第2話「机の位置だけ、違う」
感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。
鍵は、あっけないほど簡単に開いた。
事務室で借りた鍵を、結局わたしは使わなかった。
ドアノブに手をかけると、それだけで扉が動いた。
押した拍子に、内側へすうっと滑っていく。
(施錠されているはずでしたのに)
蝶番は油を差したばかりのように静かだった。
午前の光が、床の埃を白く照らしていた。
空き教室だった。
黒板は消し残しもなく白く霞んでいる。
机と椅子が行儀よく並んでいた。
窓の桟には埃が積もっている。
黒板の下に、折れたチョークが一本だけ落ちていた。
なんの変哲もない、使われていない部屋。
(拍子抜けですこと)
わたしは一歩、足を踏み入れた。
靴の底が床の埃をきゅっと鳴らした。
そこで匂いに気づいた。
埃の下に、別の匂いが沈んでいる。
甘い。
甘くて、少し古い。
花に白粉を混ぜたような匂い。
香水だ。
それも、今どきの学生がつけるものではない。
母親の鏡台にあったような、ひと世代前の香り。
わたしは窓を確かめた。
窓は閉まっていた。
鍵もかかっていた。
風の通らない部屋に、匂いだけが層になって残っている。
(誰もいないのに、匂いだけが居座っている)
鼻の奥にうっすらと絡みついてくる。
どこかで嗅いだことのある匂い。
けれど、思い出せない。
わたしの記憶より、たぶん古い。
母より前の、誰かの匂い。
わたしは息を浅くした。
そして部屋をゆっくり見渡した。
◆
最初に目が留まったのは、机の脚だった。
いや、脚ではない。
脚の下の、床のほうだ。
積もった埃に、いくつもの跡が残っていた。
机を引きずったときにできる、細長い擦り跡。
それが一つの机につき幾重にも重なっている。
一度ではない。
同じ机が何度も動かされた証だ。
わたしは膝を折った。
床に顔を近づける。
跡はでたらめではなかった。
窓際の一席を中心に、放射状に散っている。
まるで、そこに座る誰かを取り囲むように。
その一席だけは跡が動いていなかった。
いつも同じ場所。
わたしはその席に近づいた。
椅子の座面だけ、埃が薄い。
誰かが、いつもそこに座っているかのように。
背もたれに手を触れてみる。
木のはずなのに、ひんやりと冷たかった。
(ここに、いるつもりなのですね)
香水の匂いが、その一角でいちだんと濃くなった。
周りの机だけが、寄せられては、また戻されている。
誰かが夜ごと机を並べ替えている。
同じ景色を、何度も、作り直している。
(これは、再現ですわ)
小さく舌打ちして言い直す。
再現なのだ、と。
誰かが、ある一つの場面を繰り返し組み立てている。
証言のなかの「先輩」が座る席を、真ん中に据えて。
その周りに、見上げる者の席を並べて。
(几帳面な幽霊なんて、やっぱりいませんのに)
わたしは跡の数を指で数えた。
窓際を囲む輪は一重ではなかった。
古い跡の上に、新しい跡が重なっている。
少なくとも十を超えていた。
噂に上った男子学生は四人。
跡はその倍以上ある。
数が合わない。
四人よりも前から、この部屋は組み立てられていた。
もっと昔から。
誰にも気づかれずに。
◆
廊下で守衛と行き合った。
昼の見回りらしく、鍵束を鳴らして歩いてきた。
初老の、人の好さそうな男だった。
「二〇四、視にきはったんか」
守衛はわたしの顔を覚えていた。
「夜は施錠しとるよ。九時にはこの棟、ぜんぶ閉める」
「夜のあいだ、誰かが入った様子は」
「あらへんな」
守衛は鍵束を軽く持ち上げてみせた。
「合鍵は、事務とわしの分だけや」
「巡回は」
「一晩に三度は回っとる。人がおったら灯りで分かる」
夜ごとの芝居という線が、静かに閉じた。
施錠され、鍵は二つきり、巡回は三度。
夜に机を並べ替える者の、入る隙はない。
誰も入れない部屋で、机だけが動いている。
腕の毛が少しだけ逆立った。
「なあ、学生さん」
守衛は声を少しだけ落とした。
「あんまり、深追いせんほうがええで」
「どうしてです」
「教授さんが、あの部屋だけ、えらい気にしてはるみたいでな」
守衛はそれだけ言った。
深い意味はなさそうだった。
ただの世間話の続きのように。
「ほかの部屋は、なんも言わはらへんのに。あの二〇四だけや」
わたしは黙って頷いた。
(あの部屋だけ、ね)
胸のどこかに、その一言を留めておいた。
守衛は鍵束を鳴らして去っていった。
◆
保科悠斗には、その日の夕方に会えた。
退学した四人のうち、まだ町に残っている一人だった。
駅前の喫茶店で、彼は俯いてコーヒーをかき混ぜていた。
二十歳とは思えないほど目に力がなかった。
「あの部屋の話ですか」
保科は抑揚のない声で言った。
「白いワンピースの、先輩でしょう。長い髪の」
わたしは相槌だけ打った。
「座っていきませんか、って。そう言われました」
書き込みと一字一句おなじだった。
台本を読むような口ぶりだった。
決められた台詞を、順番に読んでいるみたいに。
わたしは、少しだけ気味が悪くなった。
わたしは次を待った。
彼はしばらく黙った。
スプーンを意味もなく回している。
氷がからんと鳴った。
それから思い出したように、ぽつりと言った。
「……あの人、泣いてたんですよ」
わたしは顔を上げた。
保科は自分の言葉に自分で驚いた顔をしていた。
「僕にだけ、泣いて見せて。それが、なんだか」
その先を彼は言わなかった。
言葉がどこかで途切れてしまった。
「あれから、変なんです」
保科はコーヒーの水面を見つめていた。
「大学に戻ろうとは、思わなくて」
声はますます平らになっていく。
「友達に会っても、なんとも思わなくて。全部、色が抜けたみたいで」
脅かすような声ではなかった。
ただ静かに乾いていた。
命を奪われた顔ではない。
これから先を、丸ごと抜き取られた顔だった。
わたしはひとつだけ訊いた。
「その先輩に、また会いたいですか」
保科はゆっくり首を振った。
「もう、こわいんです。会いたいのに、こわい」
その矛盾を、彼は持て余していた。
会いたい。
こわい。
二つが、同じ顔の上に並んでいた。
わたしは冷めた紅茶に口をつけなかった。
喉が少しだけ渇いていた。
◆
帰り道は、いつもより長く感じた。
わたしは何度も、その一言を反芻していた。
泣いていた。
スレッドを頭のなかでもう一度たどる。
白いワンピース。
長い黒髪。
座っていきませんか。
――そこまでは、どの書き込みも同じだった。
服の色も、髪の長さも、誘いの言葉も。
判で押したように揃っている。
けれど。
(掲示板には、誰もそんなこと書いていない)
泣いていた、なんて。
誰も、一言も。
みんな同じ姿を見て、同じ台詞を聞いたはずなのに。
保科ひとりだけが、別のものを持ち帰っていた。
共通の型と、めいめいの中身がずれている。
(この、ずれは)
わたしはその先を言葉にできなかった。
まだ何も視えていない。
視えていないのに、背筋だけが冷たかった。
香水の匂いが、鼻の奥にこびりついて離れなかった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




