第16話 八月のわたしへ(後編)
「あの子はね」
水野さんは、影に背を向けたまま話しはじめた。
「田舎から出てきたの。親に、ここしかないって言われて。受かったら、家じゅうが泣いて喜んで」
窓際の影が、参考書のページをめくる。
乾いた紙の音が、誰もいない部屋にやけに大きく響いた。
その音は、何年も鳴りやまない誰かの焦りのように聞こえた。
「でも、入ってみたら、まわりはみんな頭がよくて。ついていけなくて。気づいたら、講義にも出なくなってた」
「いまは、どうしているんですか」
「……辞めようと、思ってる。もう、向いてないから」
水野さんは、鞄の持ち手を強く握っていた。
その手の甲に、見覚えのない細かい傷がいくつもある。
爪を立てる癖が、ついてしまったのかもしれない。
「だから、あの子を見るのがいやなの。あんなに本気で信じてた自分を見てると、いまのわたしが、ぜんぶ嘘みたいで」
わたしは、影のほうを見た。
その念には、恨みも責めもなかった。
ただ、ひたむきな一つの願いだけが、何年も前のまま残っている。
学びたい。
ここで、学びたい。
ほんとうに、それだけだった。
「いちばん本気だった自分を笑えるのは、便利ですわ」
言ってから、わたしは小さく舌打ちした。
「……便利です。痛々しい、と片づけてしまえば、向き合わずに済みますから」
水野さんが、息をのんだ。
「でも、あの席のあなたは、あなたを笑っていません。責めてもいません。あの子はまだ、ここで学びたいと思っているだけです。あなたが、忘れたふりをしているだけで」
「……忘れて、なんか」
水野さんの声が、途中で崩れた。
「忘れられるわけ、ないよ。あんなに、なりたかったんだから」
影が、はじめて手を止めた。
ゆっくりと顔を上げて、窓のほうを見る。
西日のなかのその横顔は、いまより少しだけ幼い水野さんだった。
わたしには、ここまでだ。
この念は祓えない。
生きている人の、生きていたころの願いだからだ。
消すのか、もういちど隣に座るのか。
決められるのは、わたしではない。
わたしにできるのは、いるよ、と伝えることだけだ。
あなたが捨てたつもりでいた子は、まだここにいますよ、と。
「あの子を消すことも、たぶん、できます」
わたしは言った。
「でも、消したら、もう戻ってきません。あなたが本気だったという、証拠ごと」
水野さんは、長いあいだ動かなかった。
それから、ゆっくりと影のいる窓際の席へ、一歩近づいていった。
影は、逃げなかった。
顔を上げたまま、近づいてくる自分をじっと見ている。
ずっと、その人が来るのを待っていたように。
わたしは、そこで部屋を出た。
あとのことは、視ないことにした。
あれは、その人と、その人だけの向かい合いだ。
◆
帰りに、わたしは、自分のよく座る席の前で、ふと足を止めた。
一階の、いちばん日当たりの悪い隅の席。
入学したばかりのころ、わたしがいつも座っていた場所だ。
いた。
まだ「ですわ」が抜けきらなくて、まわりの目ばかりうかがっていた、家を出たてのわたし。
ノートの端を、意味もなく、きっちり机に揃えている。
知らない街、知らない大学。
ぜんぶが怖くて、それでも家にいるよりはましだと、そう思っていたころのわたしだ。
あのころのわたしも、毎日、必死だった。
必死の中身が、水野さんと少しだけ違っただけだ。
その子はこちらに気づいて、すこしけげんな顔をした。
無理もない。
その子はまだ、何年か先の自分が、こんな顔で立っているなんて知らないのだから。
わたしは、なんと声をかければいいのかわからなかった。
大丈夫だよ、とも、まだ慣れないでしょう、とも言えない。
この先その子がちゃんとやっていけるのか、わたしにも視えないからだ。
ただ、ひとつだけ、わかることがある。
あの子は、ここにいた。
わたしが置いてきたわけでは、なかった。
いまも、ちゃんとわたしのなかにいる。
なんだ。
わたしの玄関にも、待っているものは、いたんじゃないか。
ずっと、振り返らないようにしてきた。
置いてきたものは、わたしを恨んで待っていると思っていた。
でも、待っていたのは、そういうものではなかったのかもしれない。
◇
外に出ると、夏の夕暮れが、構内を金色に染めていた。
蝉の声が、また戻ってきている。
夏は、もう少しだけ続くらしい。
わたしは自転車にまたがって、空を見上げた。
いつか、わたしも、誰かに視られるのだろうか。
いまのわたしを、何年か先のわたしが、痛々しいと笑うのか。
それとも、まだここにいたね、と言ってくれるのか。
視えなかった。
でも、それでよかった。
寝不足は、肌に出る。
わたしは首をすくめて、ペダルを踏みなおした。
レポートの締切は、まだ過ぎたままだ。
けれど、夏はまだ終わっていない。




