第14話 録音の余白(後編)
その夜、わたしは一人で第三練習室に戻った。
録音をもう一度再生する。
消えた音の隙間で、息が鳴っている。
すう。
はあ。
昼より近い。
わたしのすぐ後ろで。
振り返る。
誰もいない。
背中に、息だけが張りついていた。
再生を続ける。
最初に、録音機の駆動音が消えた。
次に、蛍光灯の鳴き。
袖が机をこする音。
唾を飲む音。
胸の奥で鳴っていたはずの鼓動。
一つずつ、近いところからなくなっていく。
静かなのではない。
音があった場所だけ、穴になっていた。
耳を塞いだ。
指が耳へ触れる音まで、しなかった。
それでも、あの息だけは聞こえる。
すう。
はあ。
もう、背後ではなかった。
わたしの口の中から聞こえた。
もう一度、録音に耳を寄せた。
その息が言葉になった。
(まだ、ちいさい?)
……何が、と聞き返しそうになってやめた。
念に、うかつに返事をしてはいけない。
(落ち着け、わたし)
喉の奥がひやりとしていた。
録音機の時間表示は、まだ進んでいる。
残り、三十七秒。
何の残り時間かは、表示されていなかった。
三十六。
三十五。
録音にはなかった数字だ。
停止ボタンを押す。
止まらない。
電池を抜いた。
表示だけが、暗闇の中で減り続けた。
◇
最初、わたしはこの念の望みを読み違えた。
自分を消した相手への恨み。
全部の音を消してやる、という復讐。
そう思って緒を辿った。
念の緒は人ではなく、録音そのものに結ばれていた。
再生するたびに緒が一本ずつ切れていく。
切れた跡に、あの息が残る。
わたしは、消えていく順番を数え直した。
いちばん小さい音から。
絞られる側の、音から。
――守る順番だ。
(違う。恨みじゃない)
念は周りの音を小さいものから消していた。
最後に、一つの声だけを残そうとして。
いま、いちばん絞られはじめている声。
宮前あかりさんの声を。
残り一秒で、表示は止まった。
その瞬間、廊下の向こうから歌声が聞こえた。
宮前さんの声だった。
一音だけ。
その後ろで、何十人もの口が同時に息を吸った。
歌声を包むためではない。
次に何を消せば、その声だけになるのか。
確かめる息だった。
◇
四辻詩織のことを、香川さんはよく覚えていた。
「上手い子だった」
人のいない練習室で、香川さんは言った。
「上手すぎた、と言ったほうがいいかな」
四年前、香川さんは学生指揮者だった。
詩織さんはアルト。
声がよく通って、合唱の中で一人だけ浮いて聞こえた。
「浮くんだ。どうしても」
香川さんの声は、責める調子ではなかった。
むしろ優しかった。
「だから、本番のたびに立ち位置を少し後ろにした。マイクの前から外した。ソロは別の子に回した。録音でも、あの子の声だけ少し下げた」
叱ったわけではない、と香川さんは言った。
やめさせたわけでも、責めたわけでもない。
(それが、いちばん怖い)
折られたなら、痛みが残る。
音だけ絞られた人には、その痛みにすら、証拠が残らない。
「和のためだ。あの子のためでもあった。突き出たままだったら、あの子はきっといづらくなっていた」
わたしは戸倉さんのノートパソコンを見た。
音源の編集ログ。
四年前から同じ手つきで、一人の声だけを下げる作業が引き継がれていた。
いまは戸倉さんが引き継いでいる。
「僕は」
戸倉さんが小さく言った。
「そういう作業だと、思ってました。浮いた声を、下げる。前の代から、そうやってたので」
◇
宮前さんは、まだ気づいていなかった。
自分の立ち位置が少しずつ後ろになっていること。
ソロがいつのまにか別の子に回っていること。
録音の中で、自分の声だけがほんの少し下げられはじめていること。
四年前と同じ手つきで。
確認のため、宮前さんに一音だけ歌ってもらった。
胸がふくらむ。
喉が震える。
口が開く。
何も聞こえなかった。
宮前さんは、歌い終えた顔でわたしたちを見た。
自分にだけは、聞こえている。
机の録音機では、音量計が端まで振り切れていた。
再生する。
宮前さんの声だけが、耳を塞ぎたくなるほど大きく流れた。
ピアノも、椅子も、わたしたちの呼吸もない。
その声を囲んで、数えきれない口が息を吸っていた。
念はそれを見ていた。
だから音を消していた。
あかりさんの声だけが最後まで残るように。
消していたのではない。
守ろうとして、消音を起こしていた。
優しさが、ずれた形で漏れていた。
(あなたは、あの子に同じことをさせたくなかったんですね)
録音の隙間で、息が一度だけ大きくなった。
すう。
はあ。
それから、ちいさな声で聞こえた。
(まだ、ちいさい?)
あかりさんの声が、まだ絞られているか。
それだけを確かめていた。
◇
わたしは香川さんに、三つのものを並べた。
本番の立ち位置表。
四年前と今年の、マイク配置の変更履歴。
音源の音量編集ログ。
どれも同じことを示していた。
「あなたは、折ってはいません」
わたしは言った。
「叱りもしなかった。やめさせもしなかった。ただ、音だけを小さくし続けた」
わたしは、立ち位置表を一枚ずつめくった。
「四年前の春。夏。秋。冬。あの人の名前は、少しずつ後ろへ動いています。誰も退部させていない。ただ、いなくなるまで音を絞った」
香川さんがこちらを見た。
「それは――いないことにする、といいます」
便利ですわ、と続けそうになって、舌打ちして飲み込んだ。
毒は一刺しでいい。
「和のため、と言えば、誰も傷つけていないように見えます。突き出た杭を折らずに、音だけ絞る。そのほうがきれいだ。血が出ない」
香川さんは何も言わなかった。
わたしは今年の立ち位置表を、香川さんの前に置いた。
宮前あかりさんの名前が書かれている。
「いま、あかりさんの音を、どうしますか」
◇
わたしは決めなかった。
決めるのは香川さんと戸倉さんだ。
「後始末まで、わたしにさせないでください」
香川さんは、長いあいだ立ち位置表を見ていた。
やがて戸倉さんに小さく言った。
「……あの子のマイクを、前に戻してくれ」
香川さんは、一度言葉を切った。
「四辻の音源も、下げる前のものへ戻す。次の演奏会で流そう。俺が、何をしたのかも話す」
「一人の声だけを下げるやり方は、今日で終わりにしてくれ」
言わされた言葉ではなかった。
少なくとも、わたしにはそう聞こえた。
◇
護符は、祓う道具ではない。
休ませる道具だ。
わたしは、詩織さんの息が残る音源を最後まで再生しなかった。
再生しきると緒が全部切れる。
あの息ごと消えてしまう。
それは納めることにはならない。
消してしまうだけだ。
わたしは、音源のいちばん静かなところで再生を止めた。
曲と曲のあいだ。
誰も歌っていない、数秒の空白。
休符に落とすように。
(もう、あなたが手繰らなくていいです)
息はそれきり聞こえなくなった。
消えていた音が、部屋に少しずつ戻ってきた。
ピアノの余韻。
換気扇。
後列のアルト。
自分の呼吸。
鼓動。
戻っていない音がないか、順に確かめた。
全部、戻っていた。
そう思った直後、録音機がひとりでに再生された。
電池は、机の上に置いたままだった。
音源の最後。
わたしが止めたはずの、数秒の余白。
そこに、知らない音が増えていた。
わたしの声だった。
ひどく遠くから、同じ言葉を繰り返している。
(もう、あなたが手繰らなくていいです)
その後ろで、詩織さんの息が答えた。
(まだ、ちいさい)
疑問ではなかった。
◇
あかりさんの声が、これから絞られずにすむのかはわからない。
香川さんが本当に手を止めるのかも。
戸倉さんが、前の代からの手つきをやめられるのかも。
わたしには、そこまで視えない。
詩織さんが、いないことにされていた四年間。
いまさら誰が謝っても、もう届かない。
名簿には、いた、と書いてある。
それだけだ。
彼女が歌をやめたのは、諦めだったのか。
逃げだったのか。
それとも、ただ疲れただけだったのか。
それも視えないままだった。
わたしは視える目で、いちばん見えないものをまた一つ増やして、練習室を出た。
◇
報酬の定期演奏会のチケットは、金にはならなかった。
打ち上げの残り物は、まだ先の話だ。
もやしの冷蔵庫は、もやしのままだ。
自転車をこぎながら、明日締切のレポートを思い出した。
(……寝る時間が、ない)
夜の道に、自分のペダルの音だけが小さく鳴っていた。
いちばん小さいその音は、ちゃんと聞こえていた。
視えても、視えなくても。
女は視えればそれでいい、と誰かは言う。
(うるさい)
わたしはもう一度、ペダルを踏んだ。
きい、と鳴った。
もう一度。
きい。
止めた。
音も止まった。
そこから三つ数えた。
一。
二。
三。
背後で、わたしの自転車と同じ音が鳴った。
きい。
振り返らなかった。
もう一度、鳴る。
今度は、すぐ後ろで。
きい。
いちばん小さい音から、ついてきていた。




