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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: KASANE
大学生編

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第11話 おかえりの場所(前編)


 その人は、講義のあとでわたしを呼び止めた。


 同じ語学のクラスにいる、相沢さんという三年の先輩だ。

 いつも後ろの席で寝ているような人だった。

 名前と顔がやっと一致したくらいの相手が、その日はやけに青い顔をしていた。


「きみ、視えるって、ほんと?」


「噂は、噂です」


 わたしは答えをはぐらかした。

 ただで人助けをするほど、わたしの夏休みは暇でも裕福でもない。


「お金、出すから。少しだけど」


 その一言で鞄を置きなおした。

 すれているのではない。

 ただ、お金がないだけだ。


「実家にね、帰ったんだ。お盆に。何年かぶりに」


 相沢さんは自分の手のひらをじっと見ていた。


「玄関に……いるんだよ。死んだはずの、うちの犬が」



 相沢さんの実家は、電車を乗り継いだ先の古い住宅地にあった。


 夏ももう終わりかけだ。

 蝉の声はいつのまにかツクツクボウシに変わっていた。

 昼の熱はまだ残るのに、夕方の風だけが秋のにおいをしている。


 わたしが視てきたのは、いつも人の念だった。

 犬の念を読むのは、はじめてだ。

 人とどうちがうのか、正直、見当もつかなかった。


 駅から続く坂道を上っていくと、低い生け垣に囲まれた平屋が見えてくる。

 どこにでもある古い一軒家だった。


 わたしは先輩のあとから、その門をくぐった。

 古い金属の門が、きいと鳴いた。

 その音に玄関の奥で、なにかがはっと顔を上げた気配がした。


 玄関の脇に、犬小屋がひとつ置かれている。


 屋根の木はすっかり色が抜けていた。

 入り口の縁には、内側から掻いたような細い爪あとが残っている。

 中の毛布はきれいに畳まれ、空の餌皿がその横に伏せてあった。

 もう長いこと使われていないのがひと目でわかる。


 夏の盛りなら、庭で水遊びでもしていそうな家だ。

 いまはその庭にも、人の気配がなかった。

 軒先の風鈴が、舌をなくして、ただ揺れている。


「マルって、いうんだ」


 相沢さんがぽつりと言った。


「ぼくが小学生のとき、もらってきた。柴の雑種で、よく走るやつでね。……去年の冬に、死んだ」


 わたしは玄関の前で足を止めた。


 いた。


 たたきの上に、薄い影のような形がちんと座っている。

 背筋を伸ばし、耳を立て、鼻先をまっすぐ門のほうへ向けて。

 誰かの帰りを待つときの、犬の座り方だった。

 ぴくりとも動かない。

 ただ、門のほうだけを見ている。


 (……ずっと、こうしているんだ)


 顔には出さない。

 けれど内心のわたしは、その小さな背中に少しだけ泣きそうになっていた。


 人の念には、言葉がある。

 後悔とか、未練とか、伝えたかった一言とか。

 わたしはいつもそれを、一枚ずつ剥がして読む。


 でも、この子の念には言葉がなかった。


 わたしは人にするように、言葉をさがして緒にそっと触れた。

 けれど、めくるべき層が、どこにもない。


 代わりに、においが流れこんできた。

 小さな子どもの、手のにおい。

 雨あがりの土を蹴って、河原を駆けた記憶。

 言葉ではなく、からだの記憶が、そのまま緒を伝ってくる。

 この子にとって相沢さんは、「帰ってくるにおい」そのものだったのだ。


 あるのは、においの記憶と、足音への期待と、門へ向いた一つの向きだけ。

 犬は理屈で待ったりしない。

 帰ってくると信じて、待つ。

 ほんとうにそれだけだった。


 わたしは念の緒の先を、目でたどった。


 うっすらと死の匂いがする。

 この子はもう生きていない。


 なのに緒は、切れていなかった。


 たたきの影から細く伸びて門を抜け、坂道のほうへ――相沢さんが帰ってくる道のほうへ伸びている。

 ただ、その先は宙に浮いてどこにも届いていない。


 届くはずの足音が、長いあいだ帰ってこなかったからだ。


「あの、さ」


 相沢さんは玄関に入るのをためらっていた。


「気持ち悪い、よね。死んだ犬が、こんなふうに化けて出るなんて」


 その声に、影がぴくりと反応した。

 立てていた耳が、相沢さんのほうへすっと向く。


 待っていた足音がやっと帰ってきた。

 そういう、耳の動きだった。

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