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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
『鏡の教室』

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第3話「証言が、全部違う」

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 次の日も、朝から動いた。


 朝食は抜いた。


 財布の中身は心もとない。


 (もやしも、そろそろ尽きますわね)


 それでも足は止まらなかった。


 構内の桜並木は、とっくに葉を落としていた。


 枯れ葉が、風に転がっていく。


 すれ違う学生は、みな暖かそうだった。


 わたしは、擦り切れたコートの襟を立てた。


 保科の、色の抜けた目。


 あれが頭から離れない。


 もう一度あの目を見たくはなかった。


 なのに、確かめずにはいられない。


 (我ながら、難儀な性分ですこと)



 樋口陽介は、退学しかけて、踏みとどまった学生だった。


 休学届を出したまま、まだ籍だけは残していた。


 図書館の裏の、人気のないベンチで会った。


 保科よりは、いくらか目に力があった。


 それでもどこか上の空だった。


 膝の上に置いた鞄を、ずっと抱えたままだった。


「二〇四の、先輩ですか」


 樋口もまずテンプレートから話しはじめた。


「白いワンピースの、長い髪の人」


 わたしは黙って続きを待った。


「座っていきませんか、って言われて」


 服の色。


 髪の長さ。


 誘いの言葉。


 保科と寸分たがわず同じだった。


 (また、同じ台本)


 わたしは次を待った。


 保科がそこから外れたように。


 樋口も外れるはずだった。


「あの人、僕に言ったんです」


 樋口は膝の上で手を組んだ。


 指先が少し震えていた。


「助けて、って」


 わたしはまばたきを止めた。


「消え入りそうな声で。僕にしか、頼めないみたいに」


 泣いていた、ではない。


 助けて、だった。


 同じ部屋の、同じ「先輩」が。


 保科には泣いてみせた。


 樋口には、助けを求めた。


「あの一言のあと、おかしくなって」


 樋口は俯いた。


「講義も、友達も、全部が薄っぺらく見えて」


 声が少しかすれた。


「あそこにだけ、本物があった気がして」


 保科とまったく同じ乾き方だった。


 入り口の言葉は同じ。


 真ん中の一言だけが違う。


「今も、あの部屋のことを考えますか」


 樋口はこくりと頷いた。


「考えたくないのに。ふとした時に、あの声が」


「もう一度、行きたくなるんです」


 彼は自分の膝を強く掴んだ。


「行ったら、たぶん、戻れない」


 樋口はそれきり黙り込んだ。


 わたしもしばらく何も言えなかった。


 風が、二人のあいだを通り抜けた。



 三人目のことは、樋口づてに聞いた。


 もう連絡のつかない、先に辞めた男子学生。


 その男が辞める前に、樋口に漏らしたのだという。


「あいつは、好きって言われたって」


 樋口は少し笑った。


 乾いた笑いだった。


「先輩に、好きだって。それで舞い上がって」


 わたしは指を折って数えた。


 泣いていた。


 助けてと言われた。


 好きだと言われた。


 三人が、三人とも違うことを言う。


 服も、髪も、誘いの言葉も、あんなに揃っていたのに。


 肝心の一言だけが、めいめい別なのだ。


 入れ物は同じ。


 中身だけが全員違う。


 わたしは礼を言ってベンチを立った。


 樋口は鞄を抱えたまま動かなかった。


 その背中も、うっすらと色が抜けて見えた。


 保科も、樋口も、同じ色をしていた。


 命はある。


 健康も、たぶんある。


 なのに、これから先だけが、削り取られている。


 人が一人こわれるのに、血の一滴も流れていない。


 (きれいなものですこと)


 わたしは、その静けさに毒づきたくなった。



 自販機で、いちばん安い菓子パンを買った。


 百円玉が、財布から一枚減る。


 それを齧りながら、別のベンチに腰を下ろした。


 甘いだけの、味のしないパンだった。


 それでも、腹の虫は少しだけ収まった。


 冷えた指を、缶コーヒーで温める。


 わたしは咀嚼しながら考えた。


 夕方の風が頬に冷たかった。


 銀杏の葉が、足もとに一枚落ちてきた。


 同じ姿。同じ誘い。


 違うのは、最後の一言だけ。


 演じ手が何人もいる――それは施錠と巡回が否定する。


 噂による暗示――それなら白い服や長い髪は説明できる。


 けれど、泣いていた、助けて、好き、という一言までは配れない。


 伝わったのは、器だけ。


 中身は、入った者ごとに違う。


 誰が、それを知っているのか。


 そこだけが、どうしても見えなかった。


 ふと、守衛の言葉がよぎった。


 教授が、あの部屋だけを気にしている。


 (……関係、あるのかしら)


 わからない。


 今は、それを追う糸もない。


 考えるほど、像は結ばずに散っていった。



 わからないまま、日が暮れた。


 構内の灯りが、一つずつ点っていく。


 学生たちが駅のほうへ流れていった。


 笑い声が遠ざかっていく。


 わたしは四号館の方角を見た。


 二〇四号室の窓だけが、暗く沈んでいる。


 保科の顔が浮かぶ。


 樋口の乾いた笑いが浮かぶ。


 会ったこともない、三人目の「好き」が浮かぶ。


 どれも、真ん中で像を結ばない。


 人の口から聞くだけでは、これ以上は近づけない。


 この目で、あの部屋を視るしかない。


 放っておけば、五人目が出る。


 次の一人が、今夜にも、あの窓を見上げるかもしれない。


 色を、抜かれるために。


 (それだけは、いけませんわ)


 (仕方ありませんわね)


 舌打ちはしなかった。


 覚悟のほうが、先に立っていた。


 空きっ腹も、寝不足も、今夜は理由にならない。


「――一度、自分で入りますわ」


 誰もいない構内に、その声だけが小さく落ちた。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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