第13話 最後の住人(前編)
その電話は、夜中にかかってきた。
わたしはちょうど、二つ目のもやしの袋と睨み合っていたところだった。
月末は、いつもこうだ。冷蔵庫の中身と財布の中身が、競うように心細くなる。
画面に出たのは、登録していない番号。
けれど、声でわかった。先月も小銭仕事を回してきた、私服の刑事さんだ。
「夜分にすまんね。……明日、ちょっと、来てもらえへんやろか」
時計は、午前二時を回っていた。
(――こんな時間に電話してくる大人を、わたしは信用しないことにしているんですのよ)
舌打ちして、心の中で言い直す。信用しないことにしている、だ。
いつもなら、この人はまず報酬の話をする。出るのか、いくらか、現金か。
なのに今夜は、その順番をすっ飛ばして、用件から切り出してきた。
声が、すこし掠れている。
「取り壊しの現場でな。業者が、もう、誰も入りたがらへん」
◆
次の日の夕方、わたしはママチャリで町の外れまで行った。
立ち漕ぎで坂をひとつ越えると、住宅地がだんだん途切れて、空き地が増えてくる。
そこは、更地になりかけた一画だった。
工事用のフェンスが、ぐるりと張られている。
古い長屋が一棟だけ、半分壊された姿で残っていた。
まわりはもう土がならされて、平らになっている。
夕陽のなかで、その一棟だけが、抜きそびれた乳歯のように見えた。
重機が一台、爪を地面につけたまま、途中で止まっている。
誰かが作業を投げ出して、そのまま帰ったみたいに。
刑事さんは、フェンスの隅で煙草を消した。
「最後まで住んではった爺さんが、先月、亡くなってな。桐山さん、いう人や」
「立ち退きを、拒んでいた」
「よう知ってるな」
「家が、そう言っています」
刑事さんは、なんとも言えない顔をした。
わたしのこういう物言いに、この人はまだ慣れない。
半分だけ残った長屋は、壊された側の壁から、畳と柱の断面を晒していた。
断ち切られた部屋は、もう部屋の形をしていない。
なのに、玄関の引き戸だけが、妙にきちんと閉まっている。
誰かが、まだ、そこで暮らしているみたいに。
◆
日が落ちると、現場は急に静かになった。
重機が止まり、人の声が消えると、土の匂いだけが濃くなる。
掘り返されたばかりの、湿った土の匂いだ。
わたしは、懐中電灯をつけなかった。
視るのに、明かりは邪魔になる。
引き戸の前に立つと、足の裏が、つめたくなった。
(――地面が、湿っていますわね。雨も、降っていないのに)
気のせいだと思いたかった。けれど、靴底を通して、冷たさはじわりと昇ってくる。
わたしは手袋を嵌めて、引き戸に触れた。
――ぞわり。
桐山さんの念は、すぐにわかった。
錆びた水の匂いが、かすかにある。亡くなった人の念だ。
でも、それはこわいものではなかった。
ただ、座っている。
古びた湯呑みを持って、じっと、何かを見ている。
わたしは、その視線をたどった。
てっきり、外を――壊されていく町を、見ているのだと思った。
違った。
桐山さんは、下を見ていた。
畳の、もっと下。
地面の、底を。
(――なぜ、足元を)
◆
わたしは引き戸から手を離さずに、桐山さんの念を、もう少し読んだ。
二十年。
いや、もっと長い。この人は、ずっとここに座っていた。
立ち退けと言われても、動かなかった。
近所の人は、頑固な爺さんだと思っていただろう。
本人も、たぶん、そう思っていた。
でも、念のいちばん底に、言葉にならない一本が通っていた。
――ここを、空けては、いけない。
理由は、本人にもわからない。
ただ、座っていなければならない気がして、座り続けた。
湯呑みを持って、足元を見張りながら、二十年。
わたしは、ゆっくりと息を吐いた。
(――この人は、ただの、居座りじゃありませんわ)
そして、足の裏の冷たさの、ほんとうの意味に気づいた。
◆
念は、引き戸から、わたしの手に昇ってくる。
でも、足の裏から昇ってくるものは、別だった。
地面の下。
土の、もっと下。
桐山さんとは比べものにならない大きなものが、そこに横たわっていた。
ひとつではない。
数えられない。
声にならない声が、層になって、地面の底にぎっしりと折り重なっている。
そして、その上に、たった一人。
桐山さんが、蓋のように座っていた。
(――この人が、ずっと、押さえていた)
最後の住人。
最後の、蓋。
その人が、先月、死んだ。
長屋が壊され、畳が剥がされ、蓋が、いま、ずれかけている。
業者が入りたがらなかったのは、これだ。
理屈はわからなくても、人は、足の下の気配に気づく。
わたしは、引き戸から手を離した。
「……刑事さん。この爺さん、いま、納めたら――」
言いかけて、わたしは口をつぐんだ。
背すじに、嫌な予感が昇ってくる。
桐山さんを納めれば。
この人の未練をほどいて、楽にしてあげれば。
――最後の蓋が、外れる。
桐山さんひとりなら、わたしで足りる。
でも、この人を納めた瞬間に起きることは、たぶん、わたしの手に余る。
はじめて、はっきりと、そう思った。




