第10話 よるの望遠鏡(後編)
逢坂さんは、生きていた。
北川さんに調べてもらうと、すぐにわかった。逢坂は、実家にいた。大学は籍だけ残して、半年、一歩も外に出ていない。
理由は、北川さんもはっきりとは知らないという。ただ、四年になって就職活動がうまくいかなかったらしい、とだけ。
研究室でも、サークルでも、いつのまにか彼の居場所は、ひとつずつ消えていった。誰も追い出してはいない。ただ、誰も引き止めもしなかった。
わたしは、もう一度、夜の部室に来た。
夜のほうが、念はよく見える。
在室ボードの名札から、細い緒が、一本のびていた。
死のにおいがするのに、その緒は切れていなかった。ぷつりと終わってもいない。どこか遠くの、生きている人のところまで、ちゃんとつながっている。
わたしは、それを、長いあいだ見ていた。
死霊の緒には、死のにおいがする。けれど、緒は切れている。還る体が、もうないから。
生霊の緒には、死のにおいはしない。生きている人の念は、あたたかいから。
でも、この緒は、どちらでもなかった。
死のにおいがして、それでいて、生きている人につながっている。
生きているのに、死んでいる人のにおいだ。
もう自分は終わったと、本気で思っている人の、においだった。
「逢坂さん、何があったんですか」
わたしは、暗いボードに向かって、聞いてみた。
返事はない。けれど望遠鏡が、きい、と小さく動いて、また夜空を探した。半年前の星を、まだ観ているみたいに。
◆
北川さんは、ボードのほうを見ないようにして、立っていた。
わたしは、その手元を、視ていた。
彼の指先からも、緒がのびていた。生きた、あたたかい緒。逢坂さんの名札に巻きついて、毎晩そっと「在室」へ動かしていた。
「あなたですね」
わたしは言った。
「毎晩ここへ来て、逢坂さんの名札を、在室に戻していたのは」
北川さんの肩が、跳ねた。
「……気づいたら、やってたんです。朝には不在になってて。だから、戻して」
「逢坂さんが、まだここにいることに、しておきたかった」
北川さんは、答えなかった。
わたしは、ことばを選ぶのをやめた。選んだら、噓になる。
「心配、ですか」
わたしの声は、自分でも、すこし冷たかった。
「あなたが在室に戻していたのは、逢坂さんのためですか。それとも、追い出した自分を、なかったことにするためですか」
北川さんの顔が、ゆがんだ。
「……半年前。おれが、言ったんです。来ないなら、部長代わってくださいって。新歓の名簿、人数が合わないからって」
声が、震えていた。
「正直、ほっとしたんです。あの人がいると、みんな、気をつかうから。なのに――名札を見るたび、それが」
言葉が、続かなくなった。
わたしは、それ以上は、問わなかった。
言ってしまえば、わたしはこの子を責められる。でも、わたしにその資格があるのかは、わからない。
わたしも、ある場所からいなくなった人間だ。家を出て、振り返らないことにした。残された誰かが、わたしの名札をどうしているのかも、知らないままで。
いなくなる側は、いつも、自分のことしか考えていない。残される側のことは、視えても、わからない。
「祓えますか」
北川さんが、すがるように言った。
「祓えません」
わたしは言った。
「これは、逢坂さんの念です。生きている人の念は、わたしには切れない。鎮めることは、できます。望遠鏡も名札も、もう動かなくなる」
わたしは、桃木剣の先を、緒の根もとに当てた。死のにおいが、すこしやわらいだ。
「でも、それだけです。念は鎮められても、人は連れ戻せません。逢坂さんを、ここに戻せるのは――わたしじゃ、ないんです」
◆
北川さんは、長いあいだ、ボードの前に立っていた。
それから、自分の手で、逢坂さんの名札を、つまんだ。
今度は、こっそりではなかった。
彼は、その名札を、「不在」の欄に、ゆっくりと貼りなおした。
半年ぶりに、正しい場所に戻った名札は、ただの、白いマグネットに見えた。死のにおいは、もう、しなかった。
望遠鏡が、ことん、と力を抜いて、ふつうの角度に戻った。
「……連絡、してみます」
北川さんは、ボードを見たまま、小さく言った。
「出てくれるか、わからないけど」
わたしは、うなずいた。
出てくれるかどうかは、わたしにも、視えなかった。
逢坂さんが、また星を観に来るのか。それとも、名札が不在になったことすら、知らないままなのか。
北川さんの「連絡」が、謝罪になるのか、言い訳になるのか。
視えなかった。
わたしの目は、念は視えても、人と人のあいだに、これから架かる橋までは、視せてくれない。
◆
帰り道、冬の夜空は、よく晴れていた。
学食の、いちばん高い日替わりは、けっきょく食べそびれた。
空には、星が出ていた。半年前も、たぶん、同じ星が出ていた。
誰かがいなくなっても、星はいつもどおりに昇る。それが、やさしさなのか薄情なのかは、わたしにはわからなかった。
寝不足は、肌に出る。
わたしは、首をすくめて、自転車をこいだ。




