第1話「二〇四号室に、先輩がいる」
ミステリーホラー( ゜Д゜)
四号館の二〇四号室に入ると、先輩がいる。
匿名の掲示板に、そう書いてあった。
噂が広まりはじめたのは先月だった。
最初はただの与太話だった。
誰も本気にしていなかった。
一人目が退学するまでは。
深夜のスレッドで、書き込みは静かに伸びていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
二十代前半の、美しいひと。
その先輩は、こちらを見て微笑むのだという。
そして、決まってこう言う。
「座っていきませんか」
(ずいぶん都合のいい先輩ですこと)
どの書き込みも、恐ろしいほど似ていた。
服の色。
髪の長さ。
誘いの言葉。
まるで、一枚の台本を四人で読んだみたいに。
書き込むのは、いつも男子学生だった。
女子の目撃談は、一つもない。
そして翌日、その学生は講義を休む。
数日のうちに、退学届を出す。
スレッドの下のほうに、短い返信がぶら下がっていた。
――また一人、辞めたらしい。
わたしは指先で画面を送った。
時刻は、深夜の二時を回っていた。
明日の一限に出すレポートは、まだ一行も書いていない。
それなのに、こんな噂をさかのぼっている。
(現実逃避ですわね)
わかっている。
それでも、指が止まらなかった。
四人。
同じ順番で、四人が続けて大学から消えていた。
(怪異が四人に、判で押したように同じ台詞を吐く)
(そんな律儀な霊、いませんわ)
小さく舌打ちして、言い直す。
いませんよ、と。
霊というのは、もっと身勝手だ。
生前の未練を、こちらの都合などお構いなしに突きつけてくる。
順番を守って一人ずつ誘うような、行儀のいい死者に、わたしは会ったことがない。
同じ服。
同じ髪。
同じ一言。
四人ぶんの目に、寸分たがわず同じものが映るのなら、それはもう霊ではない。
誰かが、噂を配っている。
同じ服を着せ、同じ言葉を言わせ、男子学生にだけ見せている。
そこに目的があるということだ。
目的のある怪異は、たいてい怪異ではない。
これは、祓う相手ではないのかもしれない。
(ますます、気が進みませんわ)
◆
わたしを呼び出したのは、雨宮誠一という教授だった。
工学系の研究室を構える、六十代。
通された応接室の椅子は、沈むほど柔らかい本革だった。
出された珈琲は、わたしの一月ぶんの食費くらい、いい豆の匂いがした。
珈琲はまだ湯気を立てていた。
わたしは口をつけなかった。
部屋には暖房がよく効いていた。
暖かすぎて、少し眠くなる。
壁には、額に入った賞状が隙間なく並んでいた。
教え子と撮った写真も、何枚もあった。
どの写真の中でも、雨宮は教え子と肩を並べて笑っている。
面倒見のいい先生なのだろう、と思わせる笑顔だった。
「四人も辞めてしまってね」
雨宮は、痛ましそうに眉を寄せた。
「みんな、真面目ないい子たちだったんだ。将来もあった」
言葉はなめらかで、温度がちょうどよかった。
教え子の名を挙げるとき、その声が少しだけ湿った。
「警察の、案件ではないのですか」
「事件性はない、と言われたよ」
雨宮は首を振った。
「誰も怪我をしていない。物も盗まれていない。ただ、辞めた。それだけだ」
それだけ。
その一言が四人の人生を、薄い紙のように畳んでいた。
「学生には、噂など信じるなと言ってある。だが、若い子は面白がるだろう」
「くだらない話のせいで、これ以上あの子たちが振り回されるのは、見ていられなくてね」
あの子たちのために。
その一言には、取り繕った響きがなかった。
「大学としても、これ以上は騒ぎにしたくない。残る学生のためにも」
もっともな言い分だった。
もちろん、声には出さない。
「二〇四号室を、視てもらいたい。おかしな噂の、出どころを断ってくれればいい」
「報酬は」
わたしはまっすぐ訊いた。
もやしと卵で月末をしのぐ暮らしに、遠慮という語彙はない。
「非常勤の、謝金枠から。出せる範囲で、ということになる」
範囲で、ときた。
下手をすれば、食堂の食券で払うと言い出しかねない響きだった。
「……受けます」
渋々、頷いた。
背中を押したのは、正義感ではなく、来月の家賃だった。
◆
研究棟を出ると、日が傾いていた。
空は茜色に染まっていた。
どこかで鴉が鳴いた。
もう十月に入っていた。
構内を、学生たちが連れ立って歩いていく。
友達と、恋人と、これからの予定と。
わたしは一人で、財布の中身を数えながら歩いた。
腹の虫が小さく鳴った。
朝から何も食べていない。
(家賃さえなければ、こんな仕事、受けませんのに)
嘘だ。
たぶん、受ける。
誰もいない部屋に、いるはずのない先輩がいる。
それが作り物なら、作った人間がいる。
放っておけば、五人目が出る。
(結局、そういう質ですのよね、わたしは)
◆
四号館は、大学のいちばん奥にあった。
古い建物で、蔦が外壁を這っている。
あたりはもう薄暗かった。
構内の街灯がひとつ灯った。
窓を端から数えて、二階の四つめ。
あそこが、二〇四号室だろう。
ほかの窓には、蛍光灯が灯っていた。
二〇四号室だけが、暗かった。
カーテンのない窓は、夕暮れをそのまま溜めて、鈍く光っていた。
内側から誰かが見返しているようにも、見えた。
もちろん、誰もいない。
いないはずだ。
(今日は、外から見るだけにしますわ)
入るのは、明日でいい。
空きっ腹で怪異と向き合って、いいことは一つもない。
(それに、寝不足は肌に出ますし)
風が少し冷たくなっていた。
蔦の葉がかさりと揺れた。
自分に言い訳をして、踵を返しかけた。
そこで、足が止まった。
建物の陰に、男が一人、立っていた。
スーツには皺が寄り、鞄は持っていない。
勤め帰りの会社員には、見えなかった。
男は、二〇四号室の窓を、じっと見上げている。
その視線の据え方に、見覚えがあった。
――探している目だ。
「学生さん」
声をかけられて、男が振り向いた。
「熱心やね。こんな時間に、こんな奥まで」
「……近道です」
嘘だった。
この建物に用があると、認めたくなかった。
「この建物で、最近なんか、妙な噂を聞かへんか」
のんびりした声の底に、細い鉤爪が隠れていた。
「仙波、いいます。ちょっとした人探しでね」
人探し。
わたしは黙ってその目を見返した。
「辞めた学生さんの、家族から相談があってな」
仙波は、窓へ視線を戻した。
「息子が、ある日とつぜん、ぜんぶ捨てたと。大学も、将来も、恋人も」
風が吹いて、蔦がかさりと鳴った。
「まるで別人みたいになってしもた、と。母親が、泣いとった」
わたしは応接室の珈琲の匂いを思い出していた。
講義棟の灯が、ひとつ消えた。
人の気配が遠ざかっていく。
あたりは静まりかえっていた。
四号館だけが闇に沈んでいた。
大学は、この件を「処理」したがっている。
家族は、警察に「探して」と泣きついた。
同じ二〇四号室を、二つの手が、逆の向きから掘り起こそうとしている。
空には細い月が出ていた。
二〇四号室の窓はもう暗く沈んでいた。
その暗がりを、四人の男子が見上げたのだ。
そして、戻ってこなかった。
(……面倒なことに、なりましたわね)
今度は、舌打ちをする気力さえ、湧かなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
時間ができた時随時更新します!
ぜひお楽しみに!




