぷつ、と沈む。


 部屋が目を覚ましはじめた。


 机がひとりでに動きはじめる。


 窓際の一席を中心に。


 景色が、組み上がっていく。


 昼に数えたあの跡の通りに。


 見えない生徒が、席に着いていく。


 白い人影が、窓を背に立っていた。


 柚木涼子。


 長い髪。


 誰かの理想で、あり続けた人。


 わたしはその顔を見た。


 きれいな、顔だった。


 誰からも、好かれる顔。


 誰の理想にも、なれる顔。


 だからこそ、誰のものにも、なれなかった。


 わたしはその哀しさに少しだけ見入った。


 きれいすぎて、寂しい顔だった。


 誰にでもなれる人は。


 誰にも、なってもらえなかった。



 わたしはこれまで聞いた言葉を、胸に並べた。


 保科は言った。


 あの人は、泣いていた、と。


 樋口は言った。


 助けて、と言われた、と。


 顔も知らない三人目は。


 好きだ、と言われて、舞い上がった。


 仙波が聞いた、母親の話では。


 息子は、ある日、別人になったという。


 同じ一人が、同じ部屋で、違う言葉を囁いた。


 保科は必要とされたかった。


 樋口は誰かを助けたかった。


 三人目は愛されたかった。


 みな、自分がいちばん欲しかった言葉を聞いていた。


 からくりが、ひとつの形を結んだ。


 優しい言葉が、みんなの未来を奪った。



 白い人影の口が、また動いた。


 空席に向かって、囁いている。


 その言葉は、女自身へは還らない。


 勝手に、動く口。


 ――けれど。


 一瞬だけ、その顔に本人の願いがよぎった。


 誰かを助けたい。愛されたい。理想の先輩でいたい。


 憑いたものだけの願いではない。


 柚木もまた、その言葉を欲しがっていた。


 (……あなたも、そうだったのですね)


 被害者であり、加害の器でもあった。


 どちらか一つには決められない。



 わたしは白い影に近づいた。


 顔を、まっすぐ見る。


 この人にも、名前があった。


 華ではない。


 器でもない。


 柚木涼子という、一人の人だった。


「あなたのお仕事、拝見しました」


 わたしはそっと声をかけた。


「あの論文、あなたが書いたのですね」


「消されても、仕事は、ちゃんと残っていました」


 白い影が、かすかに揺れた。


 聞こえた、のかもしれない。


 二十数年ぶりに、名前を、呼ばれて。


 白い影がこちらを見た。


 その目に、光るものがあった気がした。


 気のせいかもしれない。


 それでもわたしは、そう思いたかった。



 わたしは護符を構えた。


 祓いは、しない。


 消してしまえば、この人まで、無かったことになる。


 それは、雨宮のやり方だ。


 だから、休ませる。


 もう、通わなくていい状態に。


 もう、誰かに合わせなくていい。


 もう、いい先輩でいなくていい。


 怒っても、いい。


 泣いても、いい。


「もう、あなたが誰かの理想になる必要は、ありませんわ」


 護符を、そっと空席に置いた。


 白い人影が、ふっと、柔らかくほどけた。


 口が止まり、香水が薄れ、机が戻る。


 白い影は消えず、ただ静かに眠るように座っていた。



 わたしは黒板のほうを向いた。


 誰もいない教室に、小さく告げた。


「鏡は。」


「何も映していません。」


「映したのは。」


「人です。」


 それ以上は、言わなかった。



 退学した四人は戻らない。


 芹沢の名も、雨宮の答えも、まだ決まっていない。


 変えられたのは、五人目を出さなかったことだけだ。


 今夜は、それでいい。



 窓際の席へ腰を下ろし、目を閉じた。


 何も聞こえない。


 やはり、この部屋はわたしには何も囁かなかった。


 安堵して、ほんの少しだけ寂しかった。


 どれくらい、そうしていただろう。


 廊下から、声がした。


「そこにいてはったんか、学生さん」


 仙波だった。


 外で、待っていたらしい。


 わたしは立ち上がった。


 二〇四号室を出て、ドアを閉める。


 ドアノブは、もう、冷たくなかった。


「どうやった。何も、見えませんでしたか」


 わたしは少しだけ笑った。


「……わたしは、まだ誰にも会いたくありませんもの」


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

次の話は『潮の順番』です。

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