第15話 送り火のあとで(後編)
男は玄関の戸を勝手に開けて、入ってきた。
仕立てのいいスーツに、人の好さそうな笑み。どこにでもいる営業マンみたいな顔だ。差し出された名刺には、当たり障りのない便利屋の屋号と、たぶん本物ではない名前が刷ってあった。
「不動産の整理だの、特殊清掃だの。いろいろと片づける仕事をしてましてね」
「……人も、片づけるんですか」
わたしは平らな声で言った。男は、にこにこと笑った。
「人聞きの悪い。送る、と言ってほしいですね。縁の切れたものを、あるべき場所へ。お代をいただいて」
この男だ。桑原を送ったのは。久野さんに緒を結んだのは。
「地上げ屋さんだの、その筋の方々だの。お得意さんはいろいろでしてね」
男は、勝手に座布団へ腰を下ろした。
「邪魔な人がひとり消えてくれたら助かる。そういう依頼は、世の中に絶えません」
久野さんは、青い顔でうつむいている。
「このおばあさんも、お客さんでしたか」
「ええ。なけなしのお金を握りしめて、いらしてね」
男は、軽く肩をすくめた。
「ご主人をあの桑原に騙されて、亡くされた。気の毒に。私のお客は、たいてい気の毒な人ですよ」
わたしは、久野さんを見た。久野さんは、震える声でぽつりと言った。
「……うちの人は桑原に騙されて、ぜんぶ取られて。それでも、わたしには謝って、笑って逝きました」
久野さんの目から、涙がこぼれた。
「あの人が悪いんじゃない、よくある話だ、って。……でも、わたしは許せなかった」
すっきりした顔の奥にあったものが、いま溢れていた。
「桑原はのうのうと、次のカモを探してた。法律は何もしてくれない。だから、この方に頼んだんです」
◆
わたしは、男のほうへ向き直った。
めったに腹は立てない。怪異には動じないし、人の下心も最初から勘定に入れて生きている。でも、このときは、すこし声が低くなった。
「人ひとりを向こうへ送るお代が。このおばあさんの、残りの何もかも、ですか」
久野さんから向こうへ垂れた、あの緒。あれがお代だ。桑原を送った代わりに、久野さん自身の残りの寿命と、死んだあとの行き先までが、この男に抜き取られていく。
「呪わば穴二つ、と言いますでしょう」
男は、悪びれもせず言った。
「人をひとり向こうへやれば、送ったほうも半分、向こうへ引かれる。昔から決まっている。私は、その運び賃をいただくだけだ」
「便利な、言いようですわね」
舌打ちして、わたしは言い直した。
「……便利な言い分です。手を下したのは頼んだ人。汚れるのも頼んだ人。あなたはお代をもらって、きれいなまま。よくできた商売ですこと」
男は、声を上げて笑った。それから、ふとわたしの顔を覗き込んで、その笑みがすこし変わった。
「……ああ。お嬢さん、あんた」
値踏みするような目が、わたしの奥のほうを見ていた。
「あの拝み屋の。……なるほど。あの人に縁のある子か」
わたしは、答えなかった。
幼い日に、わたしを犬神の里から救い出してくれた人がいる。表からも裏からも敬われて、けれど、どちらにも属さない人。あの人なら、たぶんこう言う。個人が何をしようと勝手だ。自分の領分さえ荒らさなければ、と。
「無粋はしませんよ」
男は、肩をすくめた。
「あの人の縁には、手を出さない。それに、私の仕事はもう済んでいる。お代もいただいた」
男は、立ち上がりかけて、付け加えた。
「このあと、あんたが何をしようと、私の知ったことじゃない。好きになさい」
◆
好きになさい。
その言葉に、わたしは久野さんの緒を、もう一度視た。
桑原を送った緒は、もう向こうで切れている。あれは戻らない。この男の仕事は、雑なまじないとは違う。一度送ったものを引き戻すことは、わたしにはできない。
でも、久野さんから垂れたお代の緒は、まだ切れていなかった。向こうへ引かれながら、ぎりぎり、この世に繋がっている。
「久野さん」
わたしは、できるだけ静かに言った。
「送り火を焚けば、お盆は明けます。明ければ、この緒は向こうで結ばれて、もうほどけません」
「…………」
「でも、今夜まだ燃えているうちなら。あなたが本気で望めば、わたしはこれを断てます」
「断つ、と」
「あなたのお代を返してもらう。残りの寿命も、行き先も、あなたのものに戻す。……ただし」
わたしは、言葉を切った。これは言わなければ噓になる。
「断てば、送りも巻き戻ります。桑原は戻ってきます。また、のうのうと次の誰かを探すでしょう。法律は、やっぱり何もしてくれない」
久野さんが、顔を上げた。
「あなたの地獄を引き受けて、桑原を向こうに留めておくか。あなたが助かる代わりに、桑原をこの世へ戻すか。決めるのは、わたしじゃありません。あなたです」
わたしは、桃木剣の先を、お代の緒にそっと当てた。いつでも断てる。あとは久野さんが、ひとこと望むだけだ。
久野さんは、長いあいだ動かなかった。仏壇の、おじいさんの遺影を見ていた。よくある話だ、と笑って逝った人を。
◆
わたしは、久野さんの答えを聞かずに、その家を出た。
聞いてはいけない気がした。あれは、わたしが立ち会っていい選択ではなかった。
男は、もういなかった。いつ消えたのかも、わからない。来たときと同じだ。
あの男はたぶん、また、どこかの誰かのなけなしの金と引き換えに、誰かを送る。地上げ屋の、その筋の、あるいは久野さんのような、追い詰められた気の毒な人の。
久野さんが緒を断ったのか、断たなかったのか。桑原が戻ってきたのか、来なかったのか。久野さんの残りの日々が、長いのか、短いのか。
視えなかった。
視える目を持っていても、人が自分の地獄をどう選んだかは、いつも靄の向こうだ。
◆
帰り道、お盆のぬるい夜を自転車で抜けながら、わたしは思った。
わたしにも、力はある。あの男ほど器用ではないけれど、憎い相手を向こうへ押しやることくらい、できるのかもしれない。
でも、わたしはしない。送る側にはならない。
送ってしまえば、楽になる。それを、いちばんよく知っているから、しないのだ。
どこかの家から、送り火の細い煙が立ちのぼっていた。ちゃんと迎えて、ちゃんと送る。境目を守っている、誰かの家の煙だ。
寝不足は、肌に出る。わたしは首をすくめて、ペダルを踏みなおした。
レポートの締切は、たぶん、もう過ぎている。




