表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都陰陽師・真琴の怪異譚 ~怪異より先に、人の事情が視えてしまう~  作者: K3/KASANE
大学生編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/59

第16話 八月のわたしへ(前編)


 夏休みの大学は、どうしてこう、世界に置いていかれたような顔をするのだろう。


 講義はなく、学生もまばらだ。

 構内には蝉の声だけがあふれている。

 日差しはまだ夏のままで、アスファルトが白く光っていた。


 わたしはその日も、誰もいない図書館に来ていた。

 締切をいくつも過ぎたレポートと、和解するためだ。

 冷房は半分しか効いていない。

 本の背だけが、棚のなかで整然と眠っていた。


 声をかけてきたのは、同じ学部の水野さんという人だった。


 顔は知っている。

 いつも前のほうの席で、まっすぐ背筋を伸ばしていた人だ。

 その人が、ずいぶんやつれて見えた。

 きちんとしていた人ほど、崩れると目立つ。


「あなた、視えるって、ほんとう?」


「噂は、噂です」


 わたしは答えをはぐらかした。

 ただで人助けをするほど、わたしの夏は暇でも裕福でもない。


「お金は……あんまり、ないんだけど」


 その正直さに、わたしは少し笑ってしまった。

 すれているのではない。

 お金がないのは、どうやら、おたがいさまらしい。


「旧館の、自習室なの」


 水野さんは声を落とした。


「夜、誰もいないのに、いちばん奥の席で勉強してる人がいるの。毎晩。ずっと」



 旧館は、来年の春に閉じることが決まっている古い建物だった。


 使う学生が減って、ほとんどの部屋に鍵がかかっている。

 廊下には埃のにおいがこもり、わたしたちの足音だけが妙に響いた。

 二階のいちばん奥の自習室だけが、まだ開いている。


 磨りガラスのドアに、夕日が赤くにじんでいた。

 なかから、かりかり、と鉛筆の音がする。

 誰もいないはずの部屋から。


 ドアを開けると、窓は西を向いていた。

 傾いた光が、机の列の上に長い影を引いている。


 そのいちばん端、窓際の席に、薄い人影が座っていた。


 背中を丸めて、一心にペンを動かしている。

 参考書を開き、付箋を貼り、何度も同じ問題を解きなおしていた。

 消しゴムをかける手が、せかせかと小刻みに動く。


 机の上には、何色もの付箋が、羽根のようにびっしり貼られていた。

 同じ問題集が、もう何冊も積み上がっている。

 一冊やり終えるたびに、また新しいのを買ってきたのだろう。


 誰かに見られているなんて、まるで気づいていない。

 目の前のページだけが世界のすべてだという、そういう背中だった。

 わたしにも、覚えのある背中だ。

 なりたいものがあった人だけが、あんなふうに背を丸める。


 わたしは目を細めて、念の緒をたどった。


 死の匂いはしない。

 この人は、生きている。


 なのに、その念はひどく古かった。

 何年か前の、よく晴れた春のにおいがする。


 緒は、二本あった。


 一本は、その古い影から、いま隣に立つ水野さんへ伸びている。

 もう一本は、水野さんから、その影のほうへ。


 ――同じ人だ。


 過去の水野さんと、いまの水野さんが、ひとつの席の上で向かい合って結ばれている。


 二本の緒は、ぴんと張りつめて、たがいを引っぱり合っていた。

 近づきたいのか、逃げたいのか。

 わたしにも、すぐには読めなかった。


 人の念は、たいてい、誰か別の人へ伸びている。

 自分から自分へ結ばれた緒を視るのは、はじめてだった。


 (……自分が、自分を、視ているんだ)


 顔には出さない。

 けれど内心のわたしは、その細い二本の糸に、胸を掴まれていた。


 人は時々、いちばん遠くへ捨てたいものを、いちばん近くに残してしまう。


「あれは、誰かの幽霊ではありません」


 わたしは言った。


「あなたです。何年か前の、あなた」


 水野さんの顔が、こわばった。


「やめて」


 その声は、ほとんど悲鳴に近かった。


「見たくない。あんな必死な自分、痛々しくて、見てられないの」


 影は、こちらの声など聞こえないように、ただペンを動かし続けている。

 窓の外で、蝉が、ふいに鳴きやんだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ