第16話 八月のわたしへ(前編)
夏休みの大学は、どうしてこう、世界に置いていかれたような顔をするのだろう。
講義はなく、学生もまばらだ。
構内には蝉の声だけがあふれている。
日差しはまだ夏のままで、アスファルトが白く光っていた。
わたしはその日も、誰もいない図書館に来ていた。
締切をいくつも過ぎたレポートと、和解するためだ。
冷房は半分しか効いていない。
本の背だけが、棚のなかで整然と眠っていた。
声をかけてきたのは、同じ学部の水野さんという人だった。
顔は知っている。
いつも前のほうの席で、まっすぐ背筋を伸ばしていた人だ。
その人が、ずいぶんやつれて見えた。
きちんとしていた人ほど、崩れると目立つ。
「あなた、視えるって、ほんとう?」
「噂は、噂です」
わたしは答えをはぐらかした。
ただで人助けをするほど、わたしの夏は暇でも裕福でもない。
「お金は……あんまり、ないんだけど」
その正直さに、わたしは少し笑ってしまった。
すれているのではない。
お金がないのは、どうやら、おたがいさまらしい。
「旧館の、自習室なの」
水野さんは声を落とした。
「夜、誰もいないのに、いちばん奥の席で勉強してる人がいるの。毎晩。ずっと」
◆
旧館は、来年の春に閉じることが決まっている古い建物だった。
使う学生が減って、ほとんどの部屋に鍵がかかっている。
廊下には埃のにおいがこもり、わたしたちの足音だけが妙に響いた。
二階のいちばん奥の自習室だけが、まだ開いている。
磨りガラスのドアに、夕日が赤くにじんでいた。
なかから、かりかり、と鉛筆の音がする。
誰もいないはずの部屋から。
ドアを開けると、窓は西を向いていた。
傾いた光が、机の列の上に長い影を引いている。
そのいちばん端、窓際の席に、薄い人影が座っていた。
背中を丸めて、一心にペンを動かしている。
参考書を開き、付箋を貼り、何度も同じ問題を解きなおしていた。
消しゴムをかける手が、せかせかと小刻みに動く。
机の上には、何色もの付箋が、羽根のようにびっしり貼られていた。
同じ問題集が、もう何冊も積み上がっている。
一冊やり終えるたびに、また新しいのを買ってきたのだろう。
誰かに見られているなんて、まるで気づいていない。
目の前のページだけが世界のすべてだという、そういう背中だった。
わたしにも、覚えのある背中だ。
なりたいものがあった人だけが、あんなふうに背を丸める。
わたしは目を細めて、念の緒をたどった。
死の匂いはしない。
この人は、生きている。
なのに、その念はひどく古かった。
何年か前の、よく晴れた春のにおいがする。
緒は、二本あった。
一本は、その古い影から、いま隣に立つ水野さんへ伸びている。
もう一本は、水野さんから、その影のほうへ。
――同じ人だ。
過去の水野さんと、いまの水野さんが、ひとつの席の上で向かい合って結ばれている。
二本の緒は、ぴんと張りつめて、たがいを引っぱり合っていた。
近づきたいのか、逃げたいのか。
わたしにも、すぐには読めなかった。
人の念は、たいてい、誰か別の人へ伸びている。
自分から自分へ結ばれた緒を視るのは、はじめてだった。
(……自分が、自分を、視ているんだ)
顔には出さない。
けれど内心のわたしは、その細い二本の糸に、胸を掴まれていた。
人は時々、いちばん遠くへ捨てたいものを、いちばん近くに残してしまう。
「あれは、誰かの幽霊ではありません」
わたしは言った。
「あなたです。何年か前の、あなた」
水野さんの顔が、こわばった。
「やめて」
その声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「見たくない。あんな必死な自分、痛々しくて、見てられないの」
影は、こちらの声など聞こえないように、ただペンを動かし続けている。
窓の外で、蝉が、ふいに鳴きやんだ。




