第5話「消えた先輩」
notoやってます。
マガジンお仕事物
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柚木涼子。
名簿から消えていたのは、その名前だった。
わたしは翌日、図書館の地下にこもった。
二十数年前の紀要を、片端から繰る。
埃と黴の匂いがした。
指先が、じきに黒くなった。
地下の書庫は、しんと冷えていた。
蛍光灯は、一本おきにしか点いていない。
背表紙の文字は、どれも褪せている。
もう誰も、読みに来ない棚。
紙の墓場のようだった。
天井の配管が時おり軋んだ。
誰かの足音が上の階で遠く響いた。
この階にはわたししかいない。
息が白く見えるほど寒い。
指の感覚が鈍っていく。
それでもページを繰る手は止めなかった。
わたしは朝から何も食べていない。
空腹は、もう感じなくなっていた。
(燃やすものが、尽きたのですわ)
雨宮誠一の研究室が出した論文を探す。
(あの応接室の、賞状の主)
目当ての一本は、すぐに見つかった。
二十数年前の、工学系の論文。
著者の欄に、柚木涼子の名があった。
筆頭では、ない。
三番目に、小さく。
わたしは次の号を繰った。
同じ研究室の、続きの論文。
中身は、前の仕事の延長だった。
同じ実験。
同じ図表。
図の番号まで、地続きだ。
なのに、著者の欄から柚木涼子の名が消えていた。
仕事は、そのまま残っている。
名前だけが、抜かれていた。
消しゴムをかけたのではない。
消しゴムなら、跡が残る。
これは、もっと静かだった。
最初から、いなかったことにされている。
(……ずいぶん、きれいに消すこと)
背筋がうすら寒くなった。
名前を消すのに刃物はいらない。
インク一滴あれば足りる。
あるいはその一滴を惜しむだけでいい。
それだけで人は一人いなくなる。
紙の上から。
そしてたぶん現実からも。
◆
当時を知る人を、一人だけ捕まえた。
事務室の、定年間近の女性職員。
柚木涼子の名を出すと、彼女はしばらく黙った。
湯呑みの底を、じっと見ていた。
「……懐かしい名前やねえ」
そう言って、少し笑った。
寂しそうな笑い方だった。
「きれいな子でな。研究室の、華やった」
華。
わたしはその言葉を胸で転がした。
「みんなに好かれとった。教授にも、学生にも」
「誰といても、その人の思う『ええ先輩』でいてね」
職員は湯呑みを両手で包んだ。
「怒った顔を、一度も見たことがない」
(それは、いい人なのではない)
(自分を、どこにも置いていないだけ)
誰の前でも、いい先輩。
それは、自分がどこにもいないということだ。
好かれるほど、薄くなる。
薄くなるほど、消しやすくなる。
わたしはそう思ったが、言わなかった。
「研究も、できる子やった。将来もあったのに」
「ある年の春に、ふっと」
職員は宙で指を滑らせた。
「辞めてしもた。誰にも、何も言わずに」
亡くなった、とは言わなかった。
消えた、と言った。
どこかで、生きているのだ。
この大学から、姿だけを消して。
「あの子、なんの匂いやったかしら」
職員がふと呟いた。
「そう、香水。古い型の」
職員は遠くを見た。
「今でも、たまに廊下で香る気がしてな」
わたしは鼻の奥のあの匂いを思い出した。
喉の奥が、また甘く痺れた。
華と呼ばれた人はもういない。
名前だけが名簿から抜かれて。
匂いだけが廊下に残った。
人は消せても匂いは消せなかった。
それがせめてもの抵抗のようだった。
◆
地下に戻って、わたしは最近の論文を繰った。
同じ研究室の、この一、二年の仕事。
そこに、芹沢真希という名前があった。
二十七歳の、現役の院生。
実験の記録は、細部まで彼女の手だった。
図も、表も、注も。
その仕事の重さは、素人の目にもわかった。
なのに、いちばん新しい号では。
著者の欄から、芹沢真希の名が薄くなりかけていた。
筆頭から、末尾へ。
末尾から、謝辞へ。
そして次はきっと、どこにも。
(同じだわ)
わたしは二冊の号を並べた。
二十数年前と、寸分たがわず同じ形。
柚木涼子が消えた手つきで。
今、芹沢真希が消されようとしている。
仕事は、残して。
名前だけを、そっと。
時代が変わっても、手つきは変わらない。
二十数年前の柚木も。
今の芹沢も。
同じ部屋で、同じように働いて。
同じように、名前を落とされる。
まるで部屋そのものが、人を挽いているようだ。
入った者をすり潰して、吐き出す。
◆
二〇四の女は、柚木涼子。
死霊なら話は早い。だが死の匂いはなく、思いは本人へ還らない。
言葉だけが、部屋へ来た相手へ向かっていた。
(生きた本人に、何かが憑いている)
そこまでは掴めた。
何を相手へ差し向けているのかは、まだ見えない。
知らない念は、怖い。
こんな念をわたしは知らない。
知らないものは、こわい。
こわいけれど、たしかにそこにいる。
わたしは、震える指を握りこんだ。
◆
わたしは地下の椅子にもたれた。
黴の匂いを、深く吸い込む。
(理想の先輩、ねえ)
(都合よく笑って、都合よく消える)
(生身は、そんなに聞き分けよくありませんのに)
小さく、舌打ちをした。
華、と呼ばれて。
華のように、飾られて。
花瓶の水を、誰も換えなかった。
枯れてから、捨てられた。
わたしは退学した四人のことを思い返した。
保科。
顔も知らない、あと三人。
名簿と、噂を、突き合わせる。
四人には、細い共通点があった。
みな、雨宮の研究室の周りにいた。
みな、辞める前に、何かへ近づいていた。
見ては、いけないものに。
(偶然、ではなさそうですわね)
噂は、都合のいい箒だ。
邪魔な埃を、そっと掃き出せる。
誰の手も汚れないまま。
箒を持つ手だけが涼しい顔をしていた。
埃にされた者は声も上げられない。
掃かれて、それきりだ。
二十数年、眠っていた型が。
どうして、今また動いているのか。
型を動かすには、引き金がいる。
誰かが、今も、同じことを繰り返している。
柚木を消し、芹沢を消そうとしている、同じ手が。
わたしは天井を見上げた。
あの応接室の、隙間なく並んだ賞状。
教え子と肩を並べて笑う、面倒見のいい笑顔。
(雨宮先生)
その名前が、はじめて冷たく響いた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




