第15話 送り火のあとで(前編)
お盆の夜は、いつも少しだけ空気がぬるい。
あちらとこちらの境目がゆるむ季節だからだ、と家の者は言っていた。亡くなった人が帰ってくる。だから迎え火を焚き、送り火で送る。よくできた、行き帰りの作法だ。
わたしは、その作法をあまり信じていない。
帰ってくるのも送れるのも、ちゃんと境目を守っている人たちの話だ。世の中には、境目を金でこじ開ける人間がいる。
その電話がかかってきたのは、迎え火の翌晩だった。
「夜分にすまんね。……人が、ひとり、おかしいんや」
先月も小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。
「久野さんいう、独り暮らしのおばあさんでな。ここ十日ほど、人が変わったようにぼんやりしとる。家から線香の匂いが絶えん。……それだけなら、ええんやが」
「それだけじゃ、ない」
「夜中に家の前を通ると、誰かと話しとる声がする。返事のない相手と、な」
「報酬は、出ますの。……出ますよね」
わたしは舌打ちして、念のため二度訊いた。すれているわけではない。今月の家賃が、わたしの預金を冷たい目で見ているだけだ。
「出る出る。民生委員のポケットマネーやけどな」
つまり今回も、表に出せない誰かの私的な困りごと、というわけだ。
◆
久野さんの家は、路地のいちばん奥にあった。
古い平屋だ。玄関の脇で、迎え火の燃えかすが皿の上で白くなっている。盆提灯の淡い灯りが、すりガラスの向こうで揺れていた。
出てきた久野さんは、痩せた小さな人だった。
憔悴しているのは、すぐにわかった。けれど、その目の奥に妙に凪いだものがある。やり遂げた人の顔だと思った。重たいものを下ろしてしまった人の顔だ。
「陰陽師さん、ですか。……こんなばあさんの家に、すみませんねえ」
通された仏間に、真新しい位牌があった。
まだ四十九日も明けていない。遺影の人は、人の好さそうな、笑った顔のおじいさんだった。
わたしは手袋を嵌めて、仏壇の線香の煙をしばらく見ていた。
ここには、ふつうの死者の匂いがある。錆びた水の匂いだ。亡くなったおじいさんの念は、穏やかに家へ馴染んでいる。これは、こわくない。
こわいのは、久野さん、あなたのほうだ。
(……これは)
久野さんの痩せた肩のあたりに、薄く死の匂いがまとわりついていた。
生きている人から死の匂いがする。それだけなら、前にも視たことがある。もう自分は終わったと思い込んでいる人の匂いだ。
でも、これは違った。
久野さんは、終わったと思い込んでいるのではない。その体から一本の緒が伸びて、どこにも繋がらないまま、ただ向こう側へ垂れている。
誰かが結んだ緒だ。本人ではない誰かの手で結ばれて、向こうへ引かれていく途中の緒。
わたしは、息を呑んだ。
◆
もう一本、緒があった。
仏間の隅。誰も座っていない座布団のあたりから、赤い細い緒が伸びている。その先は家の外へ出て、ぷつりと、向こう側で断ち切られていた。
「久野さん。ここに、もうひとりいましたね。……男の人が」
久野さんの肩が、揺れた。
「……お向かいの、桑原さん、ですか」
桑原。
その名前は、刑事さんから聞いていた。この界隈で投資の話をばらまき、何人もの年寄りから金を巻き上げた男。法には触れなかった。証拠が足りなかった。十日ほど前から、ふいに姿を消している。
わたしは、その赤い緒に指先を寄せた。念が、まったく昇ってこない。
おかしい。人が長く過ごした場所には、かならず念が残る。怒りでも未練でも、なんでもいい。なのに、ここには何もない。きれいに拭き取られている。最初から誰もいなかったみたいに。
自然な失踪では、こうはならない。素人のまじないでも、こうはならない。
(――これは、片づけ慣れた手の仕事ですわ)
そう思った、ちょうどそのときだった。
玄関のすりガラスの向こうに、人影が立った。盆提灯の灯りを背にして。
いつから、そこにいたのか。わたしは視ることに慣れている。なのに、この男がいつ来たのか、まるで気づかなかった。
「やあ」
影が、のんびりと言った。
「ご同業……でも、ないか。陰陽師の、お嬢さんだ」




