第12話 最後のプール(前編)
その晩、刑事さんの車が停まったのは、街はずれの古いプールの前だった。
舗装の割れた田んぼ道の先に、ヘッドライトを浴びた錆びたフェンスがぬっと現れる。
十年前に廃校になった県立高校の、屋外プールだという。
来月にはきれいに取り壊して、跡地には大きな薬局が建つらしい。
校舎は窓が何枚も割れ、夏草が二階の高さまで伸びていた。
夜風がその草をいっせいに鳴らしていく。
夏の夜なのに、この一画だけ、空気がひんやりしている気がした。
「水泳の、強い学校やったらしいわ」
刑事さんがフェンスの錠を外しながら言った。
「取り壊しの下見に来た業者が、青い顔で帰ってきてな。夜中に、大勢で泳いでる、て」
「大勢で」
「何十人もや。なのに門は閉まったまま、駐車場には車一台ない。気味が悪いから、重機を入れる前にいっぺん視てくれへんか、と」
わたしは欠伸を噛み殺した。
夏休みだというのに、わたしの夏は締切とこういう夜とでできている。
すれているわけではない。
ただ、お金がないだけだ。
◆
フェンスをくぐると、塩素の抜けたあとの湿ったコンクリートのにおいがした。
昼の熱を吸ったタイルが、まだほのかにぬるい。
遠くで夜の虫が細く鳴いている。
昔はここも、子どもの歓声でいっぱいだったのだろう。
二十五メートルのプールが、月明かりの下に横たわっていた。
水はあらかた抜かれて、底のくぼみに苔の浮いた黒い水がたまっているだけだ。
飛び込み台は塗装が剥げ、コースロープも外されている。
レーンを示す白い線は、ところどころ消えかけていた。
水のなかった日々のほうが、よほど長かったはずのプールだ。
とても泳げる水ではない。
なのに。
その浅い淀みの上を、いくつもの人影がすうっと滑っていた。
クロールの者がいる。平泳ぎの者がいる。背泳ぎで、ぼんやり夜空を見ている者もいる。
白いしぶきも、息継ぎの音もない。
たくさんの体が当たり前のように、もう無いはずの水を掻いてレーンを行き来している。
(うわ……すごい数)
顔には出さない。
けれど内心のわたしは、フェンスにしがみついて声にならない悲鳴をあげていた。
音のない泳ぎは、ただの幽霊よりもずっと怖い。
みんな楽しそうに見えるのが、よけいに怖かった。
(早く帰りたい。お風呂、入りたい)
ひとりやふたりの幽霊なら、もう見慣れた。
でもこれは違う。
夜のプールがまるごと、生きていたころに戻ってしまったみたいだった。
わたしは息を整えて、目を細めた。
泳ぐ人影の一つひとつから立ちのぼる、念の緒を探す。
ふつう、こういう場所の念は一本の太い緒を持っている。
土地に、残された物に、亡くなった誰かに、まっすぐ繋がっているものだ。
けれど、ここのは違った。
無数の細い緒が泳ぐ体から立ちのぼって、夜空のずっと上で一本に束ねられている。
その一本をたどると、今度は逆に何十本へと枝分かれして四方へ伸びていく。
北の山へ。海を越えそうな遠くへ。
(散らばってる。ここの念じゃない。みんな、よそから来てる)
はじめて視る形だった。
多すぎて、どこから手をつけたものか見当もつかない。
ひとり分の未練なら、たどればいい。けれど、これは群れだ。
「……あんたも、視えるくちか」
ふいに声がして、わたしは飛び上がりそうになった。
フェンスの内側、色あせた観覧スタンドに男の人が腰かけていた。
五十には少し手前だろうか。
地味なポロシャツの胸もとに、すっかり色の褪せた水泳帽がひとつぶら下がっている。
現役のころから、ずっと同じ帽子を使ってきたような色だった。
「戸田さん、いいます」
刑事さんが横から小声で教えてくれた。
「この学校の卒業生でね。水泳部の、卒業生の会の世話役さんや。取り壊しが決まってから、毎晩ここに来てはるそうで」
戸田さんは泳ぐ人影のほうを見たまま、動かなかった。
怖がってもいない。
むしろ、ずっと誰かを待っていた人のような静かな顔だった。
「来てくれると、思ってました」
誰に向けた一言なのか、わたしにはわからなかった。




