第6話「うちの、華」
ぜひお楽しみに!
わたしは雨宮の研究室を訪ねた。
調査の中間報告、という口実で。
本当は、あの手つきを近くで見たかった。
研究室は、明るくて清潔だった。
窓が大きく、日がよく差している。
賞状と、写真と、観葉植物。
どこもかしこも、手入れが行き届いていた。
院生が数人、机に向かっていた。
その一人が、顔を上げた。
芹沢真希だった。
論文の、消えかけた名前の主。
二十七歳。
思ったより、ずっと疲れた顔をしていた。
目の下に、隈がある。
それでも、手だけは休みなく動いていた。
データを打ち込み、図を直し、注をつける。
研究室の、いちばん重い仕事を。
たった一人で背負っているように見えた。
誰も、手伝おうとしない。
みな、自分の机に顔を伏せている。
芹沢が重い資料を運んでも、誰も見ない。
それが、この部屋の当たり前だった。
良い子ほど断れず、仕事だけが集まる。
集まった重さで、名前が沈んでいく。
「ああ、この前の。学生さん」
雨宮が奥から出てきた。
あの、温度のちょうどいい笑顔で。
「どうだね。あの部屋の、目処は」
「もう少し、時間をいただきます」
わたしは当たり障りなく答えた。
雨宮の視線が、芹沢へ流れた。
「真希くん。お茶を、二つ」
芹沢が手を止めて立ち上がる。
はい、と小さく答えて。
その返事は短かった。
顔も上げなかった。
もう慣れてしまっている。
華と呼ばれることに。
雨宮は目を細めた。
「よく気のつく子でね。うちの、華だよ」
華。
その一言に、わたしの背筋がひやりとした。
二十数年前と、同じ言葉。
同じ、飾り方。
華は飾るものだ。
水をやるものではない。
枯れたら次の華を挿す。
花瓶だけが、ずっと同じ場所にあった。
挿し替えられるのは、いつも人のほうだ。
場所は、変わらない。
あの二〇四号室のように。
「彼女はね、優秀なんだ。だが」
雨宮は声を少し落とした。
いたわるような、口ぶりで。
「研究者には、向いていないと思う」
「もっと人を支える仕事のほうが、彼女は幸せになれる」
「私が、導いてやらないとね」
悪意はなかった。本気で、芹沢のためだと思っている。
だから、止まらない。
名を抜くことを『導き』、未来を閉じることを『幸せ』と呼ぶ。
わたしは湯気の立つ茶を、また飲まなかった。
◆
廊下に出て、わたしは指を折った。
証拠は、三つ。
一つ。
二十数年前、柚木涼子の名が論文から消えた。
仕事を残して、名前だけ。
二つ。
今、芹沢真希の名が、同じ手つきで消えかけている。
過去と、寸分たがわず同じ形。
三つ。
退学した四人は、みな雨宮の周りにいた。
みな、辞める前に、見てはいけないものへ近づいた。
噂に乗せて、辞めさせれば。
都合の悪い芽は、静かに枯れる。
三つは一本につながった。
噂は、都合の悪い学生を静かに消す。
雨宮は、それを『みんなのための鎮め』だと思っている。
(後ろで、静かにしている人ほど)
(こわいものは、ありませんわね)
◆
資料室で、影とすれ違った。
皺のよったスーツ。
鞄は、持っていない。
仙波だった。
彼は古い名簿の棚の前にいた。
わたしと、同じ綴じ込みを探していた。
目が、合った。
仙波は軽く顎を引いた。
「熱心やね、学生さん」
「そちらこそ」
互いに、それ以上は言わなかった。
大学側と、家族側。
逆の向きから、同じ土を掘っている。
掘り当てるものは、たぶん同じ。
まだ、手の内は見せない。
仙波は棚のほうへ戻っていった。
その背中を、わたしは少しだけ見送った。
あの人も、たどり着くだろう。
同じ、冷たい名前に。
わたしは少しだけ迷った。
この人に話してしまおうか。
いや、まだ早い。
証拠を当人に返すのが先だった。
答えを、わたしが出してはいけない。
消された名前を、戻すかどうか。
それを決めるのは、消された本人だ。
わたしは、水を向けるだけ。
◆
帰り際、もう一度、研究室を覗いた。
芹沢はまだ机に向かっていた。
わたしはその横顔を見た。
疲れて、削られて。
それでも、まだ、消えてはいない。
(この人には、返す言葉があるのに)
なぜ、そう思ったのかは、わからなかった。
ただ、そう思っただけだ。
わたしには、返らないものが。
この人には、ある。
その違いが、胸の隅で、小さく光った。
わたしはその光に、蓋をした。
◆
研究室を出て、階段を降りたときだった。
すれ違いざま、事務の職員が言った。
「芹沢さん、四号館のほうへ行かはったよ」
わたしは足を止めた。
「一人ですか。こんな時間に」
「なんや、思いつめた顔してはってな」
四号館。
二〇四号室。
あの、名前を消される者が。
自分から、あの部屋へ。
消される前に、消えに行くように。
(――間に合って)
わたしは走り出した。
鞄が、肩で跳ねる。
息が、すぐに上がった。
もやしばかりの体は、こういうとき、本当に頼りない。
脇腹がきりきりと痛んだ。
それでも止まれなかった。
廊下を抜け、渡り廊下を駆ける。
夕闇が、四号館を飲み込みかけていた。
二〇四号室の窓に、灯りはない。
息が喉で笛のように鳴った。
心臓が耳の奥で暴れている。
こんなに走ったのはいつぶりだろう。
それでも、走った。
まだ、五人目を出すわけには、いかない。
まして、それが。
あの、疲れた横顔の人なら。
あの人にだけは。
あの席に座らせたくなかった。
誰かの理想の、真ん中に。
(お願い、まだ、座らないで)
時間ができた時にも随時更新します!




