第7話「理想は、便利ですわ」
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四号館の階段を、二段飛ばしで駆け上がった。
息が喉で焼けている。
脇腹が、ずきずきと痛んだ。
二〇四号室の前に、人影があった。
芹沢真希だった。
ドアノブに、手をかけている。
「芹沢さん」
わたしはその手首を掴んだ。
芹沢がびくりと振り返る。
その目は、どこか遠くを見ていた。
焦点が合っていない。
顔色が、紙のように白い。
まるで夢の途中を歩いているようだった。
わたしの声も、届いていないのかもしれない。
「……あなた、誰」
「入っては、いけません」
わたしは手首を離さなかった。
「どうして。少し、休みたいだけ」
芹沢の声は、力なく掠れていた。
「疲れてしまって。ここに来れば、楽になれる気がして」
(呼ばれている)
部屋のほうから。
香水の匂いがドアの隙間から漏れていた。
あの古い匂い。
名前を消される者を、部屋が呼んでいる。
おいで、と。
わたしはぞっとした。
部屋が、人の声色を真似ている。
わたしは芹沢を廊下の壁際へ引き戻した。
「この部屋に入った人は、みんな辞めました」
「四人、続けて」
芹沢の瞳が、少しだけ揺れた。
「あなたが五人目になるのを、見ていられません」
その手が、ようやくドアノブから落ちた。
芹沢がその場にしゃがみこむ。
膝に力が入らないようだった。
わたしはその肩を支えた。
薄い肩だった。
こんなに細かったのか。
この人も削られている。
名前を、少しずつ。
芹沢はまだ部屋のほうを見ていた。
その目に光は戻っていない。
わたしはその視線を遮るように立った。
もう呼ばせない。
この人はわたしが帰す。
◆
そのとき、階段の下から足音がした。
ゆっくりとした、落ち着いた足音。
雨宮誠一だった。
「真希くん。こんなところにいたのか」
あの、温度のちょうどいい声で。
雨宮は二〇四号室の前まで来て、足を止めた。
この部屋を、よく知っている足の止め方だった。
窓のどこを見ればいいか、体が覚えている。
守衛が言っていた。
教授はあの部屋だけを気にしている、と。
今、その意味がわかった。
二十数年、この部屋を見張ってきた足だ。
「学生さん。もう、いいんだよ」
雨宮はわたしに微笑んだ。
「部屋のことは、こちらで処理する。噂も、じきに消える」
処理。
その言葉を、彼はとても静かに使った。
埋めるように。
わたしは背中がぞくりとした。
この人は埋めるのがうまい。
声を荒らげない。
脅しもしない。
ただ静かに、土をかける。
気づいたときには、もう見えない。
埋められた者は声を上げない。
最初からいなかったように。
それが、この人のやり方だった。
「雨宮先生」
わたしはまっすぐ彼を見た。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
雨宮は鷹揚に頷いた。
「柚木涼子さんの名前が、論文から消えていました」
雨宮の笑みが、わずかに止まった。
「仕事は、そのまま。名前だけが、抜かれて」
「二十数年前のことだ。よく、覚えていないな」
「今は、芹沢さんの名前が、同じ形で消えかけています」
わたしは指を折った。
「そして、この部屋の噂で辞めた四人は、みな先生の周りにいました」
「辞める前に、見てはいけないものへ、近づいた人たち」
三つ。
わたしはそれを並べただけだった。
問い詰めは、しなかった。
あとは、この人がどう受け取るか。
雨宮の顔から、笑みが引いていく。
けれど、崩れはしなかった。
崩れない人が、いちばん厄介だ。
悪事を暴かれても、揺らがない。
悪事だと、思っていないからだ。
「……君は、誤解している」
雨宮の声は、まだ穏やかだった。
「私は、あの子たちのためを思って」
「真希くんも、研究より向いた道がある。導いてやりたいだけだ」
その声に、嘘はなかった。
本当に、そう信じている。
(それが、いちばん、こわい)
◆
わたしは小さく息を吐いた。
「理想は、便利ですわ」
舌打ちは、しなかった。
この一言だけは、言い直さなかった。
「生身は文句を言いますけれど、像は決して逆らいませんもの」
雨宮は答えなかった。
壁の写真のように笑おうとして、その形を作れずにいた。
わたしは二〇四号室のドアを見た。
「この部屋の『先輩』を、消すことはできます」
護符の一枚を、指で示す。
「わたしの技で、跡形もなく。二度と、誰も見ないように」
「けれど、しません」
雨宮がわたしを見た。
「消してしまえば、楽でしょう。噂も、彼女も、まとめて」
「都合の悪いものを、また一つ、静かに埋めるだけ」
「それは、先生のなさってきたことと、同じですわ」
わたしは護符を下ろした。
「柚木さんを、像のまま葬るのか」
「生身の人が、たしかにいたと、認めるのか」
「芹沢さんを、消し続けるのか。名前を、戻すのか」
「それを決めるのは、わたしではありません」
「先生です」
わたしは彼の目を見た。
「後始末まで、わたしにさせないでください」
◆
長い、沈黙があった。
雨宮は二〇四号室の暗い窓を見上げた。
二十数年ぶりに、その部屋を、まっすぐ見たようだった。
「……考えます」
言わされた「わかりました」ではない。
芹沢の答えも、まだない。
それでいい。選ぶのは、この人たちだ。
◆
雨宮が芹沢を連れて、階段を降りていった。
二人の足音が、遠ざかる。
わたしは一人、二〇四号室の前に残った。
まだ、仕事が一つ残っている。
あの部屋の、先輩。
柚木涼子。
二十数年、誰かの理想であり続けた人。
あの人を、休ませなければならない。
噂を消すだけでは足りない。
柚木を消せば、雨宮と同じになる。
休ませる。誰の理想にもならなくていいように。
(……行かなくては)
わたしはドアノブに手をかけた。
昼なのに、それは氷のように冷たかった。
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