第12話 最後のプール(後編)
「強い学校でね」
戸田さんがぽつりぽつりと話しはじめた。
「県でいちばんだった年もある。卒業したやつらは、いろんな土地へ散っていきました。東京や九州、外国へ行ったのもおる。けど、どいつもこいつも、ここで泳いだ顔ですわ」
わたしは夜空を見上げた。
一本に束ねられた緒が、そこから四方へ枝分かれしていく。
なるほど、と腑に落ちた。
「この人たちは、亡くなった方ではありません」
わたしが言うと、戸田さんが顔を上げた。
「みんな、生きています。日本じゅうに散らばって、それぞれの暮らしのなかにいる。死の匂いが、しませんから」
「ほな、これは、なんなんです」
「『最後にもう一度、あのプールで泳ぎたい』。たぶん、そういう願いです」
わたしは、いちばん遠くまで伸びた緒を指でなぞるように示した。
「取り壊しの報せが、どこかで耳に入ったんでしょう。本人はとっくに忘れたつもりでいるかもしれない。それでも、心のいちばん深いところがそう思って、その思いだけが、こうして帰ってきている」
無意識の生霊の群れだ。
それが夜空で一本に束ねられ、また全国へ散らばっていく。
「祓う必要は、ありません。このプールが無くなれば、寄る辺をなくして、みんな、ひとりでにほどけます」
戸田さんは、ほっとしたような寂しいような顔をした。
日本じゅうに散った何十人もの大人が、今夜どこかで眠りながら、この古いプールに帰ってきている。
そう思うと、わたしは、なぜだか少しだけ泣きそうになった。
わたしはそれを言いながら、少しだけ視線を止めていた。
束のなかに、ほかと違う緒が一本だけあった。
ほんのりと死の匂いがする。
しかもその緒は、どこにも繋がっていない。
途中でぷつりと切れていた。
持ち主のもとへ還る先を持たない緒だ。
――つまり、もう生きていない人のものだ。
わたしは、その緒の先を目でたどった。
いちばん端のレーンを、ひとりだけ若い体が泳いでいた。
ほかの誰より速く、ほかの誰より楽しそうに。
高校生のままで。
「……あの子のことを、ご存じですね」
わたしが言うと、戸田さんの肩がびくりと跳ねた。
「浅井、いうんです」
声が急にかすれた。
「同期でね。いちばん速かった。……あの夏の、県大会の予選で、死にました。このプールで」
わたしは口を挟まなかった。
ただ待った。
「あの日、あいつ、朝から顔色が悪かったんです。唇が、紫っぽくてね。ふらついてた。……気づいてました、わたしは」
戸田さんは自分の膝を見ていた。
「でも、言わへんかった。棄権させたらリレーが組めへん。あいつが抜けたら次のアンカーは、わたしやった。……勝ちたかったんです。あいつが沈んでいく水のなかで、わたしは自分の出番のことを考えてた」
言葉がそこで途切れた。
膝の上で、戸田さんの手が固く握られている。
「ずっと、恨まれてると思ってました。毎晩ここへ来るのも……たぶん、恨まれに来てるんです。そうでもせんと、釣り合わへんから」
夜のプールでは、しぶきのない泳ぎの群れが静かに行き来している。
わたしは、端のレーンの若い体をもういちど視た。
その念に棘はなかった。
重たい澱みも、刃のような冷たさもない。
あるのは、まっすぐなひとつの願いだけだった。
「浅井さんは、あなたを恨んでいません」
戸田さんが、はじかれたようにこちらを向いた。
「この念には、恨みがひとかけらもありません。あるのは、ひとつだけ。――みんなと、もう一度、泳ぎたい。それだけです」
戸田さんの顔がゆっくりと崩れた。
大の大人が声を殺して、子どものように泣いた。
わたしは目をそらした。
こういうとき何を言えばいいのか、わたしにはわからない。
謝りなさい、とは言えなかった。
黙っていなさい、とも言えなかった。
恨まれていないと知って楽になることが、許されることなのか。
それとも、いちばんずるいことなのか。
わたしには決められない。
「恨んでいない、と。それだけ、お伝えしました」
わたしは立ち上がった。
「あとは、あなたが決めることです。詫びるのか、胸にしまうのか。……わたしの、領分ではありませんから」
◆
プールは予定どおり壊される。
群れも、そのうちひとりでにほどけるだろう。
寄る辺が無くなれば、みんなそれぞれの暮らしへ帰っていく。
最後にもう一度泳いだことも、たぶん覚えてはいない。
帰りぎわ、わたしはいちど振り返った。
戸田さんはまだスタンドにいた。
いつのまにか立ち上がって、いちばん端のレーンのすぐ隣に立っている。
若い体は、その隣のレーンを戸田さんと並ぶようにゆっくりと泳いでいた。
追い越しもせず、置いていきもせず。
ただ、並んで。
赦しているのか。
それとも、もういちど誰かと並んで泳ぎたかっただけなのか。
視えなかった。
◇
帰り道、夏の夜のぬるい風を自転車で抜けながら、わたしは考えた。
わたしも、いろいろなものを置いて家を出た側だ。
置いてきたものが、いまどんな顔でわたしの背中を見ているのか。
それはたぶん、振り返っても視えない。
寝不足は、肌に出る。
わたしは首をすくめて、ペダルを踏みなおした。
レポートの締切のことは、もう訊かないことにした。




