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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
『鏡の教室』

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第4話「その口は、誰の」

ぜひお楽しみに!


 夜の四号館は、昼よりずっと深く沈んでいた。


 守衛に無理を言って、九時前に鍵を開けてもらった。


 巡回のあいだだけ、と釘を刺されて。


 廊下の蛍光灯は半分が切れかけていた。


 じじ、と鳴っては、また暗くなる。


 わたしの影が、灯りの明滅に合わせて伸び縮みした。


 足音がやけに大きく響く。


 自分の呼吸の音まで聞こえた。


 廊下の突き当たりで、何かが軋んだ。


 振り返ったが、誰もいない。


 ただ、暗がりがそこにあるだけだった。


 わたしは前を向いた。


 引き返すなら、今しかない。


 (帰りたい、なんて言いませんわ)


 嘘だった。


 少しだけ、帰りたかった。


 わたしは二〇四号室の前に立った。


 護符を一枚、指に挟んでいた。


 ひとつ、息を吸う。


 ドアノブは、昼よりもずっと冷たかった。


 指先の熱を、すっと奪っていく。


 ドアを静かに押した。


 蝶番は、やはり音を立てなかった。


 中は闇だった。


 昼に嗅いだ香水が、夜はいっそう濃かった。


 (濃い)


 むせ返るほどの、あの古い匂い。


 喉の奥に、甘さが張りついた。


 吐き気に、少しだけ似ていた。


 わたしは闇に目を慣らした。


 机の輪郭が、少しずつ浮かんでくる。


 窓の外の街灯が、床にぼんやりと格子を落としていた。


 そのとき、足の裏で小さな音がした。


 ぷつ、と。


 画鋲を絨毯に押し込んだような音。


 柔らかいものに、鋭いものが沈む音。


 床に絨毯などない。


 冷たい床のはずだった。


 それなのに、足裏はたしかに、何かが沈む感触を拾った。


 もう一歩、進む。


 また、ぷつ、と沈んだ。


 わたしは足を止めた。



 次に、机が動いた。


 誰も触れていないのに。


 ずず、と、脚が床を擦る音。


 昼に見た、あの擦り跡が、今まさに引かれていく。


 窓際の一席を中心に。


 その周りに、見えない誰かの席が、そっと据えられていく。


 景色がひとりでに組み上がっていく。


 机の脚が、埃の上を滑る。


 昼に数えた、あの跡の通りに。


 一脚。


 また一脚。


 見えない生徒たちが、次々と席に着いていくようだった。


 空いた席に、誰かの気配だけが満ちていく。


 教室が満ちていく。


 誰もいないのに、いっぱいだった。


 わたしは動かなかった。


 護符を握る指だけに力を込めた。


 そして、窓の暗がりに、それを見た。


 白い。


 白い人影が、窓を背に立っていた。


 長い髪。


 ひと世代前の、あの匂いの主。


 輪郭はぼんやりと霞んでいる。


 足もとが、床から少し浮いているようにも見えた。


 人影は、誰もいない机の一つに向かって、身をかがめていた。


 そこに座る、誰かに寄り添うように。


 唇が動いていた。


 何かを囁いている。



 わたしは目を凝らした。


 視えている。


 けれど、いつものようには視えなかった。


 念を辿る糸が、女の内側へ還っていかない。


 唇は動く。声だけが、本人を素通りしていく。


 (口だけが、切れている)


「……喋らされている」


 泣く声。すがる声。愛おしむ声。


 色は変わるのに、どれも女自身のものではない。


 死の匂いはなかった。


 生きたまま、口だけを誰かに貸している。



 そのとき、女の顔がこちらを向いた。


 闇のなかで、目が合った――ような気がした。


 わたしは身構えた。


 次は、わたしの番だ。


 この口が、わたしにも何かを囁く。


 わたしの胸を、名指しで撃つ一言を。


 ――けれど、唇は動かなかった。


 女はわたしに顔を向けたまま、止まっていた。


 何かを言おうとして。


 言葉が見つからないように。


 口が、ただ、空回っていた。


 保科にも樋口にも囁いた口が、わたしの前でだけ空回る。


 (……わたしには、返す言葉もないのですね)


 胸の奥がしんと冷えた。


 理由を考えるのは、あとだ。



 護符をかざすと、白い影は、匂いごと薄れていった。


 机の擦れる音も止んだ。


 部屋は、また、ただの空き教室に戻った。


 窓の外の街灯が、いつのまにか消えていた。


 わたしは大きく息を吐いた。


 膝が、少しだけ笑っていた。


 護符を握った手のひらに、汗が滲んでいる。


 わたしはそれを、スカートの布で拭った。


 怖くなかった、とは言えない。


 あの空回る口が、まぶたの裏に残っていた。


 けれど、わたしは知ってしまった。


 あれは、誰かなのだ。


 役者でも、暗示でもない。


 現に、あの部屋に居つづける、一人の女。


 いつから、あそこにいるのか。


 あの匂いも、机の並べ癖も、今の学生のものではない。


 もっと前。


 ずっと前の、誰か。



 わたしは翌日、事務室の古い名簿を繰った。


 埃を吸って、くしゃみが出た。


 棚の奥から、色の変わった綴じ込みを引き出す。


 二〇四号室が、かつて割り当てられていた研究室。


 その、在籍者の一覧。


 二十数年前の、院生の名前が並んでいた。


 卒業アルバムと突き合わせる。


 色褪せた集合写真を、一枚ずつ。


 笑っている顔。


 肩を組んでいる顔。


 その端に、一人だけ、こちらを見ていない女がいた。


 視線が、少し外れている。


 写真に写ることさえ、遠慮しているように。


 どの顔も、今より少しだけ古い髪型をしている。


 名前は、几帳面な字で書かれていた。


 一つ、また一つと、指でたどる。


 どれも今はもう、どこかの誰かになっているはずだ。


 教授になった人。


 所帯を持った人。


 あるいは、とうに大学を忘れた人。


 その列の途中で、一人だけ、続きがなかった。


 一つだけ、記録の途中でふつりと消えている名前があった。


 修了もせず、退学の届も残さず。


 ただ、名簿から名前だけが、そっと抜かれている。


 最後に載ったのは、二十数年前の春。


 それきり、どこにも出てこない。


 その名の欄に、わたしは指を置いた。


 インクが少し滲んでいた。


 誰かが、あとから消そうとした跡のように。


 (あなたが、あそこにいるのですか)


 (いつから、たった一人で)


 二十数年。


 その長さを、わたしは指先でなぞった。


 香水の匂いが、まだ指先に残っている気がした。


 あの部屋には、まだ会いに行っていない人がいる。


 わたしは、綴じ込みをそっと閉じた。


時間ができた時にも随時更新します!


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