第11話 おかえりの場所(前編)
その人は、講義のあとでわたしを呼び止めた。
同じ語学のクラスにいる、相沢さんという三年の先輩だ。
いつも後ろの席で寝ているような人だった。
名前と顔がやっと一致したくらいの相手が、その日はやけに青い顔をしていた。
「きみ、視えるって、ほんと?」
「噂は、噂です」
わたしは答えをはぐらかした。
ただで人助けをするほど、わたしの夏休みは暇でも裕福でもない。
「お金、出すから。少しだけど」
その一言で鞄を置きなおした。
すれているのではない。
ただ、お金がないだけだ。
「実家にね、帰ったんだ。お盆に。何年かぶりに」
相沢さんは自分の手のひらをじっと見ていた。
「玄関に……いるんだよ。死んだはずの、うちの犬が」
◆
相沢さんの実家は、電車を乗り継いだ先の古い住宅地にあった。
夏ももう終わりかけだ。
蝉の声はいつのまにかツクツクボウシに変わっていた。
昼の熱はまだ残るのに、夕方の風だけが秋のにおいをしている。
わたしが視てきたのは、いつも人の念だった。
犬の念を読むのは、はじめてだ。
人とどうちがうのか、正直、見当もつかなかった。
駅から続く坂道を上っていくと、低い生け垣に囲まれた平屋が見えてくる。
どこにでもある古い一軒家だった。
わたしは先輩のあとから、その門をくぐった。
古い金属の門が、きいと鳴いた。
その音に玄関の奥で、なにかがはっと顔を上げた気配がした。
玄関の脇に、犬小屋がひとつ置かれている。
屋根の木はすっかり色が抜けていた。
入り口の縁には、内側から掻いたような細い爪あとが残っている。
中の毛布はきれいに畳まれ、空の餌皿がその横に伏せてあった。
もう長いこと使われていないのがひと目でわかる。
夏の盛りなら、庭で水遊びでもしていそうな家だ。
いまはその庭にも、人の気配がなかった。
軒先の風鈴が、舌をなくして、ただ揺れている。
「マルって、いうんだ」
相沢さんがぽつりと言った。
「ぼくが小学生のとき、もらってきた。柴の雑種で、よく走るやつでね。……去年の冬に、死んだ」
わたしは玄関の前で足を止めた。
いた。
たたきの上に、薄い影のような形がちんと座っている。
背筋を伸ばし、耳を立て、鼻先をまっすぐ門のほうへ向けて。
誰かの帰りを待つときの、犬の座り方だった。
ぴくりとも動かない。
ただ、門のほうだけを見ている。
(……ずっと、こうしているんだ)
顔には出さない。
けれど内心のわたしは、その小さな背中に少しだけ泣きそうになっていた。
人の念には、言葉がある。
後悔とか、未練とか、伝えたかった一言とか。
わたしはいつもそれを、一枚ずつ剥がして読む。
でも、この子の念には言葉がなかった。
わたしは人にするように、言葉をさがして緒にそっと触れた。
けれど、めくるべき層が、どこにもない。
代わりに、においが流れこんできた。
小さな子どもの、手のにおい。
雨あがりの土を蹴って、河原を駆けた記憶。
言葉ではなく、からだの記憶が、そのまま緒を伝ってくる。
この子にとって相沢さんは、「帰ってくるにおい」そのものだったのだ。
あるのは、においの記憶と、足音への期待と、門へ向いた一つの向きだけ。
犬は理屈で待ったりしない。
帰ってくると信じて、待つ。
ほんとうにそれだけだった。
わたしは念の緒の先を、目でたどった。
うっすらと死の匂いがする。
この子はもう生きていない。
なのに緒は、切れていなかった。
たたきの影から細く伸びて門を抜け、坂道のほうへ――相沢さんが帰ってくる道のほうへ伸びている。
ただ、その先は宙に浮いてどこにも届いていない。
届くはずの足音が、長いあいだ帰ってこなかったからだ。
「あの、さ」
相沢さんは玄関に入るのをためらっていた。
「気持ち悪い、よね。死んだ犬が、こんなふうに化けて出るなんて」
その声に、影がぴくりと反応した。
立てていた耳が、相沢さんのほうへすっと向く。
待っていた足音がやっと帰ってきた。
そういう、耳の動きだった。




