第11話 おかえりの場所(後編)
「化けて出る、とは違います」
わたしは言った。
「この子は、誰も呪っていません。祟ってもいません。ただ、待っているだけです」
「待ってる……なにを」
「あなたを、です」
相沢さんの顔がゆがんだ。
奥から、エプロンをつけたお母さんが出てきた。
わたしたちを見て、それからたたきのあたりへ目をやって、小さく息をのんだ。
「やっぱり、いるのね。マル」
お母さんには、はっきり視えてはいないらしい。
それでも、長く一緒に暮らした家族には、気配だけはわかるようだった。
「あの子、最後の半年はね、足が立たなくなって」
お母さんはたたきを見たまま、静かに話しはじめた。
「おむつを替えてごはんを口まで運んで。夜中に何度も起きて、外の風に当ててやって。それでもあの子は、いつも玄関のほうばかり見てた。寝たきりになってからも、ずっと」
お母さんは、エプロンの裾をきゅっと握った。
「夕方になると、決まって玄関で鳴いたの。あなたが学校から帰ってくる、その時間。……もう何年も、帰ってこないのにね」
相沢さんがふいに口を挟んだ。
「……だから、言っただろ。施設に預けるか、いっそ早く楽にしてやればよかったんだ。母さんが、いつまでも家で抱えこむから」
声がとがっていた。
「ぼくは忙しかったんだよ。就活もあったし、こっちにも生活がある。母さんがちゃんと診てれば、こんな……こんなふうに玄関で迷ったりしなかったはずだろ」
声を荒らげた相沢さんの足もとで、影がそっと身を縮めた。
責められているのが自分だと、思ったのかもしれない。
それでも、逃げなかった。
わたしは相沢さんを見た。
人はうしろめたいとき、いちばん面倒を見た人を責める。
自分の代わりに重いものを持ってくれた手を、いちばん強く払いのける。
わたしにも、覚えのある理屈だった。
いちばん近くで支えてくれた人を、いちばんに切り捨てる。
そうすれば、自分の番が来なくて済むから。
「面倒を見た方を責めるのは、便利ですわ」
言ってから、わたしは小さく舌打ちした。
「……便利です。手を汚さずに済んだ人ほど、よくそうおっしゃる」
相沢さんが息を止めた。
「いいですか。この子の緒は、毎日世話をしたお母さんのほうへは伸びていません」
わたしはたたきから坂道へ伸びる、あの届かない緒を指でなぞった。
「ずっと、こちらです。門の外。あなたが帰ってくる道のほう。……世話をしてくれた人ではなく、置いていった人を、この子は待っていました」
相沢さんの膝がかくんと落ちた。
玄関の段に、崩れるように座りこむ。
「犬は、ずるくありません」
わたしは続けた。
「いちばん優しくしてくれた人ではなく、いちばん一緒に遊んだ人を覚えている。河原を走った夏や、布団にもぐりこんだ冬を。……子どものころの、あなたを」
影がゆっくりと、相沢さんのほうへ近づいていった。
膝のあたりに鼻先を寄せて、においを確かめるように。
たしかめて、それからほっとしたように、すとんと伏せた。
帰ってきた人の足もとで、犬がいつもするように。
言葉のない念だ。
だからわたしが、代わりに渡すしかない。
「マルは、あなたを恨んでいません。怒ってもいません。ただ、おかえり、を待っていただけです。一年も二年も、ずっと」
相沢さんの肩が震えた。
握った拳の上に、なにかがぽたりと落ちた。
丸めた背中が、子どものころの大きさに見えた。
わたしにはこれ以上のことはできない。
謝りなさいとも、撫でてあげなさいとも言わない。
言葉のない待ちぼうけに言葉で応えるかどうかは、この人が決めることだ。
「あとは、あなたです」
わたしは立ち上がった。
◆
靴を履きなおして、わたしは外へ出た。
玄関の中から、低いかすれた声が聞こえた気がした。
言葉になりきらない、なにか。
ただいま、だったのかもしれない。
ごめんな、だったのかもしれない。
聞かないことにした。
あれはわたしが、立ち会っていい場面ではない。
坂を下りる途中で、いちど振り返った。
玄関の薄明かりのなかで、あの影はもう坐っていなかった。
消える前にいちど、尻尾のあたりがふわりと揺れたように見えた。
うれしかったのか。
それとも、長く張りつめていたものが、ほどけただけなのか。
視えなかった。
言葉のない念は、最後まで、言葉をくれない。
それでも、なにかがほどけた夜だったのは、たしかだ。
◇
帰り道、夏の終わりのぬるい風を自転車で抜けながら考えた。
わたしも、いろいろなものを置いて家を出た側だ。
どこかの玄関で、誰かが、あるいは何かが、いまもわたしの足音を待っているのかもしれない。
門のほうばかり見て、雨の日も、ずっと。
……知りたくなかった。
わたしは首をすくめて、ペダルを踏みなおした。
ツクツクボウシが、もう少しで鳴きやむ。




