第13話 最後の住人(後編)
その人は、いつのまにか立っていた。
更地の真ん中に、黒っぽいスーツを着て。
足音も気配もなかった。
わたしは視ることには慣れている。
なのに、この人がいつそこに来たのかまったくわからなかった。
「……御厨」
名前が勝手に口から出た。
家の者が、声をひそめて口にする名。
写真を焼こうとした、と聞いた特級。
わたしは身構えた。
(――この人は、置いていかれたものを、もう一度捨てる人だ)
御厨はわたしを見た。
値踏みするでも、嗤うでもない。
ただ、見た。
「大津の娘か」
低い、乾いた声だった。
「こんな時間に、こんな場所で。……大学は」
「は」
「明日も、講義があるだろう」
わたしは言葉に詰まった。
てっきり、能力のことを訊かれると思っていた。
なのに、この人が気にしたのは、わたしの明日の時間割だった。
◆
御厨は、地面にちらりと目をやった。
「気づいているな。その爺さんが、蓋だ」
「……ええ」
わたしはすこし悔しかった。
自分で気づいたことを、先に言われた。
(――でも、この人も、同じものを視ている)
「飢饉の年の、捨て場だ」と御厨は言った。
「弔う余裕もなく、運ばれてきた者たち。何百年ぶんも、重なっている。……その上に、最後の一人が座って、蓋をしていた。本人も知らずに」
「再開発で、掘った。蓋の主が、死んだ。このままだと、町ひとつ分の地面から、いっせいに溢れる」
町ひとつ分。
わたしは、その規模をうまく想像できなかった。
わたしが視てきたのは、いつもひとりだった。
でも、この人が視ているのは土地そのものだ。
◆
御厨は懐から、白い紙の束を出した。
わたしの式札と似ているようで、違う。
もっと、無機質だった。
「何を、なさるんですか」
「還元する」
「……成仏、ではなく」
「成仏という言葉は、使わない」
御厨は紙を一枚、地面に置いた。
「執着がほどければ、個は消える。情報になって、循環に還る。土に。水に。次の、生まれてくるものに」
「情報」
わたしは、その言葉をつい繰り返していた。
「何百年も、ここで待っていた人たちを。……情報、ですか」
「そうだ」
「便利な言い方ですわね」
口が勝手に動いた。
毒だ。
気を抜くと出る、わたしの悪い癖。
「ひとまとめにして、ほどいて、循環とやらに流して。それで、誰にも悪く思われずに済む。……『情報』なら、泣きませんものね」
御厨はわたしを見た。
怒りも呆れも、なかった。
「便利だから、使う」
ただ、それだけ言った。
◆
御厨が地面に手をかざすと、白い紙が土の上でひとりでに伸び、格子のように広がっていった。
「抑える。だが、その爺さんが蓋をしているうちは、土地が動かない。……動かなければ、還元もできない」
「蓋を、外せと」
「お前の領分だ。わたしは、その爺さん一人を、ほどく気はない」
わたしは息を呑んだ。
桐山さんを納める。
それは、わたしの仕事だ。
でも、納めた瞬間、蓋が外れる。
外れたものを、この人がほどく。
――わたしが、引き金を引くことになる。
「わたしが納めたら、あの人たちは、消えるんですよ」
「お前が納めなくても、蓋は、じき外れる。そのときは、抑える者がいない」
御厨の声は、淡々としていた。
「お前が、その爺さんを、ちゃんと送る。わたしが、下を受け止める。……それが、いちばん、こぼれない」
役割分担、というやつだ。
わたしはすこし唇を噛んだ。
この人のやり方は、好きになれない。
でも、いまは、この人の手がいる。
◆
わたしは引き戸に、もう一度、手を当てた。
桐山さんは、まだ下を見ていた。
湯呑みを持って、足元の底を。
二十年。
誰にも知られず、気づかれず、ただ座って、押さえていた人。
「もう、いいんですよ」
わたしは、言った。
「あなたは、じゅうぶん、見張りました。……あとは、ちゃんと見られる人が、来ています。だから、もう、立ってください」
桐山さんの視線が、はじめて下から上がった。
湯呑みを持った手が、ゆっくりと畳に置かれる。
錆びた水の匂いが、すうっと薄れた。
立ち退き、というのは、こういうことだったのかもしれない。
この人は二十年かけて、やっと、ここを出ていく。
満足したのか、安心したのかは、わからない。
わたしには、そこまでは視えない。
◆
桐山さんがほどけた瞬間、足の下がぐらりと動いた。
蓋が、外れた。
地面の底から、声にならないものが、いっせいにせり上がってくる。
(――ひっ。来ますわ。来ます)
でも、せり上がったものは地表に届かなかった。
御厨の広げた白い格子が、それをしずかに受け止めていた。
暴れもせず、叫びもせず。
ただ、ほどけて、紙の目を通り抜けて、土へ、水へ、夜気へと、薄れていく。
何百年ぶんもの誰かが、いま、消えていく。
悲鳴ひとつ、なかった。
それが、いちばん、こわかった。
◆
地面のざわめきがやんだ。
御厨は紙を仕舞った。
町は、何も知らずに眠っている。
誰も、足の下に何があったか知らないままで。
「終わった。帰れ」
御厨は、背を向けた。
「……あなたは」
わたしは訊かずにいられなかった。
「あの人たちを、覚えていてあげないんですか。ほどいて、消して、それで、おしまいですか」
御厨は足を止めた。
振り返らずに、言った。
「覚えているのが、お前たちの仕事だ。ほどくのが、わたしの仕事だ」
そして、すこしだけ声を落とした。
「――だから、大学は、辞めるな」
「は」
「国家には、術師は足りている。……普通の大学生は、足りない」
わたしは、その背中を見送った。
◆
夜の道を、ママチャリで下りながら、わたしは考えた。
わたしは、あの人をこわい人だと思っていた。
置いていかれたものを、もう一度捨てる人だと。
たぶん、半分は当たっている。
あの人は、ほどく。消す。覚えない。
でも、半分は外していた。
あの人は、わたしに明日の時間割を訊いた。
そして、覚えているのは、わたしの仕事だと言った。
坂の途中で、わたしは漕ぐのをやめた。
風が、頬を撫でていく。
桐山さん。
飢饉の、名前も知らない人たち。
わたしは、その全部を覚えていられるだろうか。
……たぶん、無理だ。
それでも、忘れない人間が、ひとりくらい、いてもいい。
ちがう、はずだ、なんて、もう思わなかった。
ただ、ペダルを、踏みなおした。




