第3話「証言が、全部違う」
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次の日も、朝から動いた。
朝食は抜いた。
財布の中身は心もとない。
(もやしも、そろそろ尽きますわね)
それでも足は止まらなかった。
構内の桜並木は、とっくに葉を落としていた。
枯れ葉が、風に転がっていく。
すれ違う学生は、みな暖かそうだった。
わたしは、擦り切れたコートの襟を立てた。
保科の、色の抜けた目。
あれが頭から離れない。
もう一度あの目を見たくはなかった。
なのに、確かめずにはいられない。
(我ながら、難儀な性分ですこと)
◆
樋口陽介は、退学しかけて、踏みとどまった学生だった。
休学届を出したまま、まだ籍だけは残していた。
図書館の裏の、人気のないベンチで会った。
保科よりは、いくらか目に力があった。
それでもどこか上の空だった。
膝の上に置いた鞄を、ずっと抱えたままだった。
「二〇四の、先輩ですか」
樋口もまずテンプレートから話しはじめた。
「白いワンピースの、長い髪の人」
わたしは黙って続きを待った。
「座っていきませんか、って言われて」
服の色。
髪の長さ。
誘いの言葉。
保科と寸分たがわず同じだった。
(また、同じ台本)
わたしは次を待った。
保科がそこから外れたように。
樋口も外れるはずだった。
「あの人、僕に言ったんです」
樋口は膝の上で手を組んだ。
指先が少し震えていた。
「助けて、って」
わたしはまばたきを止めた。
「消え入りそうな声で。僕にしか、頼めないみたいに」
泣いていた、ではない。
助けて、だった。
同じ部屋の、同じ「先輩」が。
保科には泣いてみせた。
樋口には、助けを求めた。
「あの一言のあと、おかしくなって」
樋口は俯いた。
「講義も、友達も、全部が薄っぺらく見えて」
声が少しかすれた。
「あそこにだけ、本物があった気がして」
保科とまったく同じ乾き方だった。
入り口の言葉は同じ。
真ん中の一言だけが違う。
「今も、あの部屋のことを考えますか」
樋口はこくりと頷いた。
「考えたくないのに。ふとした時に、あの声が」
「もう一度、行きたくなるんです」
彼は自分の膝を強く掴んだ。
「行ったら、たぶん、戻れない」
樋口はそれきり黙り込んだ。
わたしもしばらく何も言えなかった。
風が、二人のあいだを通り抜けた。
◆
三人目のことは、樋口づてに聞いた。
もう連絡のつかない、先に辞めた男子学生。
その男が辞める前に、樋口に漏らしたのだという。
「あいつは、好きって言われたって」
樋口は少し笑った。
乾いた笑いだった。
「先輩に、好きだって。それで舞い上がって」
わたしは指を折って数えた。
泣いていた。
助けてと言われた。
好きだと言われた。
三人が、三人とも違うことを言う。
服も、髪も、誘いの言葉も、あんなに揃っていたのに。
肝心の一言だけが、めいめい別なのだ。
入れ物は同じ。
中身だけが全員違う。
わたしは礼を言ってベンチを立った。
樋口は鞄を抱えたまま動かなかった。
その背中も、うっすらと色が抜けて見えた。
保科も、樋口も、同じ色をしていた。
命はある。
健康も、たぶんある。
なのに、これから先だけが、削り取られている。
人が一人こわれるのに、血の一滴も流れていない。
(きれいなものですこと)
わたしは、その静けさに毒づきたくなった。
◆
自販機で、いちばん安い菓子パンを買った。
百円玉が、財布から一枚減る。
それを齧りながら、別のベンチに腰を下ろした。
甘いだけの、味のしないパンだった。
それでも、腹の虫は少しだけ収まった。
冷えた指を、缶コーヒーで温める。
わたしは咀嚼しながら考えた。
夕方の風が頬に冷たかった。
銀杏の葉が、足もとに一枚落ちてきた。
同じ姿。同じ誘い。
違うのは、最後の一言だけ。
演じ手が何人もいる――それは施錠と巡回が否定する。
噂による暗示――それなら白い服や長い髪は説明できる。
けれど、泣いていた、助けて、好き、という一言までは配れない。
伝わったのは、器だけ。
中身は、入った者ごとに違う。
誰が、それを知っているのか。
そこだけが、どうしても見えなかった。
ふと、守衛の言葉がよぎった。
教授が、あの部屋だけを気にしている。
(……関係、あるのかしら)
わからない。
今は、それを追う糸もない。
考えるほど、像は結ばずに散っていった。
◆
わからないまま、日が暮れた。
構内の灯りが、一つずつ点っていく。
学生たちが駅のほうへ流れていった。
笑い声が遠ざかっていく。
わたしは四号館の方角を見た。
二〇四号室の窓だけが、暗く沈んでいる。
保科の顔が浮かぶ。
樋口の乾いた笑いが浮かぶ。
会ったこともない、三人目の「好き」が浮かぶ。
どれも、真ん中で像を結ばない。
人の口から聞くだけでは、これ以上は近づけない。
この目で、あの部屋を視るしかない。
放っておけば、五人目が出る。
次の一人が、今夜にも、あの窓を見上げるかもしれない。
色を、抜かれるために。
(それだけは、いけませんわ)
(仕方ありませんわね)
舌打ちはしなかった。
覚悟のほうが、先に立っていた。
空きっ腹も、寝不足も、今夜は理由にならない。
「――一度、自分で入りますわ」
誰もいない構内に、その声だけが小さく落ちた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




