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京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怖がりな女子大生陰陽師は、怪異より先に人間を調べる~  作者: K3/KASANE
『鏡の教室』ミステリーよりのホラー

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第2話「机の位置だけ、違う」

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 鍵は、あっけないほど簡単に開いた。


 事務室で借りた鍵を、結局わたしは使わなかった。


 ドアノブに手をかけると、それだけで扉が動いた。


 押した拍子に、内側へすうっと滑っていく。


 (施錠されているはずでしたのに)


 蝶番は油を差したばかりのように静かだった。


 午前の光が、床の埃を白く照らしていた。


 空き教室だった。


 黒板は消し残しもなく白く霞んでいる。


 机と椅子が行儀よく並んでいた。


 窓の桟には埃が積もっている。


 黒板の下に、折れたチョークが一本だけ落ちていた。


 なんの変哲もない、使われていない部屋。


 (拍子抜けですこと)


 わたしは一歩、足を踏み入れた。


 靴の底が床の埃をきゅっと鳴らした。


 そこで匂いに気づいた。


 埃の下に、別の匂いが沈んでいる。


 甘い。


 甘くて、少し古い。


 花に白粉を混ぜたような匂い。


 香水だ。


 それも、今どきの学生がつけるものではない。


 母親の鏡台にあったような、ひと世代前の香り。


 わたしは窓を確かめた。


 窓は閉まっていた。


 鍵もかかっていた。


 風の通らない部屋に、匂いだけが層になって残っている。


 (誰もいないのに、匂いだけが居座っている)


 鼻の奥にうっすらと絡みついてくる。


 どこかで嗅いだことのある匂い。


 けれど、思い出せない。


 わたしの記憶より、たぶん古い。


 母より前の、誰かの匂い。


 わたしは息を浅くした。


 そして部屋をゆっくり見渡した。



 最初に目が留まったのは、机の脚だった。


 いや、脚ではない。


 脚の下の、床のほうだ。


 積もった埃に、いくつもの跡が残っていた。


 机を引きずったときにできる、細長い擦り跡。


 それが一つの机につき幾重にも重なっている。


 一度ではない。


 同じ机が何度も動かされた証だ。


 わたしは膝を折った。


 床に顔を近づける。


 跡はでたらめではなかった。


 窓際の一席を中心に、放射状に散っている。


 まるで、そこに座る誰かを取り囲むように。


 その一席だけは跡が動いていなかった。


 いつも同じ場所。


 わたしはその席に近づいた。


 椅子の座面だけ、埃が薄い。


 誰かが、いつもそこに座っているかのように。


 背もたれに手を触れてみる。


 木のはずなのに、ひんやりと冷たかった。


 (ここに、いるつもりなのですね)


 香水の匂いが、その一角でいちだんと濃くなった。


 周りの机だけが、寄せられては、また戻されている。


 誰かが夜ごと机を並べ替えている。


 同じ景色を、何度も、作り直している。


 (これは、再現ですわ)


 小さく舌打ちして言い直す。


 再現なのだ、と。


 誰かが、ある一つの場面を繰り返し組み立てている。


 証言のなかの「先輩」が座る席を、真ん中に据えて。


 その周りに、見上げる者の席を並べて。


 (几帳面な幽霊なんて、やっぱりいませんのに)


 わたしは跡の数を指で数えた。


 窓際を囲む輪は一重ではなかった。


 古い跡の上に、新しい跡が重なっている。


 少なくとも十を超えていた。


 噂に上った男子学生は四人。


 跡はその倍以上ある。


 数が合わない。


 四人よりも前から、この部屋は組み立てられていた。


 もっと昔から。


 誰にも気づかれずに。



 廊下で守衛と行き合った。


 昼の見回りらしく、鍵束を鳴らして歩いてきた。


 初老の、人の好さそうな男だった。


「二〇四、視にきはったんか」


 守衛はわたしの顔を覚えていた。


「夜は施錠しとるよ。九時にはこの棟、ぜんぶ閉める」


「夜のあいだ、誰かが入った様子は」


「あらへんな」


 守衛は鍵束を軽く持ち上げてみせた。


「合鍵は、事務とわしの分だけや」


「巡回は」


「一晩に三度は回っとる。人がおったら灯りで分かる」


 夜ごとの芝居という線が、静かに閉じた。


 施錠され、鍵は二つきり、巡回は三度。


 夜に机を並べ替える者の、入る隙はない。


 誰も入れない部屋で、机だけが動いている。


 腕の毛が少しだけ逆立った。


「なあ、学生さん」


 守衛は声を少しだけ落とした。


「あんまり、深追いせんほうがええで」


「どうしてです」


「教授さんが、あの部屋だけ、えらい気にしてはるみたいでな」


 守衛はそれだけ言った。


 深い意味はなさそうだった。


 ただの世間話の続きのように。


「ほかの部屋は、なんも言わはらへんのに。あの二〇四だけや」


 わたしは黙って頷いた。


 (あの部屋だけ、ね)


 胸のどこかに、その一言を留めておいた。


 守衛は鍵束を鳴らして去っていった。



 保科悠斗には、その日の夕方に会えた。


 退学した四人のうち、まだ町に残っている一人だった。


 駅前の喫茶店で、彼は俯いてコーヒーをかき混ぜていた。


 二十歳とは思えないほど目に力がなかった。


「あの部屋の話ですか」


 保科は抑揚のない声で言った。


「白いワンピースの、先輩でしょう。長い髪の」


 わたしは相槌だけ打った。


「座っていきませんか、って。そう言われました」


 書き込みと一字一句おなじだった。


 台本を読むような口ぶりだった。


 決められた台詞を、順番に読んでいるみたいに。


 わたしは、少しだけ気味が悪くなった。


 わたしは次を待った。


 彼はしばらく黙った。


 スプーンを意味もなく回している。


 氷がからんと鳴った。


 それから思い出したように、ぽつりと言った。


「……あの人、泣いてたんですよ」


 わたしは顔を上げた。


 保科は自分の言葉に自分で驚いた顔をしていた。


「僕にだけ、泣いて見せて。それが、なんだか」


 その先を彼は言わなかった。


 言葉がどこかで途切れてしまった。


「あれから、変なんです」


 保科はコーヒーの水面を見つめていた。


「大学に戻ろうとは、思わなくて」


 声はますます平らになっていく。


「友達に会っても、なんとも思わなくて。全部、色が抜けたみたいで」


 脅かすような声ではなかった。


 ただ静かに乾いていた。


 命を奪われた顔ではない。


 これから先を、丸ごと抜き取られた顔だった。


 わたしはひとつだけ訊いた。


「その先輩に、また会いたいですか」


 保科はゆっくり首を振った。


「もう、こわいんです。会いたいのに、こわい」


 その矛盾を、彼は持て余していた。


 会いたい。


 こわい。


 二つが、同じ顔の上に並んでいた。


 わたしは冷めた紅茶に口をつけなかった。


 喉が少しだけ渇いていた。



 帰り道は、いつもより長く感じた。


 わたしは何度も、その一言を反芻していた。


 泣いていた。


 スレッドを頭のなかでもう一度たどる。


 白いワンピース。


 長い黒髪。


 座っていきませんか。


 ――そこまでは、どの書き込みも同じだった。


 服の色も、髪の長さも、誘いの言葉も。


 判で押したように揃っている。


 けれど。


 (掲示板には、誰もそんなこと書いていない)


 泣いていた、なんて。


 誰も、一言も。


 みんな同じ姿を見て、同じ台詞を聞いたはずなのに。


 保科ひとりだけが、別のものを持ち帰っていた。


 共通の型と、めいめいの中身がずれている。


 (この、ずれは)


 わたしはその先を言葉にできなかった。


 まだ何も視えていない。


 視えていないのに、背筋だけが冷たかった。


 香水の匂いが、鼻の奥にこびりついて離れなかった。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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