第4話「その口は、誰の」
ぜひお楽しみに!
夜の四号館は、昼よりずっと深く沈んでいた。
守衛に無理を言って、九時前に鍵を開けてもらった。
巡回のあいだだけ、と釘を刺されて。
廊下の蛍光灯は半分が切れかけていた。
じじ、と鳴っては、また暗くなる。
わたしの影が、灯りの明滅に合わせて伸び縮みした。
足音がやけに大きく響く。
自分の呼吸の音まで聞こえた。
廊下の突き当たりで、何かが軋んだ。
振り返ったが、誰もいない。
ただ、暗がりがそこにあるだけだった。
わたしは前を向いた。
引き返すなら、今しかない。
(帰りたい、なんて言いませんわ)
嘘だった。
少しだけ、帰りたかった。
わたしは二〇四号室の前に立った。
護符を一枚、指に挟んでいた。
ひとつ、息を吸う。
ドアノブは、昼よりもずっと冷たかった。
指先の熱を、すっと奪っていく。
ドアを静かに押した。
蝶番は、やはり音を立てなかった。
中は闇だった。
昼に嗅いだ香水が、夜はいっそう濃かった。
(濃い)
むせ返るほどの、あの古い匂い。
喉の奥に、甘さが張りついた。
吐き気に、少しだけ似ていた。
わたしは闇に目を慣らした。
机の輪郭が、少しずつ浮かんでくる。
窓の外の街灯が、床にぼんやりと格子を落としていた。
そのとき、足の裏で小さな音がした。
ぷつ、と。
画鋲を絨毯に押し込んだような音。
柔らかいものに、鋭いものが沈む音。
床に絨毯などない。
冷たい床のはずだった。
それなのに、足裏はたしかに、何かが沈む感触を拾った。
もう一歩、進む。
また、ぷつ、と沈んだ。
わたしは足を止めた。
◆
次に、机が動いた。
誰も触れていないのに。
ずず、と、脚が床を擦る音。
昼に見た、あの擦り跡が、今まさに引かれていく。
窓際の一席を中心に。
その周りに、見えない誰かの席が、そっと据えられていく。
景色がひとりでに組み上がっていく。
机の脚が、埃の上を滑る。
昼に数えた、あの跡の通りに。
一脚。
また一脚。
見えない生徒たちが、次々と席に着いていくようだった。
空いた席に、誰かの気配だけが満ちていく。
教室が満ちていく。
誰もいないのに、いっぱいだった。
わたしは動かなかった。
護符を握る指だけに力を込めた。
そして、窓の暗がりに、それを見た。
白い。
白い人影が、窓を背に立っていた。
長い髪。
ひと世代前の、あの匂いの主。
輪郭はぼんやりと霞んでいる。
足もとが、床から少し浮いているようにも見えた。
人影は、誰もいない机の一つに向かって、身をかがめていた。
そこに座る、誰かに寄り添うように。
唇が動いていた。
何かを囁いている。
◆
わたしは目を凝らした。
視えている。
けれど、いつものようには視えなかった。
念を辿る糸が、女の内側へ還っていかない。
唇は動く。声だけが、本人を素通りしていく。
(口だけが、切れている)
「……喋らされている」
泣く声。すがる声。愛おしむ声。
色は変わるのに、どれも女自身のものではない。
死の匂いはなかった。
生きたまま、口だけを誰かに貸している。
◆
そのとき、女の顔がこちらを向いた。
闇のなかで、目が合った――ような気がした。
わたしは身構えた。
次は、わたしの番だ。
この口が、わたしにも何かを囁く。
わたしの胸を、名指しで撃つ一言を。
――けれど、唇は動かなかった。
女はわたしに顔を向けたまま、止まっていた。
何かを言おうとして。
言葉が見つからないように。
口が、ただ、空回っていた。
保科にも樋口にも囁いた口が、わたしの前でだけ空回る。
(……わたしには、返す言葉もないのですね)
胸の奥がしんと冷えた。
理由を考えるのは、あとだ。
◆
護符をかざすと、白い影は、匂いごと薄れていった。
机の擦れる音も止んだ。
部屋は、また、ただの空き教室に戻った。
窓の外の街灯が、いつのまにか消えていた。
わたしは大きく息を吐いた。
膝が、少しだけ笑っていた。
護符を握った手のひらに、汗が滲んでいる。
わたしはそれを、スカートの布で拭った。
怖くなかった、とは言えない。
あの空回る口が、まぶたの裏に残っていた。
けれど、わたしは知ってしまった。
あれは、誰かなのだ。
役者でも、暗示でもない。
現に、あの部屋に居つづける、一人の女。
いつから、あそこにいるのか。
あの匂いも、机の並べ癖も、今の学生のものではない。
もっと前。
ずっと前の、誰か。
◆
わたしは翌日、事務室の古い名簿を繰った。
埃を吸って、くしゃみが出た。
棚の奥から、色の変わった綴じ込みを引き出す。
二〇四号室が、かつて割り当てられていた研究室。
その、在籍者の一覧。
二十数年前の、院生の名前が並んでいた。
卒業アルバムと突き合わせる。
色褪せた集合写真を、一枚ずつ。
笑っている顔。
肩を組んでいる顔。
その端に、一人だけ、こちらを見ていない女がいた。
視線が、少し外れている。
写真に写ることさえ、遠慮しているように。
どの顔も、今より少しだけ古い髪型をしている。
名前は、几帳面な字で書かれていた。
一つ、また一つと、指でたどる。
どれも今はもう、どこかの誰かになっているはずだ。
教授になった人。
所帯を持った人。
あるいは、とうに大学を忘れた人。
その列の途中で、一人だけ、続きがなかった。
一つだけ、記録の途中でふつりと消えている名前があった。
修了もせず、退学の届も残さず。
ただ、名簿から名前だけが、そっと抜かれている。
最後に載ったのは、二十数年前の春。
それきり、どこにも出てこない。
その名の欄に、わたしは指を置いた。
インクが少し滲んでいた。
誰かが、あとから消そうとした跡のように。
(あなたが、あそこにいるのですか)
(いつから、たった一人で)
二十数年。
その長さを、わたしは指先でなぞった。
香水の匂いが、まだ指先に残っている気がした。
あの部屋には、まだ会いに行っていない人がいる。
わたしは、綴じ込みをそっと閉じた。
時間ができた時にも随時更新します!




