第14話 録音の余白(前編)
第三練習室は、音が一つ足りなかった。
夜の十時。
蛍光灯は半分だけ点いている。
点いていない側の椅子は、藍色に沈んでいた。
人の熱が抜けた部屋は、廊下より冷たい。
防音の壁が、外の音を全部食べている。
わたしは無人の部屋に立っていた。
小型の録音機を再生する。
ピアノ。
居残りのアルト。
換気扇。
どれも録音には入っている。
なのに、いまこの部屋で聞くと一つだけない。
いちばん弱く踏んだ、ペダルの余韻だけが。
鍵盤はたしかに鳴っていた。
ついさっき、わたしが一音押してみた。
指の下で弦が震えた。
感触はある。
それなのに音だけが落ちていない。
部屋のどこにも。
(……気持ちが悪い)
腕に、鳥肌が立った。
もう一度、耳をすませる。
機械の低いうなり。
蛍光灯の、じりっとした鳴き。
小さい音はちゃんと聞こえる。
消えているのはピアノの余韻ひとつ。
いちばん小さいものから、一つだけ。
試しに、手を叩いてみた。
ぱん、と鳴った。
大きい音は、まだ無事だ。
もう一度、叩いた。
今度は、手のひらに痛みだけが残った。
音がしない。
一度目より、強く叩いたのに。
録音機の表示を見る。
波形は、大きく跳ねていた。
録れている。
わたしの耳にだけ、届いていない。
そのとき、耳のすぐ後ろで、誰かが息を吸った。
すう。
振り返る。
誰もいなかった。
減っていくのは、いつも、いちばん下から。
◇
話が来たのは三日前だった。
洛都大学には妙な噂がある。
視えるだの、祓えるだの。
そういう話にやたら詳しい一年生がいる、と。
わたしのことだ。
できれば広めないでほしい。
その噂を頼って、混声合唱団の団長がわたしを訪ねてきた。
戸倉さん。
三年生で、団の録音と音源を管理しているという。
「怪異に詳しいって、聞いて。……こんな話、笑わずに聞いてくれる人が、ほかにいなくて」
声を落として、そう言った。
「練習室で、音が消えるんです」
わたしは鞄の持ち手を握り直した。
「報酬は」
尋ねると、戸倉さんは困った顔をした。
「団のお金は、ほとんどなくて。定期演奏会のチケットと……打ち上げの残り物くらいしか」
……お金ではない。
今月の口座残高を思い出す。
もやししか入っていない冷蔵庫。
督促のはがき。
順番に浮かんだ。
「受けます」
すれているわけではない。
背に腹はかえられないだけだ。
◇
第三練習室に、団の三人が集まっていた。
依頼人の戸倉さん。
それから、卒業生の香川さん。
「音が消えるって、部員が言い出したのは先月です」
戸倉さんがノートパソコンを開いた。
「僕は最初、機材のせいだと思ってました。古い録音機のノイズ処理が、たまに誤作動する。それで、弱い音を消してしまうことがある」
香川さんは、卒業して数年になるらしい。
それでも練習に顔を出しつづけている。
「洛声会の音はね、一人が目立つ音じゃないんだ」
頼まれてもいないのに、そう切り出した。
「全体で溶ける音。誰か一人が突き出したら、それはもう合唱じゃない。僕はずっと、そう教わってきた」
香川さんは、少し笑った。
「出過ぎた音は、周りを不安にさせる。本人だって、いつか苦しくなる。だから早めに、そろえてやる。それが優しさなんだ」
まっすぐな目だった。
迷いがない。
(迷いのない人ほど、たちが悪い)
わたしは心の中でだけ舌打ちをした。
三人目は一年生の宮前あかりさん。
紹介されて、小さく頭を下げた。
声のよく通る子だ、と戸倉さんが言った。
言ったあとで、なぜか香川さんのほうをちらりと見た。
その視線の意味を、わたしはまだ知らなかった。
宮前さんが、譜面を床へ落とした。
紙は目の前で散らばった。
音はしなかった。
彼女は気づかず、こちらを見ている。
聞こえなかったのは、わたしだけらしい。
拾おうと屈んだ宮前さんの背後に、もう一人ぶんの影が重なった。
口だけが、歌う前の形に開いていた。
瞬きをすると、消えた。
◇
戸倉さんに、録音を何本か再生してもらう。
先月のもの。
半年前のもの。
去年の定期演奏会のもの。
新しいものほど、部屋で聞くと欠ける音が多かった。
先月の録音。
ピアノの余韻。
換気扇。
後列のアルトの一人の声。
その三つが部屋から消えていた。
去年の音源では、消えるのはピアノの余韻ひとつだけ。
半年前は、それに換気扇が加わる。
先月は、さらにアルトの声。
新しくなるほど、部屋から音が減っていく。
録音の中では全部鳴っている。
耳にだけ届かない。
消える順番には規則があった。
いちばん小さい音から。
次に、その次に小さい音。
わたしは性分で、音の大小に敏感なほうだ。
消えた順に、小さいものからきれいに並んでいた。
「機材のせいなら」
わたしは言った。
「消えるのは、その録音の中だけのはずです。どうして、部屋に立っているわたしの耳から生の音が消えるんでしょう」
戸倉さんが黙った。
香川さんは腕を組んだまま答えなかった。
◇
一つだけ、機材でも人手でも説明できないことがあった。
消えた音の、すぐ後ろ。
録音を大きくして聞く。
そこに別の音が入っている。
歌っていない、息だけ。
すう。
はあ。
誰かが、消えた音の隙間で呼吸をしている。
規則正しい息だった。
歌う前に、そっと吸う息。
消えた音のぶんだけ、それが繰り返されていた。
戸倉さんが再生を止めた。
画面の時間表示が止まる。
それでも、息は止まらなかった。
すう。
はあ。
録音機ではない。
部屋の四隅から、一人ずつ順番に呼吸している。
四つ。
五つ。
六つ。
部屋にいる人数を越えた。
「これは、部員の誰かの息では」
尋ねると、戸倉さんは首を振った。
「声紋を、部員全員と照合しました。誰とも一致しません」
一致しない。
いまの、誰とも。
わたしは録音の日付をさかのぼった。
四年前の音源に、同じ息が入っていた。
当時の名簿を出してもらう。
一人だけ、いまはもういない名前があった。
四辻詩織。
四年前に卒業して、二年前に病気で亡くなっている。
もう、歌えない人だ。
録音の息には、かすかに死の匂いがまじっていた。
その人の当時の録音に残った息。
隙間の呼吸。
二つは同じだった。
人の手では、小さい音から順に、死んだ人の息を差し込めない。
(消しているのは、いま生きている人ではない)
わたしは録音を止めた。
部屋は静かだった。
いちばん小さい音が、また一つ消えていた。
自分の呼吸だった。
胸は動いている。
喉へ空気も通っている。
なのに、吸う音も、吐く音もない。
代わりに、耳元で別の呼吸が続いていた。
すう。
はあ。
わたしと同じ速さで。
息を止めた。
向こうも止まった。
十秒、待った。
肺が痛くなり、耐えきれずに息を吸う。
その半拍前に、耳元の誰かが吸った。
すう。
次にわたしが何をするのか、知っているように。




